ルバイヤート


若いときにオマル・ハイヤームのルバイヤートが好きで愛読したことがある。多分そこに漂う虚無と享楽主義に惹かれたからだったのだろう。

最も濫読の私は、ルバイヤートに限らず何でも読んでいた。ルバイヤートのような詩集はかえって珍しかったかもしれない。仏教やキリスト教関連の古典、あるいは老荘思想なども読みふけった。一種の思想的挫折があって、関心が古典のほうへ向かったのだと思う。ただし当時読み漁った本は結構良いのがあって、その気になればこれから退屈しないような気がする。古典が多かったからかもしれない。年取ってから若いとき読んだ本に戻っていくと言うのも案外面白い。

ルバイヤートの作者のオマル・ハイヤームについてもほとんど知らない。というか私は小川亮作訳の岩波文庫で読んだのだが、解説も余りまじめには読まず、ただそこに載っていた詩の雰囲気に酔っていただけのようだった気がする。解説は今見ても余り読みたい気にはならない。専門的過ぎると言うか、詳しすぎる。彼の詳しい経歴とか、ペルシア詩のリズムなどに普通の読者はそんなに興味は持たないような気がする。今ならネットで調べると、文庫の解説より分かりやすいのがある。http://www2.odn.ne.jp/~cbo44980/haiya-mu.htm 

ただ詩と言うのは、外国語の場合特に難しい。おそらくは原文でなら非常にロマンの香り溢れる文章でも、翻訳次第ではそうしたものがほとんど見られないということもあると思う。翻訳することにそもそも無理があるのが、詩歌だろうから、極論するならその雰囲気さえ大体分かればいいのかもしれない。日本の古典歌集などでも、現代語訳しているのを見ていると、どうしてもおかしいと言うようなのが時々ある。古今集を読んでいて歌の現代語訳が解説みたいになってしまって、雰囲気が変わると言うか、まったく違う感じになるように感じたことがあったことを覚えている。

日本の古典も場合によっては英語のほうが易しい場合がある。私は最近平安の女流歌人の3つの日記を英語で読んだことがある。http://digital.library.upenn.edu/women/omori/court/court.html 更級日記と紫式部日記、和泉式部日記である。更級日記は昔苦労して大体読んだ記憶があるが、紫式部と和泉式部の日記は原文では難しくて歯が立たなかった。歌などもほとんど分からなかった。歌を作ることに興味のある今なら少しは理解が進んでいるかもしれないが、やはり原文で読めるかどうかは自信が無い。岩波の新日本古典文学大系にはこの3つの日記と蜻蛉日記が一冊に収められている。詳しい注がついているし、歌は全部現代語訳がついているからもしかしたら読めるかもしれないと思うが、英語のほうが易しい文章で訳されていて分かりやすい気がした。

しかし英文に翻訳された歌はやはりなんとなく違う感じを持つ。ただ歌の意味を説明しているだけのような気がする。これは私の英語力の無さも原因があるのだろう。翻訳者は何よりも母国語に堪能でなければいけないのだろうが、詩歌の場合にはそれに加えて詩歌に対する造詣が求められる。詩人が訳すれば、原文から飛躍してしまうことが多いし、原文の意味に忠実な訳をしようと思えば、詩歌のようでなくなる。二律背反みたいなものだ。

ルバイヤートに若い私が心惹かれたというのは多分訳も良かったのだろう。ただ、今考えると、詩歌としてよりも多分思想として感心したような気がする。翻訳されると原文よりも易しくなるとも言われる。その点英語としても名文と言われるEdward FitzGeraldの訳は詩人の訳だけあって難しいのかもしれない。意味だけを訳してくれているようなのと違って、英詩としても洗練されているのだろう。私には最初読んだときほとんど分からなかったし、今でも難しいのが多いのも無理は無い。

私がこの詩集の英訳本を手に入れたのはもうだいぶ前であるが、日本語のとかなり違っているような気がして戸惑った。最初から見てみても、日本訳のどの歌が英訳のどれに当たるかさっぱり分からず、困ってしまった。英語と日本語を比較しながら読もうにも、手がかりさえなかったのである。岩波文庫には親切な解説がついているが、英訳にはほとんど何も無かった。同じ物と思っていたから、かえって混乱したのかもしれない。

ルバイヤートという言葉自体はペルシアの四行詩という意味である。普通名詞であって、ハイヤーム自身がつけたものではない。それどころか彼は自作の詩を生前に公表さえしていない。厳格なイスラム教徒が読めば、当時としてもここで詠まれている内容はかなり危険な思想だったからである。だから古典にはよくありがちなように、どれがハイヤームの歌ったものなのかさえ分からないらしい。ハイヤームのルバイヤートという本で出版されるもののなかには、多いものでは千首を超える超える作品を収めているのもあるらしいが、もちろんそのほとんどが無関係のものらしい。だから取捨選択がきわめて重要になる。

FitzGerald自身がルバイヤートの初版から五版までの違った本を出している。(五版は彼の死後)収録されている歌の数も違う。彼自身がどれがハイヤームの作品かを常に吟味していたからだろう。私が持っていた英語のAVENEL版は、最初は初版の復刻かどうかは不明だった。、歌の数は75だから初版と一緒である。数年前買ったDOVER版は初版と第五版を収録しているが、これは詩のテキストだけの簡単なものである。AVENEL 版は、扉にFitzGeraldが訳したことは書いているのだが、テキストの最初にあるハイヤームの経歴などの解説は多分FitzGerald自身のものだということは確実なのだが、はっきりしなかった。Gutenbergでは初版本の前に置いているのだが、他のところでは1868年版への解説となっているのもあるから、そうなると第二版のということになる。 初版と第二版の解説が同じでなかったのならどちらかが間違っているわけなのだが、まだわからない。http://www.kellscraft.com/rubaiyatkhayyambio.html

絵に関しては初版のではないようだ。ネットで見る絵と違うからである。ルバイヤートの各版は全てネットで読める。それどころか他の人の訳でも読める。さすがにそうした研究も進んでいて、それぞれの版を比較したのも簡単に見れる。ネットのサイトは色々あるのだが、一例を挙げると  http://www.kellscraft.com/rubaiyatcontent.html がある。ここの絵は明らかにAVENEL 版とは違う。ネットの絵が1859年の初版本のものだろう。扉絵も載っているし、間違いないだろう。となるとAVENEL 版は全ての詩に絵がついていて、各詩は絵と詩で2ページ単位になっている作りだが、これはこの本だけの絵ということになる。私は白黒のこちらの絵のほうが気に入っているのだが、ネットが無ければそのまま初版のイラストだと思い込んだままだっただろう。

とにかく調べればいろいろと詳しく分かってくる。このへんはつくづくネットの便利さを感じている。テキストに関しては、各種の英訳も手に入る。一応FitzGerald訳がもう英詩としても古典の位置を獲得しているから、それと比較対照されている形で載っていることが多い。例えば、http://www.therubaiyat.com/ 

岩波文庫はFitzGeraldの英訳からの重訳ではなく、直接ペルシア語からの翻訳である。ただ原典と言っても写本で、それは同じなのだが、詩の取捨選択に関しては英訳と日本語訳の原典とで、かなりのずれがあるようだ。収録数も違えば、順番も違う。日本語版と英語版を比較してどれとどれが対応するのかは、なんとなく分かるのもあるが、大体ははっきりしない。だから若いとき、私が違う本なのではないかと感じたのも無理は無いわけだ。

私自身が若い頃愛読した詩集のことがこうして色々と分かってくるのは楽しい。謎は謎のまま残しておくのも風情があるけど、これからはこうした古典の文献は、研究成果も含めてますますネットに挙がってくるだろう。日本語の古い訳は手に入らないかと思って、国会図書館の近代デジタルライブラリーで探したが無いようだ。しかし将来どこかで見れるようになるかもしれない。

こうした古典文献の充実ぶりは、しばらくぶりに訪れると時として驚くことがある。国会図書館のサイトや大学などでたくさんの古い書物や画像の森に入ると、なんとなく浮世離れした感じがして気分が落ち着く。古本屋とか大きな図書館とは縁の無い生活をしていても、こうしたところを訪れることでなんとなくそうした雰囲気に浸れる。

手書きの文献などをマイクロフィルム画像にしたり、スキャナー画像として公表されていても自分では判読できないが、研究者には便利だろう。日本文学の古典に関してはアメリカのサイトでもかなりいいのがある。例えばバージニア大学のサイトはかなり役に立つ。http://etext.lib.virginia.edu/japanese/index.html

こうした情報がどんどん公開されていくと言うことの持つ意味はなんだろうか。英語の場合なら、19世紀以前の作家なら日本で今まであまり知られていなかったような文献がいくらでも手に入る。昔は少数の専門家があまり日本ではよく知られていないような作家の貴重な原書を手に入れてそれを一生研究しておけば、その作家の大家として知られるような時代もあっただろうが、それはもう出来なくなるかもしれない。今まで聞いたことも無いような作家のずらりと並んだ本のタイトルを見て、そう思った。世界中で誰でもその作家の作品をいくらでも自由に読める時代なのだから、その作家の研究者になれる可能性を秘めた時代でもあるわけだ。学生でも研究者と同じ文献を簡単に手に入れて勝負できるとするなら、実力だけがきめてになるわけだ。難しい時代でもある。

ルバイヤートで感じたことは、実際は他のどんな本についても当てはまる。素人が専門家になりうるために、ある意味では今ほど恵まれている時代は無いのかもしれない。もっともそのための努力はやはりいつの時代にも変わらないだろうし、時代の波が激しいときは古典など振り向かれないのかもしれない。しかし情報収集能力が重要になることだけは変わらないと思う。



2004.3.4



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