みすずの謎の詩


謎解きを楽しむ人は多い。小説で言えばミステリーに人気があるのも、そうした 謎解きの持つ意外さが脳を刺激するからだろう。ミステリーなどはわかりやすい が、謎解きも度を越すと時々とんでもない主張が出てくる。

ヘブライ版聖書には未来の全てが予言されているとかいう主張を、昔読んだこと がある。聖書の縦横斜めの文字を拾い読みすれば、世界史の重要な出来事が20 00年前に既に書かれていたというわけだ。古代ヘブライ後には子音しかないみ たいだから、どんなにでも解釈できる文字列もあるだろうとは思うが、そうした ことに情熱を傾けている人がいるわけだ。

そういえば一時期古代朝鮮語で万葉集とか日本書紀が全て解読できるとかいう本 もあった。韓国・朝鮮関係の本は結構読んでいる私だが、さすがにこれは読まな かった。古代朝鮮語の発音もはっきりしていないのに、それを牽強付会というか 強引にこじつける能力はたいしたものだと思ったくらいだ。世の中には案外こう した出来事は多いのかもしれない。

聖書の件では誰かが、ニューヨークの分厚い電話帳でも熱心に探してみれば、同 じように世界史の出来事が詰まっているだろう、と言っていたが私も似たような 結論である。

だからといって、もちろん全ての本などで筆者の託したメッセージが表に出され たものだけと思っているわけではない。時代の制約の中で、率直に作者の想いを 書き込めなかった本は、結構多いはずである。さらには民謡とか童謡などにも結 構意味不明な文言の中に何かのメッセージが隠されているのかもしれない。

私は短歌や詩などを読んでいても、表面上の意味のほかに隠れた意味があるので はないかと思うことがよくある。暗号のメッセージなどに関しては、「いろは」 歌についても以前読んだことがあるけど、詩歌には案外そんなところがあるのか もしれない。短歌は掛詞などやいろんな固有名詞とかで連想するイメージが個人 によっては違うから、昔の短歌では解釈は様々に分かれるときがあるが、これは 暗号というよりも単に読み取る実力が不足しているだけだろう。そうではなく明 確に暗号を使ったメッセージが、表面的に現れているのとは違った意味で隠れて いるような場合である。これなどは短歌が他の人に向けてのものであると同時に 極めて私的な意味合いでも詠まれる事を考えれば当然のことのような気がする。

詩に関して言うなら、私には去年から気になっている詩がある。みすずの童謡の 一編である。

金子みすずは、近年特に有名になって小学校の教科書などでもよく採用されてい るようだ。私も去年の一時期よく読んだ。ネット上でもかなり詳しいことが解かる。 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/misuzu0%2C.htm 以前このサイトではみす ずの詩が150篇近く読めたのだが、今はない。どうやら著作権の関係のようだ。 1930年死亡のみすずは著作権の対象外とも思われるが、矢崎節夫による発掘 で奇跡的よみがえったということが、まだ少しあいまいさを残しているのかもし れない。青空文庫も保留中なのはそういう理由によるのだろう。ただ北沢文庫で は今でもかなり読める。http://www.ftm.co.jp/bunko/

童謡歌人といわれる彼女の詩だが時として単なる子供向けのものとも思えない精 神性を見ることが時々ある。複眼志向と言うのか、普通常識的には思えないよう な詩を詠んだりしているのだ。

有名な大漁の詩でも、それまでは詠まれなかった詩だろう。雪という作品では、 雪を生き物として捉えている。それなら別に珍しくもないが、白一色のそれぞれ に個性を見つけ、兄弟姉妹と唄う。さらには上中下と区分けして、それぞれに語 りかける。彼女が背景にかなり深い仏教についての知識をもっていたというのは なんとなく解かる。これがみすずの特徴なのか、当時の時代背景なのかはよくわ からないが、大正から昭和初期の地方に生きた女性の一般像であったとは思えな い。

みすずの生涯は普通には薄幸な女性のものとして考えられているのかもしれない。 私のイメージとしても「野菊の墓」の民子像と重なるところもあった。ただ多く の人が力強さもその中に認めている。私も今では少しイメージが変わって時代を 先んじた革新性があったと思っている。みすずの詩は今でも読んで見て新しいの だ。当時の有名な童謡歌人の詩が今読んでみると時代の限界を感じさせるのと対 照的だともいえる。地方に根ざした生活者ではあっても、時代の主流に流されず に自分で考えぬいたみすずなればこそだったのかもしれない。

そのみすずの詩のひとつに「水すまし」という詩がある。

水すまし

一つ水の輪、一つ消え、
三つまわれどみな消える。

水にななつの輪をかけば、
まほうはあわと消えよもの。

お池のぬしにとらわれの
いまのすがたは水すまし。

きのうもきょうも、青い水、
雲は消えずにうつるけど、

一つ、二つ、と水の輪は、
一つあとから消えてゆく。

別にどこも不思議ではない。素直に読めばそのまますんなり頭の中に入ってきそ うな詩である。みすずの詩の中では有名ではないだろうし、この詩について書か れた文章も今まで読んだことは無い。ただ私はこれを読んでそこに漂う不思議な 虚無感みたいなものを感じた。単なる寂しさだけではなくて、絶望感にも通じる ようなものといったらいいのか。

「いまのすがたは水すまし」という中に込められた意味はなんだったのか。「水 にななつの輪をかけば、まほうはあわと消えよもの」だが、ななつの輪をかくこ とはできない。かいてもかいても消えていく輪。一応水すましを人間とすれば、 池は現世というか、生きている社会だろう。そうだとすれば、青い水に浮かぶ雲 に象徴されるものは仏教的な悟りのような解脱なのか。最初の三つの輪は前世・ 現世・来世?いくら生まれ変わっても悟ることは出来ない人間の宿命を詠ってい る?

想像なのか妄想なのかわからないけれど、やはり「ななつの輪」は気になった。 ふと思ったのが、七生報国。民族主義と連想してイメージされるこの言葉が、も しかしたら関係があるのかもしれない。調べてみると七生報国は吉田松陰の七生 説に由来するらしい。承引の略歴の中に彼が27歳のとき「「七生説」を作り、 七生報国の信念を披露する。」とある。 http://www.shoinjinja.org/jp/saijin/nenpyou.htm みすずと松蔭は結びつき そうに無いが、二人は古い言い方をすれば同じ長州人である。

そこで検索にかけてみた。結構出てくる。二人の生家は案外近い。現在でも二人 ゆかりの遺跡を同時に回る旅のコースなども結構あるみたいだ。読書家のみすず が、松蔭のこの言葉は知っていたし、それもかなり詳しく知っていたことは間違 いないだろう。

あまり関係ないことだがローマの歴史などの著作で有名な塩野七生が、かなり吉 田松陰にはいれ込んでいるらしいということだった。この人の著作はほとんど読 んでないから、私が無知なだけなのだがこうした結びつきもわかるわけだ。

残念ながらみすずのこの詩の意味がそうした背景を持っているかについては、今 でも断定できない。疑問は疑問のままにしている。それに人が七回生まれ変わっ ても人間はやはり人間のままだ、というニュアンスみたいなものは分かるから、 この詩を味わうにはそれ以上のことは必要ないだろう。ただ子供向けの童謡とし てかかれた作品の中にも、みすずが鋭い社会意識をもって書いたものがあるらし いことは、この他の作品でもいろいろと解かった。

彼女は自分の詩が後世に残ると考えたことがあったのだろうか。2組の3冊の手 帳におのれの全ての詩を書きしるして自決したみすず。彼女が伝えようとしたメ ッセージは、案外深いとは思うのだが、現在ではただ表面的な優しさだけがもて はやされているような気もする。

短歌なら表向きの意味とは違うメッセージが込められているのがあるかもしれな いというのはわかる。短歌を詠み始めて、技巧的なことをほとんど知らない私で さえも、自分だけしかわからないだろう心象を詠む事が結構あるからだ。詩にも それはあるだろう。もしかしたらみすずのこの詩は、自分のためだけの詩であっ たのかも知れない。

謎は残ったままだが、それでもみすずの詩は依然として純な心で歌い上げたもの であることに変わりは無い。少し生きることに疲れたときに、読み返すと元気が 出るかもしれない。



2004.3.5



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