カレル・ヴァン・ウォルフレン  怒れ!日本の中流階級


*カレル・ヴァン・ウォルフレン著 鈴木主税訳
怒れ!日本の中流階級 毎日新聞社 1999年12月20日発行

私にとっては初めて読む著者の最新本である。ウォルフレンの名前はあちこちで見かけていたが、手に取った事は無かった。今までにも日本についての何冊かの本を書いていて、かなり話題になったようだ。本来なら日本人論は私が関心を持っているテーマだからとっくに読んでいても不思議はないのだが、今まで、不思議と縁が無かった。この本を図書館で手に取ったときも、一瞬他の著者と勘違いをした。原題はBourgeoisie--The Missing Element in Japanese Culture Political Cultureである。

日本には政治主体となるべき中流階級が今まで存在しなかったこと、そのために日本独自のシステムが重く日本人にのしかかっていて、明るい未来への展望を持ち得ないでいること、しかし官僚支配を打破し、政治家が国民を真に代表することによって可能性は開けてくること、そのためには中流階級が政治を担うような日本にしなければいけないことなどが書かれている。著者はオランダ人だが、今まで読んだ日本人論と違うのは、著者がこの本では、はっきりとした提言を示していることである。これまでは外国人ということもあって、これほどまでに率直な意見は示してこなかったのではないかと思う。作者も今までに書いた日本に関する6冊の本への反響を通して、自信と日本への愛情をより深めてきているようだ。

著者がここで言うブルジョアジーとは、古典的な意味での資本家ではない。というよりも著者は日本には封建的支配を打ち破った革新的な階級としてのブルジョアジーは存在しなかったと思っているらしい。日本語訳のタイトルに中流階級とあるとおり、支配階級でもなければ、下層階級でもない層のことである。自分たちの意見を通じて日本を変える可能性を持っていながら、現在の日本では政治的な影響力を行使することの極めて少ない層のことである。具体的には都市のサラリーマンを中心とする層なのだろうが、必ずしもそれに限る必要はあるまい。それにここでは所得に応じてそうした区分けをしているわけでもないようだ。女性や子供たちが、システムの外にいるようなことも書かれているから、そうした人々も含めて、支配階級で無い日本人というようなかなり広い意味で使われているようだ。

日本のシステムと言うことにも関連するのだが、日本には公と私の区別が無いということも言われている。ここで云う公は「ある特定の利益集団の利益」に対する意味で使われていて、単純に政府とか地方自治体と言うことではないようだ。もちろん官僚のことではない。「公共の利益」は社会全体のためになるものだし、それは一部支配階級の追求のものであってはならず、だからこそ中流階級の価値規範が国家の政策の基準にならなくてはならないと言うわけだ。この意味で日本にはまだ真の意味でブルジョアジーは出現していないが、その可能性はあるというわけだ。いわば多くの日本人が、自分及び日本の運命を切開く存在足りうる存在になれるぞというメッセージなのだろう。著者は準戦時体制とも云うべき生産重視の経済から、消費重視の経済への移行も強調するのだが、こうした点も含めてそう簡単に意識変革が出来るだろうか?

作者は官僚組織に関連して、日本には純粋な意味での民間の分野は存在しないということも言っている。これは多くの許認可権を行政が握り、それと引き換えの天下り、あるいは各業界団体の存在などを考えているようだ。民間もその指導層の官僚組織に牛耳られていると言うわけだから、日本は二重の意味で官僚組織があると云う。労働市場が極めて閉鎖的なことも問題としてあげている。だから厳密な意味での自由競争や公平性はいわゆる民間にも存在しないというわけだ。面白い考えだし、確かに産業活動やその他の対しての規制が多すぎるとは多くの人が感じていることだと思う。

それにこの日本的システムは歴史的な背景を持つから、中流階級は政治変革の可能性を見つけることが出来ず、政治からの逃避を選ぶ。例えば私たちが良く使う「仕方がない」という発想からは、何も展望は見えてこない。五木寛之の「大河の一滴」を初め、「善の研究」など多くの日本の知識人の言動が、システムを変更するのではなく、むしろそれを補強することにしか役だったなかったこと、などもあげられている。口先だけで、反体制的な言動を弄しても、現在のシステム温存から利益を得ているる支配階級には何ら打撃にはならないと言うわけだ。さらにマスメディアも現実の問題点を把握しながらも、次善の策として現状を肯定し、建設的な議論を提供しなかったとして批判する。

「自己達成的予言」self-fulfilling propheciesなる言葉も紹介されている。悲観的な予測をしたがために、そのような結果を招くという意味で、いわばマイナス思考の典型だろう。プラス思考のおめでたい楽観主義だけでは、問題は何一つ解決しないが、そうした悲観論は単なる幻想だけでなく、希望をも捨てよといっているのだと著者はいう。もちろん現状の市民社会の成果を破壊するような革命を目指す発想も、日本では実現すると言う可能性は無いし、かえって政治的な無気力感をもたらすだけだ。

作者が指摘している事実の中には、聞きなれたものもあるが、なるほどと思ったものもある。その中でも、日本の失業率が実質的には10%以上なのだが、派遣労働という形でごまかされているということ、中高年のリストラは彼らの若い時の賃金未払いという形の社会契約の違反だということは印象に残る。それとバブル時及びそれ以後の後始末が大多数の国民の犠牲の上に築かれたこと、それを官僚やマスコミなどの現状のシステムから利益を得るものが隠し続けてきたし、そのことによってより日本のシステムはいびつなものになっているとも言っている。

日本社会には最初から自由がそんなに少なかったのだろうか?民主主義は会社の玄関で立ち止まる、と云ったのは長洲一二だったか。日本的経営の3種の神器といわれた、終身雇用、年功序列、企業内組合はいずれも今崩壊しようとしている。70%の未組織労働者を抱えて、景気変動の安全弁としての下請け・孫請け企業の上に立った生産至上主義。さらに教育も優秀な労働者を作ることを目的とし、新卒者には専門性を求めず企業内での仕事に適応できるように訓練してきたから、サラリーマンも自分の労働能力を市場性のあるものにすることは出来ない。会社のためにすべてを尽くしてきたのに、最後には裏切られる。少々類型化した発想だが、こうしたシステムでは人間は幸福ではないと言うことなのだろう。

日本で新しくビジネスを始めるときの困難性もあげられている。閉ざされたビジネス・ネットワーク、売り手寡占的な市場寡占コントロール、系列に見る支配関係などなど…この辺は、確かに超えなければ行けないハードルは日本の方が高いようだ。

著者の意見に首を傾げたくなったところもある。日本以上にアメリカ資本主義は冷酷な面を持っている。今好況を言われる中にあっても、こと貧富の差に関する限りは拡大しているらしい。それにどの先進国であっても、未来に対する一種の閉塞状況はあるような気がする。政治への無関心もほぼ一般的な傾向のようだ。著者ももちろんこうした事実は承知の上で議論を展開しているのだが、日本の特殊性がそんなに大きいものかどうか。ただ日本の場合、国民の求める変化への対応がすぐには反映されず、そのうち忘れ去られ、そのままになってしまう。システムそのものがあまりにも過去の遺物を引きずっているのかもしれない。時代の要請に即座に対応できない官僚機構の問題点は、今あちこちで露呈しつつある。変革の時代は官僚主導では乗り切れないというのは、正しいだろうと思う。

この本は、日本の未来をあきらめてもいないし、革命によって現実を変えようとも考えてもいないが、それでも現実をより「幸福な社会」の方向へもっていけると信じている日本人への応援歌なのだ。私たちがとりうる選択はそんなに多いとはいえないが、それでも政治を変えることで、私たちの人生もまた変わりうることを示唆している。

50%以上が支持政党無しの現代、選挙の度に低投票率が続いている。私自身が政治に関心を無くして、かなりたつが、確かに政治はドラマ性があって面白いはずである。何回かそうした風が吹きかけたようにも感じたが、その度に政治家自身が裏切ってきた。しかしもし政治家が本当に国民の声を代表し、それを実行に移すならば、日本にはまだまだ大きな可能性があるのだ。そうした意味で、この本は政治に絶望してはいけないという私たちへの熱いメッセージなのだ。

これから再び新しい風は吹くのか?成熟した民主主義のためにも、そうなることを祈りたい。

2000-2-15



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