水木 楊 東京独立共和国


 

*水木 楊 東京独立共和国 文藝春秋 1999年10月10日発行

東京が日本国から独立を宣言するという話である。どうやらこの時代首都は東京から移転して、中部地方のどこかにあるらしい。こうした小説もSFというべきなのか。しかしSFとは、どことなく違うような気がする。かつて堺屋太一が2020年か30年頃の日本を舞台にした小説を朝日新聞に連載したことがあったが、どことなくそれに近い。

データ小説とでもいうべきものである。出版されたのが、2カ月くらい前だから、もちろん最新情報を取り入れている。それに小説の前半には、多くの用語の解説が載っている。まあこうした意味では、少しは現代の政治経済の勉強にはなるかもしれない。

東京が独立して、東京の住民は半数以上が東京国民でなくなるのだが、そのどたばたぶりは、なかなか面白い。こうしたことをあまりほじくるべきではないのだろうが、この物語だけならば、中編SFとしてもなかなか面白いかなと思う。

問題があるとすれば、中盤くらいであろうか。後半部は物語の展開だけで楽しめるから、別にそうした背景などはどうでもよくなる。しかし中盤頃の展開は少し苦しい。SFならば、最初からそう受けとめるから、どんな奇想天外なストリーでも別に違和感はないが、こうした「ありうべき現実」を真面目に描く作品では、そうはいかない。現実とあまりかけ離れたストリーになると少ししらけてくるのではないかと思う。そうした点から言うと、やはり東京国と日本政府の対立をについて語る中頃が、かなり説得力にかけるような気がする。

その原因としては、あまりにも旧藩意識を強調していることと、各県知事をいかにも強力なリーダーシップを持った人物として描きすぎたことにあるのではなかろうか。

私は小藩や天領が合併した長崎県に住むものであるから、そうした旧藩意識がどれだけ強いのかどうかはよく分からない。多分そうした意識を引きずっている人は仮にいたとしても、今では圧倒的に少数だろうと思う。だからいくら東京や他の県の独立の根拠を探すとしても、ここで明治維新時の時にまで遡るのは、やりすぎのようである。いくつかの場所で触れられる三多摩の帰属が、今となっては東京であろうと、神奈川であろうと、埼玉であろうと、そんなに強力なアピールを人々にもつものかどうか。このへんが例えば、九州などの大きな地方単位の独立で、それに独立の理由づけをもっと別なところに持ってきたならば、案外面白かったかもしれない。

各県知事の名前が、いかにもそれらしいのはまあ許せるとして、東京に対立する日本国の警察公安関係者がいずれも鹿児島出身というのも笑ってしまった。それと東京に同調するか否かは、先祖が幕府側か倒幕派のどちらであったかでまず決まるらしい。このへんのアナクロニズムは、迫真性というか物語から緊張せいを失わせるような気がする。

もう1つ説得力に欠けるのは、各県の知事があたかも大統領のような権限を持っていて、その県のすべてを取り仕切っているかのような印象を受けることだ。確かに知事の権限はかなり強いとはいえ、日本の場合ここまでの決定権は持っていないし、日本人の意思決定がすぐに変わるとは思えない。しかも東京の知事やそのスタッフが善で、神奈川や埼玉の知事は腹黒かったり、日和見主義だと言うのも少し気になる。まあここは前の旧藩意識よりは、気にならないと思うが。

発想自体はとても面白い。私も中学生のとき我が小さな島の独立を考えたことがあった。少年の日には、そうしたことを考えるような人は結構いるのではないだろうか。それにGDPなどから見たら、確かに東京の経済規模より小さい国はいくらでもあるわけだから、なかなかいい思いつきだと思う。

物語の入り口と後半部分は、かなり楽しめた。これは読み進むにつれて純粋の物語として読んだから出はないかと思う.だからこれを最初から純粋のSF小説として読めば、別に違和感はないと思うのだが、あまりにもリアルな事実をいろいろ与えられるから、途中で少し興ざめするところが出て来るのだと思う。しかしこの作品も一気に読み上げた。

とにかく東京の独立宣言を機に日本の各県は皆独立して、日本は連邦国家に移行すると言うわけである。私はこうした未来はまずないと思うが、都市と田舎の分裂、あるいは世代間の対立が日本国家の分裂をもたらすような近未来は、可能性としては十分あり得るかもしれない。これは同一国家内での分裂なのだから、事態はさらに複雑になるだろう。

2000-1-19



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