林 秀彦 日本を捨てて、日本を知った


林 秀彦著 日本を捨てて、日本を知った 草思社 1999年6月発行

日本の生活に絶望してオーストラリアに移住した著者の憂国の書、とでも言ったらいいのだろうか。著者はかつて売れっ子のシナリオライターだったらしい。私も「ただいま11人」とか「7人の刑事」とかいう番組は、かすかに覚えている。

なかなか面白く読んだのだが、感想を書くとなるとなかなかまとまらない。少し時間を置いて読破したせいかもしれないが、どうもはっきりした物言いの割にはあまり論点が良く分からないのである。

個々のエピソードを聞くと、なるほどと思うのだが、日本の異質性を強調し、日本の将来に絶望しているかのような発言のあとに、日本人こそ世界の将来の指導者であり、日本人の脳は先天的に外国人とは違っており、世界は日本を必要としているなどといわれると混乱してしまう。阿吽の呼吸に象徴されるような日本人の心というかテレパシーこそ将来の地球などには必要だというような考え方が私には出来ないからかもしれない。

もちろん個々のエピソードは良く分かるし、多分にあり得ることだと思うし、さらに日本人のもつ短所や長所もある程度は分かる。作者と違って私の場合は、外国人との交流という経験がほとんど無いだけに観念的な考えだろうという気はするけれども、それでも日本人がそこまで世界の中で異質の存在だろうか、という感じはやはり残る。遺伝子に組み込まれた精神が日本人とアングロサクソンとは根本的に違うと言っても、私にはやはりどこか奇妙な感じがするのだ。

私も日本の可能性を信じている人間であるが、そんなに日本人が異質だとは思えない。もし作者が言うように日本人の脳が世界一頑固ならば、海外に移住した日本人がそんなに簡単に現地化するとは思えない。タイの山田長政や江戸時代にフイリッピンに追放された日本人キリシタンは、当時かなりの日本人社会を形成していたはずだが跡形もなく消えてしまった。明治以来の日本人も比較的容易に現地の社会に溶け込んでいったのではないのか?脳の問題はさておくとして、精神的頑固さという点から見たら、ユダヤ人や中国人の方がはるかに上だという気がする。

同じ事実を見ても、人によりそれぞれの見方が違うのは当然だ。面白いと思ったり、同じ感想を持つ箇所も多いのだが、どうも作者の人間観は固定しすぎているのではないか。私は人間の感情や思考が、文化・宗教の影響は受けるとしても、基本的なところは世界の地域によってあまり変わらないと考える人間である。どの民族にも過激派もいれば穏和な人々もいる。だから確かに日本人が外国人の文化や精神構造に無知なところがあるのとを認めるとしても、それをあまりにも強調しすぎるのはどうも違和感を感じる。私はつい外国人も多分同じようなものだろうと感じてしまうのだ。ethnic jokeが日本人には分からないとしても、それに日本人がどうやら楽天的性善説の信奉者であるらしいとしても、そのうち日本人も徐々に世界の中の日本人という意識を持てば、変わって行かざるを得ないだろう。別にそこに深い危機を持っていない。おそらく多くの摩擦はあるだろうし、いくつかの悲劇もあるかもしれない。しかしそれをいたずらに過大評価するののがいいものかどうか。

作者はオーストラリアに住んでいる関係上、外国人というのはアングロサクソンを念頭に置いているとは思うが、日本という国をあまりにも特殊視している。私もときどき失われたユダヤの10部族を日本人の先祖と空想したりする人間ではあるし、まあ日本に生まれたことを幸運に感じる人間でもあるから、その気持ちは分からないではないが、やはり日本人特殊論をあまりにも強調しすぎるのはいかがなものかなと思う。

ただ確かに日本は歴史的・自然地理的に見て幸運な国であるのではないかとは思う。かつて本多勝一・山本七平氏の間にもそうした論争があって確かに論争的には本多氏の側に理があるように思えたのだが、それでも日本が恵まれていたという感じは今でも変わらない。世界の他の地域の歴史と風土の中には、信じられないくらい過酷なものがあるから。ただしやはりある土地に住む人にはそこの風土が当たり前だし、別に日本をうらやましいとは思わないだろうと思う。違う人生があるからこそ面白いのではないのか。

日本人の考え方も急速に変わっている。私も、ときどき若者の考え方は理解できないところもあるし、さらに落ち込めば将来に暗澹たる気分になることもある。しかし例えば私たちの世代が育ってきた文化的教養・雰囲気が無くなってもこれがそのまま日本の滅亡にはなるまい。大正デモクラシーなどは、私たちの世代にも遥か遠い昔だったが、少なくとも私たちの世代にはその時代の残影というか一般教養的な知への憧れがまだかなり存在していたようにも思う。しかし多分私たちの世代が途絶えたとき、かなり多くのものが失われるような気がする。それが良いことなのか悪いことなのか、単なる世代の変遷と言うにはあまりにも多くの喪失が伴うような気がするが、多分それを避けることは出来ないだろう。

もちろん知的好奇心は今の世代にも形を変えてあるのだが、やはり情報化・グローバル化という大波は確かに何かを変質させたのと思う。それにアメリカ文化が大きな影響を及ぼしているから、日本人の意識が大きく変わってしまったのも事実だと思う。もう人々はアメリカ文化を受け入れることに何の抵抗もないようだ。というよりもアメリカ発信の文化こそ優れたものであり、アメリカのものならば何でも正しいというのが現代の風潮なのだろう。これは世界的な傾向のようで、私は世界が多様性を失うのは必ずしもいいこととは思えないのだが、当分はこの傾向は止まないだろう。

坂口安吾の堕落論が日本の堕落のきっかけを作り、その彼は進歩的知識人であったというのは本当なのか?それに司馬遼太郎の文章思想はすばらしいものであり、高校生までは彼の作品だけを学べば人文科学の分野の教科書は1冊も要らないと言うのも、一種のレトリックだとしても個人的嗜好をあまりにも全面に出しすぎてはいないか?私は堕落論を嫌いだし、それにそれが作者が言うような大きな影響を与えたのかどうかは実感できないのだが、作者はあまりにも社会と人間を短絡的に考えていないか。司馬遼太郎の作品は私も少しは読んでいるし、嫌いな作家ではないが、私はそこまでのめり込めなかった。大体私の場合昔から評判の高い本の良さがどうしても分からないことが何度もあったから、そのうちそれぞれの人が違った評価をもつのが当たり前だという結論に落ちついた。

というより作者は書物の世界や抽象的な観念だけで、実際の社会や人間をを判断する過ちを犯していないのか?葉隠に代表される武士道精神が日本のココロであったというのも私には疑問がある。さすがに日本文化の精髄は多数決できまるとは私にも思えないし、ある文化の精髄は限られた人物や思想に体現されるものだということまで否定しない。しかし葉隠精神が日本の代表的精神とは思えないのだ。葉隠精神が生活者の思想でなかったことが、その大きな原因であるが、そもそも葉隠精神というのが一つの大きな虚構では無かったかと思っているのだ。こうした武士道精神がはたして本当に武士社会に一般的であったのかどうか?

さらに作者は日本イメージの最良のものとして「東京物語」に代表される世界を考えているようだが、私には「東京物語」の世界も1つの虚構にしかすぎないと思えるのだ。現実はもっと動的なような感じがする。ただ思い出すのは大分前にこの東京物語が現代風にアレンジされてTVドラマ化されたことがある。その中で私の記憶が正しければ、老夫婦は我が故郷五島列島の出身だと言うことになっていた。

この本で著者がいうココロ文明と物質文明の対立という対比もあまりにも単純化しすぎてはいないか?私も日本人はもう少しおのれの文化や歴史に自信を持つべきだと思うし、そしてそれに値するものを我々は持っているとも思う。だが、それはいたずらに自己を特殊化することではなく、ましてや過去を固定化することではないような気がする。

それに作者は日本の最良の精神を持って、西洋の最悪の精神と対比し、あるいは逆に日本の短所と西洋の長所を対比させてはいないか?ここでは何を日本の最良のものとするのかについての議論の余地はあるにせよ、武士道やら、「東京物語」やら、司馬遼太郎やら、広辞苑やら、これらが少なくとも日本の良質の文化の一面を表しているのは間違いない。しかし外国の文化や人物として紹介されているのは、人種主義者ポーリン・ハンソンやごねどくを信条とするような、人間的にもあまり上等とは思えない人物ばかりではないか?それらは作者が自分の経験から学んだものであり、日本人の知らない外国人の実状だと言いたいのだろうが、やはりこうした比較はどこかおかしいのではないか。

私も日本人論とか日本文化論とかの類は好きだから、少しは読んできた。それに自国の文化的背景を持たない国際人というものも信じないのだが、それにしても人間はそんなに違うものなのか?利害関係が絡めば、日本人同士でも、醜い争いはするし、それに先祖代々の憎しみが遺伝子に刷り込まれるのは何もロミオとジュリエットだけではあるまい。国家観の争いは日本が島国であったという僥倖が幸いしてあまり経験しなくてすんだのだが、かつて家にまつわる怨念は、日本人にもあまりにも親しいものではなかったか。

同質性と相違のどちらを強調するかによって日本人論も大いに違ってくるだろう。個々人の気分もまたささいな経験で違ってくるかもしれない。

2000-1-8



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