人民の敵、ベリア(98/1/4)


*Kremlin guard reveals how he shot hated Beria
An executioner of the chief of Stalin's secret police ends enduring mystery

ベリア(Lavrenti Beria) の死の真相が明らかにされた。この人知る人ぞ知 る、有名な人のようです。私は知りませんでした。 (^^; まあ40年以上前 に処刑された人のようですし、現在興味を持ったり知っている人はほとんどい ないと思いますが、読んでみたら面白かったので、書いておきます。

どうやらスターリン政権下で、KGBの責任者として知識人を粛清し、300万人も の人々を収容所に送り、スターリン死後の一時期その後継者とみなされたこと もあるようです。フルシチョフとの権力闘争に敗れ、ソ連内部でも、犯罪者・ 裏切り者の烙印を押された。国外では当然イメージはよくない。いわば世界中 で嫌われていた人物、それがベリアのようです。ところが一方では、彼は死ん でいない、アルゼンチンに逃れたという伝説も根強く生き残っていたようで す。どうもアルゼンチンは独裁者の天国と思われているようですね。この記事 は、彼を自ら処刑した人物が語る真相だと言うわけです。

ベリアの死の真相は今まで少しは明らかにされているが、全体像は分からなか った。ベリアの息子は、ベリアは逮捕当日に処刑されたと言っている。しかし エリツィンもまだKGBのすべての文書を公開していない。公開するにはまだ国 家の威信を損なうような多くの文書があるということなのでしょうか。

現在83才になるHizhnyak Gurevichは、ベリアの逮捕時にも、そして6カ月後の 死の瞬間にも現場に居合わせ、さらには拘禁中も彼の世話をし続けていたとい う人物。ベリアを火葬にし、その灰を強力な送風機でまき散らしたのも彼。い わばベリアという人物の最後を語るには打ってつけの人物と言うことになりま す。この人、スターリンを愛し、ベリアを尊敬していた人物のようです。ベリ アがおかした犯罪は何も知らない。ベリアを命令によって処刑したことに、か なりのショックを受けたようですが、その彼が今初めて真相を語ると言うわけ です。

ベリアはスターリンと同じグルジアの生まれ。1938年にモスクワに呼ばれ、 KGBの前身NKVDの責任者となる。一時は原爆開発の最高責任者でもあったよう です。彼はKGBを根城に、20世紀の冷酷な独裁者の後継者たらんとした。ここ でdictatorsと複数となっています。スターリン・ヒットラーがこの中に含ま れることは確かですが、まだいるでしょうか。若い女性を護衛に誘拐させた rapistでもあり、torturerでもあった。実際5年前、モスクワの彼の家近くの 建設現場から犠牲者達の骨と考えられるものが発見されている。

とにかくGurevichが語る事実を見ていきます。時は1953年6月。Gurevichはス ターリングラードの戦闘、ベルリン陥落に参加したベテランで、当時赤軍の 少佐。6月26日に彼は50人の信頼すべき部下のリストを渡され、重武装するよ うに言われる。この時までにフルシチョフは最大のライバル、ベリアを失脚さ せるべく、そして自分がソ連の最高指導者になるべく十分な支持を打ち立てて いた。

会議が開かれ、そこでベリアは裏切り者として逮捕される。これは彼にとって は予期しないことだったようで、ポケットには赤インクで書いた自分の護衛宛 のalarmというしわくちゃのメモが見つかったようです。Gurevichたちは、逮 捕されたベリアを護送するものたちの護衛を命令されたわけです。もちろん Gurevichは、最後の最後までベリアが逮捕されるということは知らなかった。 スターリンに次いで権力者であった人物が逮捕されたことで、Gurevichはショ ックを受けるようです。このへんはソ連の軍人は律儀正しいというか、なかな かクーデターを起こしませんね。 (^^;

真夜中にベリアを乗せた黒塗りの車はクレムリンを離れる。ベリアは車の中 で、自分を逮捕した人物達に取り囲まれ跪いたまま、モスクワの中心街にある 地下室に護送された。地下室はもちろん厳重に警戒され、Gurevichは攻撃を受 けたらベリアを処刑するようにという命令を受ける。その後の6カ月間、 Gurevichもまた一種の囚人だった。ベリアの隣室で寝起きし、彼のすべての面 倒を見なければいけなかったからです。2つの部屋はベルで結ばれ、ベリアが 何かしてもらいたいときにはそのベルをならしたわけですね。

時が立つに連れて、ベリアとGurevichはお互いが好きになってきた。ベリアは 最初はGurevichをMishaと呼び、自分は無実ですぐ釈放されるから、そのとき はGurevichの面倒を見てやるなどと言っていたようです。しかし時と共に死を 覚悟していくようです。

Gurevichはベリアの裁判ごとに彼を護衛して行くわけですが、1953年11月に警 備が厳重になってきた。死刑判決後、執行までは記事からは分かりませんが、 即座に行われたような感じです。ベリアはGurevichに自分の一人息子を捜して 真相を話してくれるように頼む。彼は全体的に見て、死を比較的冷静に受け入 れた。権力闘争を戦ってきたものとして、威厳ある行動を取ることは知ってい たようです。

空軍少将のBatiskiiが、近距離でベリアを撃った。それからGurevichや仲間の 将校達が2ヤードのところから、発射した。どうもGurevichが空軍少将に次い で、発射したようですね。日常の世話をさせていた者までも、処刑に立ち会わ せるということは、少し残酷のような感じもしますが、このへんは何か考えが あるのでしょうか。

ベリアの処刑後すぐに、彼の部下だった者の多くが処刑された。大ソビエト百 科事典の編集者は読者に、ベリアの項目を剃刀で切り取るようにと通知を出 す。さらにベーリング海Bering Seaの解説をベリアの上に張り付けるようにと 送ります。まあこうした歴史的ねつ造はよく行われていたのでしょうが、とに かくこれ以後ベリアの名前はソ連史の中では単なる犯罪者としてしか扱われな かった。

スターリンを敬愛する者は、現在でも多いが、ベリアは数千人の死を招いた犯 罪者としてしか扱われていないようです。Gurevich自身は、現在でもベリアを 気の毒に思っているようです。彼はベリアの息子に、死の真相を知らせる手紙 を何通も書いたようですが、息子は信じようとはしない。彼は元ミサイル科学 者で、現在はキエフで年金生活を送っているようです。いつかKGBのすべての 文書が開放されたとき、父親が犯罪者でなかったことが分かる、と堅く信じて いるようです。しかしともかく息子は生き延びたのですね。



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