民主主義は万能か(98/1/5)


久しぶりにNewsweekの記事の感想を書きます。1998/1/5からです。

*Doutbs about Democracy by Fareed Zakaria (p.26)

副題、というよりもリード部分がこの記事の要約みたいなものですから、少し 長いですが抜き出してみます。Most people now have the right to vote freely. But that's not enough if governments then trample on basic rights.民主主義と言うよりも、選挙が万能ではない、選挙で選ばれさえすれ ばその政府は民主的であるということにはならない、ということのようです。 まあ当たり前と言えば当たり前ですが、記事の最後の方にもありましたが、選 挙が自由・公平に行われば、その国の非民主的なところは無視して、民主国家 とみなす傾向が一般的にあるのかもしれません。

クリントンは今年1997年1月の一般教書(? State of the Union Message)の中 で、ついに世界の過半数の人々が民主主義体制の下で生活していると宣言した ようです。正確には54.8%らしいです。Thomas Jeffersonの「すべての人は平 等に造られている」は、現実に地球的規模の真理となった。しかし問題があ る。現実の民主主義は、醜い面を持っているということである。

例えばアメリカのある外交官はボスニアの選挙前に悩んでいた。「選挙が自由 で公正であり、しかも選ばれたものたちが平和と再統合に反対する人種差別主 義者や、ファシストや分離主義者であったとしたならば、どうなるのか」今年 行われた選挙結果は現実は、多かれ少なかれこの通りになっているようです。 ただこれはボスニアだけの問題ではない。

民主的に選出されたものが、憲法を無視して権力を濫用し、国民の基本的人権 と自由を奪う。これは西側諸国が過去1世紀の間に育んできた民主主義の観念 とは明らかに違う。西側では民主主義は、自由主義的民主主義とでも言うべき もので、自由で公正な選挙ばかりでなく、言論集会、私有財産・契約の自由が 認められ、法律の支配が保証されている。これに対しペルーからパレスチナ自 治政府、スロバキアからスリランカ、パキスタンからフィリッピンなどでは、 反自由主義的民主主義とでもいうべきものがが横行している。そこでは選挙は 行われているが、個人の基本的人権はほとんど守られていない。

大体のパターンは決まっている。国際的に監視された選挙があって、エリツィ ンやアルゼンチンのカルロス・メネム(Menem)などの人気のある指導者が大統 領に選ばれる。彼らは議会を無視し、大統領布告によって支配する。つまり彼 らは憲法で定められた政府の手続きを無視する。あるいは中東としては自由な 選挙で選ばれたイラン議会は言論・集会さらには衣服に対する厳しい制限を国 民に課している。旧ユーゴ、旧ソ連の一部、アフリカの大部分では選挙の結果 人種的対立が深まり時として戦争を引き起こした。国内に各グループの融合・ 調和の伝統がない国々では、選挙では人種的・宗教的な観点で代表を選びがち だ。

選挙と個人の自由の緊張関係はアメリカでも珍しいことではない。アメリカの 制度で明らかなことは、その民主義的な性質ではなく、非民主的な性質だ。な ぜなら多数の選挙民の意志が直接反映されているとは限らないからだ。アメリ カの最高裁判事は選挙によって選ばれない終身任期の9人から構成されてい る。上院はイギリスを除いて、世界でもっとも非民主的な上院である。人口に 関係なく、各州2名の上院議員を選出するから。だから人口48万1000人のワイ オミングと、3100万のカリフォルニアが同じ代表権を持っている。

アメリカの専門家は自分たちの制度を優れたものとは考えていない。少なくと も複雑なもの、やっかいなものと考えているようです。もっともアメリカの場 合チェック・バランス機能が働いているから、反自由主義的民主主義の多くの 問題点の改善に役立つことは確かである。憲法の背後にあるものは、権力が集 中することへの恐れだが、これは1789年と同様現在でも正しい。横暴な大統領 の暴走を防ぐのには、強い議会が必要である。たしかに権力の分散こそは、民 主主義の根幹でしょう。

アメリカ政府もいくつかの非政府組織も選挙はそれ自体が目的ではないという ことが分かってきた。自由市場、独立した労働の移動や政党、それに司法の独 立。こうしたものが大切だ。選挙そのものは公平な法治国家を生み出す過程で しかあり得ない。選挙だけですべての自由が保障されるとは限らないのだ。

そうした意味で、シンガポール、マレーシア、タイの東アジア諸国はあるモデ ルを与えてくれる。これらの国は偽物の民主主義国であり、一党独裁の国だと 批判されることも多い。たしかに選挙の自由が制限されてはいるのだが、国民 の安全や幸福の点では、多くの新民主主義国よりもよい環境が与えられてい る。結局のところ経済的・市民的・宗教的自由が、人間の自主性と尊厳の中心 ではないのか。西洋においても、歴史的に経済的自由と法律の遵守ということ が、普通選挙の前にあった。これら東アジアの国も同じ道、すなわち自由主義 的民主主義への道をたどっているのだ。それは自由のspillover effectといえ よう。最後のところは、東アジアが自由で公正な選挙を行うのは、時間の問題 だ、そしてそれは見せかけだけの民主主義ではないと言うことだと思います。

この記事は、Jeffersonの写真に釣られて読んだようなものです。最近彼の記 事を読んだばかりでしたから。だいたい本文の記事に沿って書いてあります が、例によって訳と言うよりは、論旨をこちらで解釈して勝手な意見等をつけ 加えて書いてあります。アジアの経済的危機のまっただ中で読んだこの記事で すが、東アジア(日本から見たら東南アジアといった方がいいかもしれません が)の将来は決して悪いばかりではない。アジアの価値感のあるものは、人類 の中で普遍的な価値を持ちうる可能性がやはりあるのだと、私も思います。



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