時代を読む


まさに今この時代を描いた作品を3冊続けて読んだ。1は去年の9月、2と3は今年出版された本である。

1. 日吉平而 漂流する中学生 文芸社
2. 喜入 克 高校が崩壊する 草思社
3. 関谷 透 帰宅拒否 PHP研究所

3冊の本からは中学生・高校生・中高年男性の苦悩が伝わってくる。1の中学生のものは現役中学教師が書いた現在の中学校を舞台にした小説である。今の中学生にとって、こうした荒れる学校は別段珍しくもないのだろう。比較するものを持たなければ、それが平凡な日常なのだから。昔では考えられなかった状況が、学校で起きているわけだが、田舎に住む私でももう驚かない。こうした現象は多かれ少なかれ、地元の一部の中学校ではほぼ日常の風景だから。

2の高校に関する本については、都立の高校がここまでひどいとは思わなかった。都会の公立高校のレベルがダウンしているという話は聞いてはいたが、九州では、まだ一部の例外を除いて県立高校に意欲がある優秀な生徒が進学する。勉強や部活動、あるいは文化祭・体育祭などに関してもまだまだここで描かれている状況までは行ってないと思う。ただし荒れた中学から進学してきた高校生たちにとって、高校がここで描かれているようになったとしても、なんら不思議ではないかもしれない。

3に述べられているような中高年のサラリーマンの帰宅拒否症やら出社拒否症が増えているのも聞いていた。そうした意味では豊富な事例を突きつけられても、あまり驚きはなかったが、こうしてまとめて3冊の本を読んでみると、やはり時代が大きな転換期にさしかかっていることが分かる。小学生の学級崩壊から始まって、切れる中学生、無気力な高校生を生み出す社会がこのままいつまでも続くのだろうか?こうした不安定な社会が長続きするとは思えないが、どうした形で安定していくのか、まだ先は見えないと思う。

おそらくもう過去には戻らない。しかし、来るべき社会は少なくともこれから5年か10年間というスパンで考えるならば、私たちの世代にとっては辛いことになるのかもしれない。私自身は、個人的にはそう悲観もしていないところがあるのだが、やはりかつての「良き時代」はもう戻らないと思う。これは昔からある単なる世代の葛藤では無いのだ。私たちが経験しているこの変化は、人類史上でもかな大きいものになると私は思う。

インターネットとサイバー空間が生み出すものは、現実感覚の喪失、あるいは変容なのだろうか?個人は過去や地域の伝統を失い、見知らぬ空間をさまようのだろうか。その時世界のなかに、自分の居場所を求めることが出来るか否か。私は抽象的な人間などは存在しないし、ましてや抽象的国際人も無意味だと思っているが、もしかしたらこれからの時代はますます偏狭な地域主義者と根無し草の国際人という極端に分化した人間像を生み出すのかもしれない。

ヴァーチュアルな世界もまた一つの現実になろうとしているとき、それにのめり込むか、それを無視するか。これは単なる二者選択の問題ではないと思うのだが、もしかしたら私たちの社会はそうした新しい未来を迎えるに当たって、ソフトランディングに失敗するかもしれない。個人的には好奇心が旺盛な私のことだから、今はまだ暢気な気分でいるけれども、あと10年後どのように感じているかは、あまり自信がない。

1999-12-16



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