真説「聖書」・イエスの正体


聖書関連の本を読んで見ました。イエスの真実に迫る、ミステリーみたいな ものです。まあ、真実は読み終わった後でも、必ずしもはっきりしないのです が。

*ラッセル・ショート 高杉利数解説・杉谷浩子訳 真説「聖書」・イエス の正体 日本文芸社 H.12.9.25
  科学的にとらえた奇跡と復活の謎

福音書を中心に描かれているイエス像は果たして、事実なのか?一体イエス とは誰だったのか?こうした研究が、欧米諸国では急速に高まっているらしい。 かつての流れとしても啓蒙思想家やジェファソーンの、極めて合理的な新約解釈もあったが、現状はそれを超えてはるかに大きな流行となっているらしい。

その昔聖書を読んで、どうもおかしいと思ったこと、あるいは素直に受け取 れなかったこと、などなどが皆ここでは論点に上っている。その昔、私が読んだ 数少ない解説書では、そうしたところを比喩的・象徴的表現としたり、あるいは 「なぜイエスは人類のために磔刑に書せられなければならなかったのか」という 宗教的解釈論に無理やり引きずりこんでいて騙されたように感じたが、この本を 読むとそうしたことはキリスト教聖職者の多数をも含めて、やはり素朴な 疑問であったらしい。

処女降臨、さまざまの奇跡などは歴史的事実でなかったとは既にカトリック の保守的神学者をも含めて今や多数派であるらしい。さまざまなイエス像が考え られているとはいえ、この本を読む限りは当時のユダヤ社会の底辺に生きた、一人の風変わりな政治的反抗者とでも言うべきものがおぼろげに浮かんでくる。

福音書そのものが同じキリスト教の内部闘争の間で、現在の4つの福音書が 正典とされ、他のより古い事実を含む「トーマス福音書」を始めとする多くの資 料、それらはイエスを知る人の見聞を書いているものだけに、よりイエスの実像 に近いと思われるが、それらが無視されて行く過程は面白い。

旧約と新約の関連、その関係も実際は良くわからなかった。しかしこの本を 読むと、福音書の編集者たちが、異教徒たちに対して、あるいは同じキリスト教 徒の他の派に対して、自分たちの組織を守るべく旧約の中から、必死で事実を粉 飾して行く過程がわかる。旧約全体、なかんずく私の感想では「詩篇」や「イザ ヤ書」などは、福音書を書くに当たって一番参考とされたがゆえに、今までもいろいろと言われたのだろう。私たちに示されたのと歴史の前後関係を逆にしたものこそ、真実であったのだ。

聖書の中でユダヤ教徒のなかで、「パリサイ人」や「サドカイ派」が繰り返 し糾弾されているのも、紀元70年のユダヤ戦争の敗北によるユダヤ社会の崩壊を念頭に置けば、なるほど納得できる。ここでユダヤ人たちは、民族の存亡の危機に立たされた。そこで自分たちの伝統を厳しく守ろうとするパリサイ派の力が有力になったことは理解できる。多分キリスト派との激しい内部闘争があった。そのために、そうした他派を批判する文言が編集者たちの手によって書きこまれなければならなかった。

あるいは、キリストを処刑する場面の描写において、さらに年月が経ってか ら、多分ユダヤ人ではないキリスト教徒の手によって、ピラトの判断をゆだねら れた処刑の場にいあわせたユダヤ民衆に「その血の責任はわれわれと子孫に」と叫ばさせたと言うフィクションを作り上げ、この気まぐれが以後2000年のユダヤ人迫害を作り上げたとするなら、なんと言う馬鹿らしさだろう。処刑前後の多くの描写は、復活も含めて、後生のフィクションであるらしい。

そして恐らくはイエスが思ってもいなかった、ユダヤ人迫害、さらには教会 という組織を通じての神との対話、という歴史をその後のキリスト教は取りつづ けていく。エッセネ派の思想とキリストの思想に似通っているものがあるのは以 前から指摘されていた。さらには多分よりキリストの教えに近かったであろうグ ノーシス派も、肉体復活論・教会至上主義者とでもいうべき一派との、その後の 内部闘争で敗れて行く。歴史に「もしも」ということはないけれど、コンスタン チヌスが、キリスト教の一派をローマ帝国の国教にしなかったら、どうなったかわからない宗教的状況の中で、ペテロ派キリスト教徒が権力を握って行 く。この辺は私の好きな「背教者ユリアヌス」で、辻邦生も描いていた。

この本はいろんな解釈材料を提供しているだけだし、そう考えない人はもち ろん多い。紳学校で、こうしたイエス像に触れた牧師もやがては、実際の信者と 触れる中で、そうした考えを封じ込んで行く。しかし一方で確実に多くの人々が、新しいイエス像を求めている。イエスが神ではなかったからといって、彼を尊敬しないということにはなるまい。仏陀も老子も人間的弱さを持っているが、彼らが魅力的な尊敬すべき人物であることに変わりは無い。

聖書は行間を読め」という教えの中に、今まで多くの妄想を蓄えてきたキリ スト教も、全貌は明らかにならないにせよ、少なくともさまざまなことがわかる ようになるのかもしれない。宗教という信仰の世界を理性でどこまで解釈できるかの疑問は残るが、人間の諸活動に超神秘性を間単に付与することは,やはり感心出来ないと思う。

2000-10-13



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