高沢皓司 宿命


 

高沢皓司 宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作 新潮社 1998年8月発行

これも年末にかけて一気に読んだ本。タイトルには少しは心引かれたが、あまり期待はしていなかった。しかし綿密な取材と推理力によって書かれたこの本は、読者を一気にその世界に引きずり込んで行く。私は500ページあまりのこの本を、いつしか残りのページ数が少なくなるのが惜しくなるほど、夢中になって読んでいた。

よど号ハイジャック犯たちの25年間を描いているのだが、彼らの発言とその記録の矛盾点を通して、この25年間の彼らの発言がいかに事実とかけ離れた政治的発言であったかが暴かれて行く。ヨーロッパや日本などでの政治的活動、それぞれの妻との出会い・結婚に関するロマンス話し、日本人女性拉致、そして仲間の消息に関する公式発言がいかに事実と異なって捏造されたものであるかが明らかにされて行く。一部作者の想像もあるのだが、さまざまな裏づけを持つだけに、説得力がある。

この本を読んで感じたことはある種の信条・思想の持つ傲慢さだろうか。もとより既成の権威に反するイデオロギー時には常識のからをうちやぶらなければならない。だからと言ってすべての信条・思想が危険なはずは無い。しかし確かにある種の政治的宗教的ドグマの持つ恐ろしさと言うものがある。それを今流行りの言葉で軽がるしく洗脳などと言うことは出来ないと思うのだが、確かなことはそこでは普通の人間関係は成立しないと言うことだ。宗教的政治的信念がすべてに優先し、それと矛盾する人間関係は切り捨てられて行く。思想信条が違えばもとより同志ではなく、時として人間でさえない。それは過去長い間生活を共にしてきた友であってさえ、そうである。だから選良主義は偏狭とドグマの世界に固執していても、それに気づくことさえない。

最近は宗教的カルトの暴走ぶりが目立つのだが、この本を読んでみてもかつて日本にも政治が若者たちの大きな関心事であった時代があった事が良く分かる。いや、私自身それを経験した世代でもある。だからこそ彼ら亡命者たちの心情の一部は理解できる。当時の時代精神のなかに理想主義と選良主義の結びつきが確かにあったのだ。そしてそれらが結果としていかに非人間的な悲惨事を引き起こすかも、また経験したことだった。

よど号ハイジャック犯たちの亡命先が北朝鮮だったということも、その運命に大きな影を落としている。だが彼らに将来を見とおす能力は無かった以上、それが彼らの宿命だったのだろうか。もしも最初検討されていたキューバであったなら、それが成功したか否かは別にして、かなりかれらの行き方も変わっていただろう。

彼らは北朝鮮に亡命したのだし、そこで生きねばならない。そして北朝鮮には普通私たちの使う意味での政治的自由があるとは思えない。ただしこれも今だから言えることなのかもしれない。時代が彼らの亡命後25年間の間に急激に変化した。ベルリンの壁崩壊に象徴される社会主義の敗北は、この世からユートピアの幻影を見ることを許さなくなったように見える。だが現実に反逆する精神が消えたわけではない。それは今では、宗教的カルトの中にだけ存在するのだろうか。時代の影が彼らに予想もしない経験をさせることになったのだ。

「生きるも死ぬもともに」と誓い合った9人の亡命者たちのうち3人は既にこの世にいない。95年11月に心臓麻痺で死んだとされる田宮高麿の場合にも不審な点は感じられるが、あとの2人の場合は明らかに変死である。個人的良心をも抹殺する体制のもとで、かつての同志の周知の下で、誰にも知らされず死んで行った。そして残された亡命者たちは彼らの死を何年も隠し、あるいは美辞麗句の哀悼の辞さえ書くだろう。個人の死など来るべき革命を実現するためには考慮に値しない。歴史的必然の法則が貫徹する中では、個人とはいつでも取替えのきく存在に過ぎないのか。その裏に見え隠れするのは人間の弱さと政治的教条主義の怖さである。

そう言えば私が今思い出しても象徴的な出来事がある。かつて連合赤軍事件の中で、私が一番ショックを受けたのは、彼らが一袋のインスタントラーメンが原因で、自分たちの同志たちを総括と言う名のリンチ殺人で処刑したことだ。このエピソードが事実だったのかどうか、事件当時に聞いただけで、それから長い間全然見聞きしたことは無いから分からない。ただそのエピソードを聞いたとき、私の中で既に仮死状態であった何かが死んだ。

最近はかなり悲惨な事件や悲劇を聞いても悲しいかな、あまりショックは受けない。時代の風潮もそうした事件の背後にあるものまでは深い興味を持たないようだ。確かなことは理想主義が限りなく敗退を続けていると言うことだろうか。だからこの本を読んでも、そんなにショックは受けなかった。彼ら亡命者たちの動向にそんなに詳しくない私でも、彼らが北朝鮮で果たさざるを得ない役割は大体予想がついていたから。しかし事実としてはっきりと語られると、やはり驚く。カルト集団に入った人たちの運命にはどことなくおかしさを感じるのだが、もしかしたら実際の運命は同じなのかもしれない。特にサリン事件の実行犯はそうなのかもしれないと、思うようになった。

話しを元に戻すと、よど号亡命者たちはどうやらかなりの優遇を受けていたらしい。彼らの公の発言とは違って、金日成・正日親子の直接の支配下にあったらしい彼らの待遇に関しては、かなり贅沢だったらしい。北朝鮮では貴重品であるみかんを始めとして、正月用に彼らが受け取っていた食べ物が列挙されている。彼らを世話をする服務員の妻が亡命者たちの食べ残したみかんの皮を拾っているのを見つけたときのエピソードもまた象徴的だ。それを見つかったことでおびえた女性は、みかんの皮が薬になるのだと説明する。

みかんの皮が薬になるという言葉を受けて、亡命者たちは次から朝鮮人民に贈り物をするために、わざわざみかんを食べた後の皮を取っておいてそれを与えるのである。恐らくは彼らにとってはこれは語るに値する大きなすばらしいエピソードなのだろう。作者は書いていないが、最初から亡命者たちにはみかんを分けてあげようと言う発想は無いし、もともとエリートであると信じている自分たちの生活が他の朝鮮人から見たら、ものすごく贅沢なものであることにも気づかない。それに彼らが仮に朝鮮人民との友好とか団結を考えていたとしても、彼らの置かれた環境の下ではそれが実現できるはずも無かった。

初志をあくまで貫こうとした岡本武と吉田金太郎はおそらく非業の死を遂げている。否、作者がある程度の人間的共感を持っていたと思われるリーダーの田宮高麿の死さえはっきりとした死因はわからない。真実はすべてが政治的プロパガンダの闇の中に隠れている。政治的人間や宗教的人間にとって真実とは、あくまでもその思想・信条に基づく真実でしかないのだろう。個々の出来事など大義の前には些細なことでしかない。だから事実と異なることであっても、それが彼らの思想を実現するためにより正しいのならば、それが真実となる。

もとより絶対的真実が人間社会にあるのかどうかは私にも疑わしい。現代の社会はグローバル化が進む中で、集団の細分化も進んで行っている。そのうち世界は事実ですら万人によって共有されなくなるのかもしれない。最近のさまざまな事件を見ていると、常識そのものがもう共通のもので無くなりかけている。もちろんこれは体制派・反体制派とかいうレベルの問題ではない。そうではなく同じ言葉を使いながら、そこには最初からコミュニケーションが成立していないのだ。それを洗脳されたとかそうでないと騒いでも、空しいだけだ。そんな時に各自が自分が正しいと信じる事実を信じたとしたらどうなるのだろう?ミイラを生きていると主張したり、科学的な理論を学校で教えることを拒否する風潮が強まったり、これまでの常識が通用しなくなる。

この本を読みながら考えたことはいろいろあった。思想的に違う亡命者たちの考え方に共感することは無いのだが、それでもかつては世界革命の理想に殉じようとした彼らの、政治に翻弄される運命の残酷さのようなものは伝わってくる。私はそこに悲哀を感じるのだが、おそらくそれは正しくないのだろう。こう感じること自体が多分私の感傷性と無思想性の現われなのだろう。多分私自身の想像力が枯渇しかけているのだろう。ただ私は私なりの読書しかできない。そうした意味ではいろんな意味で楽しめた本だった。

「俺が、あの男をオルグするんだよ、そして断固として日本に帰って来るんだよ」田宮高麿の楽天主義はあまりにも無邪気だった。それから約30年間、彼と彼の仲間はその男とその男の息子の手厚い庇護下にあり、彼らはその男の忠実な信奉者となった。それを拒否すれば精神的肉体的抹殺を受ける社会の中で生きねばならなかった彼らには他の選択肢は無かったろうとは思う。しかし彼らの活動がここまで明かされた以上、多くの人には最後の幻想もはがれたのだと思う。

よど号亡命者たち関連のニュースとしては、正月早々元・日経記者のスパイ騒動がある。彼らはまだ独裁者にとっては大いに役立ってくれると言うことなのだろうか?

2000-01-04



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