池田 裕 旧約聖書の世界


 

池田 裕 旧約聖書の世界 三省堂選書 1992年1月発行

今までに聖書関係の書物は何冊か読んでいるが、これはその中でも一番感銘を受けたものの中に入る。あと何回かは読みなおしたいくらいである。図書館の本なのが少し残念なくらいだ。機会があれば自分で買って、手元に置いておきたい。

もともとは「人間の世界歴史」第1巻として、1982年に出版されたらしい。そして三省堂選書として新装出版されてからでもちょうど8年たっているから、そんなに新しい本と言うわけではない。しかし私は聖書の注釈本などは読まないし、また聖書専門書もほとんど読んだことは無いから、聖書学についても何も知らない。ただ旧約聖書といわれるものに関しては、預言書の一部は煩雑だから、かなりの未読部分が残っているかと思うが、一応のところは読んでいる。だからいわゆるモーゼ五書や初期預言書などに含まれる物語や逸話などについては結構親しんでいるほうかもしれない。

この本が今まで読んだ類書と著しく違うのは私の愛読書「伝道の書」を縦糸に書かれていることだ。この旧約の聖書の中では異質の書物でありあまり有名ではないと思われる「伝道の書」へのいわばアンチ・テーゼとして、旧約聖書の中心思想とは何か、ヘブライ精神とは何か、ユダヤ人とは何か、を明快に述べている。まあそこまで言いきる事はできないかなと思うが、とにかく全体の本の構成の底流にこの本が見え隠れしている。

だからこの書物は普通ありがちなように、旧約聖書のさまざまな書物を編集されている順に解説しているというようなことをしていない。テーマ毎に聖書の中の膨大なエピソードの中から、縦横無尽にそのときにふさわしい物を選んでくる。出典部分も毎回明記されているのだが、引用本が嫌いな私にもそれがひとつもじゃまにならない。多分作者が旧約を何回も読んでその内容を自己のものとしているからだろう。こうしたことはなかなか出来ることではないと思う。

いくつかの疑問も解けた。多分作者自身の考えであって、これが通説なのかどうかは知らないが、今の私にとっては十分である。

「伝道の書」は私にとっては常に謎の書であった。この異端の書が何故旧約聖書の中に含まれるのか、私自身いつも不思議に思っていたが、今まで明快な答えを出してくれたものは無かった。それがこの本を読んでいくらかは理解できた。それにいくつかの勘違いと言うか、新しい知識も知った。伝道者がソロモン王でなくコーヘレトというペンネームを持つ前3世紀後半に生きた人物らしいと言うことも始めて知った。もちろん私も作者がソロモンと思っていたわけではない。ただ旧約のかなりの書物がソロモン作と擬せられているということは知っていた。だから作中の伝道者の自己紹介もソロモンを念頭において書かれていたのかと思っていた。

極めて非ユダヤ的で、個人主義的なこの書がギリシアのヘレニズム文化の影響を受けているとは思わなかった。私は今まで仏教的色彩が強いから、東洋の思想の影響下で書かれた書物であると思っていたのである。非ヘブライ的、非ユダヤ的、非民族的とも思われるこの書物に書かれているような考えは、時にはユダヤ民族の心の奥底に涌き出ることもあるのだが、しかしユダヤ民族は絶えずそれを拒否して本来の自己に戻るのだとする着想はなかなか面白かった。こうした個人主義・国際主義・厭世主義の考えをも受け入れる寛容性もまたユダヤ民族の中にはあるということなのだろうか。

作者によっていわばユダヤ思想の対極にあるものとして否定されているコーヘレトの思想。しかしこれはまた作者の彼に対する深い愛着の現われでもあるのだろう。多くの思想家や文学者が書いていたのを呼んだ事はあるけれども、私はここまで「伝道の書」の意味を掘り下げた解説書を知らない。まあこれは私自身がもともと前にも言ったように、こうしたことに単に無知であるだけの事なのだが。しかし「伝道の書」を打ち消すような視点で旧約聖書を解説すると言う本は多分無かったのではないか。いわば自己否定と言うか、近親憎悪と言おうか、しかし多分そこまでは強い感情ではなく、多分愛憎半ばするという感情を持ってというのが真相だと思うのだが、ここには作者の「伝道の書」への深い愛着が見られる。

一般の旧約聖書の解説としては不親切だと思うけれども、個人的にはこうした解説は大歓迎であった。私のために書かれた本かと思ったくらいで、おかげで大変楽しく読むことが出来た。

最後は「雅歌」の説明で終わる。歌の中の歌、と言われる「雅歌」もまた男女の愛を歌い上げ、神と言う言葉が出てこないと言う意味でも聖書の中の書物としては極めて異質であるのだが、しかしその異質さは「伝道の書」とはいわば対極に位置する。山本七平の「日本人とユダヤ人」もその最後は「雅歌」で飾っていた。私は詩歌は翻訳ではその長所の半ばは失われると思っているが、これが最後に旧約の編纂過程で取り入れられたのは、その題材の親しみやすさもあったのだろうか。

前にも書いたように多くのエピソードの解説をしながら、しかもそこからヘブライ思想とは、ユダヤ人とは何かを解説してくれる作者の力量には感心した。それぞれの物語やエピソードにつけられた作者の説明もなかなか楽しかったが、それらはもう1度聖書そのものを読み直す時に思い返すことが出来るだろうか?

私は聖書の中では新約よりも旧約が好きである。それにこれまでも旧約を単なる宗教書とは思っていなかった。いろんなジャンルの本を含んだユダヤ民族の知恵の書と考えていた。この本を読んでまた時々は旧約聖書を開いてみようかと思っている。そう言えば私は英語版、日本語版それぞれに何種類かの聖書を持っているのだ。さすがに学生時代に買い求めたドイツ語版は今では飾り物に過ぎないが、英語版は近年読み易くなって、私もある人から贈られたのものを含め何種類か持っている。暇があったら又手に取ってみよう。

2000-01-05



感想はこちらに・・・・・・ohto@pluto.dti.ne.jp


ホームページに戻る 

読書室のページに戻る