城平城


高田は福江市街から7kmか8kmくらい内陸部にある。のどかな田園地帯と言う感じの場所である。そのはるか西側に標高430mの翁頭山がそびえる。

橋本君によれば、ここにある城岳という名前の山に神社があり、さらには城跡まであると言う。しかしいずれも詳しい地図にも載ってない。この辺は山と言えば翁頭山とそれに連なる山ばかりだから、そんなに低い丘は見当たらない。それにあまりそうした高い場所に城を築く必然性は無いかとも思うのだが、福江に何か危険がある場合に備えてのろしを上げるために、見張りの人を配置していたらしい。

それで3月10日に一度その大体の場所だけでも確認しようということで、行ってみた。集落の中心にある店の人に城のことを聞いてみたが、知らないという。しかしどうやら近くの山の上に神社があって、旧暦3月3日には地元の青年団がここに重箱にご馳走を詰めてお参りしているとか。さらに山に近い所で、畑仕事をしている人から、どうやったらその神社まで行けるかということまでは聞いた。しかしかなり年配のこの男性も城跡のことは知らなかった。

文献では地元の青年たちが、祭りのときに城跡の大石を壊すのが習いだとか言う記述があるのだが、60歳を確実に過ぎていると思われるその人も、そんなことはぜんぜん聞いたことが無いという。

その日は橋本君が山登りできる準備をしていなかったので、11日に改めて、やってきた。

昨日教えられた通りの場所に車を止めて、さっそく山を上り始めた。ところがここで大失敗をやらかした。昨日人が一人通るくらいの細道を行く、と聞かされていたのに、まさか車の通る大きな道路からすぐにそれが始まっているとは思わなかった。一般の道路と並行して、山の中を一周道路が走っていた。もちろん車は通れないが、溝があるし、登り斜面になっている。てっきりここが登山道だと思った。後からわかったことではあるが本来の山道は隠れるようにしてあった。

私たちは勝手に少しは整備されているその幅2メートルくらいの緩やかな山道を上って行った。昨日聞いた話とは少し違うかなとは思った。そのうちにすぐ下に車が通れる道路が走っているからである。1kmくらいそうして歩いていたら、一般道路から上って来れる細い道路とつながっていた。ここに車を止めておけば良かったなどと冗談を言いながら上って行くと、その辺あたりから今までの緩やかなのぼり道が急になってきた。

その後も細い道が続いて、やがて竹藪みたいなところに入った。これらの竹はほとんどが10m以上あったから、下にはあまり雑草が生えてない。道があるのかどうかわからないけど、そう思ってみれば、たしかにそんな感じがする。要するにどこにでも行けるのである。そのうち竹が少なくなって、ヘゴの集団がえんえんと続いた。地図で見るとヘゴ自生北限地帯よりはもっと北のはずであるが、とにかくこの頃から道らしきものは無くなってきた。それでも落ち葉が堆積して足がぬかるむような中を進んだ。足元さえ気をつければ、密林の中を進んでいるような感じで、少しワクワクしないわけでもない。

ところがその後が大変だった。ヘゴなどは少なくなって、杉などの大木はあるのだが、斜面が急に険峻になってきた。下を見ると恐ろしいくらいである。おまけに大きな岩がごろごろしている。自然にある山石とは思うのだが、とにかくすべるし、木は掴んでも枯れているようなものもあるから、いざというときには用心しなくてはいけない。鳥のさえずりはするが、周りは木で覆われて太陽さえも良く見えない。もうこの辺になると、山芋やその他の山の幸を取りに来る人もほとんどいないのだろう。ここで万が一滑り落ちて怪我でもしても、2人とも携帯は持たないから、まず連絡はできないだろうと心細くなる。

橋本君との城探しは結構アドベンチャー気分を味わって面白くもあるのだが、このときは正直後悔しはじめた。下のほうには時々高田ののどかな集落や、遠くの鬼岳が見え隠れするが、それを楽しんでいる余裕は無かった。頂上らしき見えるのであそこまで行けば大丈夫と思うのだが、いつのまにか青い空はまた遠ざかっている。実際はそんなに長い時間ではないと思うのだが、勾配が45度くらい、橋本君の話ではもっとあるということだったけど、場所によってはそれこそ這うようにして上らなくては行けなかった。

今考えれば遠くに石垣らしきものを見つけたのは、本当に運が良かったと言うしかない。橋本君はあまり信じてはいないようだったが、近くにきてそれがたしかに城跡らしいことを確認したときは、ほっとした。

急斜面に作った小さな砦みたいなものだったのだろう。大きな自然石を縦にしたままのがあった。これも何かの守り神として屋敷内で祭っていたのかもしれない。それにこの下に岩が多かったのも、もしかしたら城壊しの名残なのかもしれない。

頂上にでても、きれいな道は無いが、さすがにこのときはもう不安はなかった。多分この付近に神社があるはずである。

城嶽神社はそれから50mくらい尾根を下った所にあった。鳥居もあったが、普通の神社のに比べると高さがやけに低い。背をかがめて通りぬけれるくらいの高さしかない。しかし良くここまでこれらの鳥居の柱などをもって来れたものだと感心した。

神社の近くから見る鬼岳も美しかった。帰り道はもう楽である。しかし神社から10mか20mくらいの所に井戸があった。なるほど、これもまたたしかにここに見張り所の番人が住んでいたことの証拠であろう。井戸は内部の壁はちゃんと石できれいに作っていた。底は1mくらいの所まで落ち葉などが堆積していてわからなかった。そんなに深くは無いと思うのだが、山の中で足が深くのめり込んだこともあるので、かなりあるかもしれないと思って確認しなかった。

しかしこの井戸にたまるのはどこから来るのだろうか?雨水?涌き水?高さから考えると、涌き水はそんなに無いとも思えるのだが、私たちが見た限りでは空井戸のようにも見えた。しかし規模はこんな場所にあるものとしては結構大きい。おまけに道のすぐそばにあるので、注意しないとこの中に落ちてしまうかもしれない。

帰りはちゃんと神社への山道を下りてきたから、心配は無かった。しかしやはり勾配は険しい。青年団が毎年春には上るということだが、もしかしたらここは年寄りが参拝するには少しきついのかもしれない。私が今まで行った神社の中では、登っていくのが一番きつい気がする。

山道を下りきった所から少し離れた所に私の車があった。知っていればなんということは無いが、やはり一周道路からこの山道を見つけるのは難しいかもしれない。もちろんどこにも行く先を示す標識などは無い。

このあと大浜に回った。ここにも古い城跡があったとか。街の中をぐるぐる回ったが、わからない。しかしグラウンドゴルフをしていた2人のお年よりに出会った。今年79歳になる山田さんと、その仲間で75歳くらいの人である。城跡を聞くと、わかりにくい所にあるから、一緒につれて言ってくれるという。山田さんは自転車、もう一人は原付バイクである。その跡からついて行ったら、なるほど海岸近くに見事な石垣があった。しかしこれは何だか見事過ぎて、かえって古いものと言う感じがしない。

ここで六地蔵のそばで、遠くに翁頭山を見ながらいろいろと話をした。私たちが今上ってきた神社のことももちろん知っていて、そこは「じょうびら」というのだと教えてくれた。しかしその昔城があったと言うことは知らないようだった。

橋本君は退屈なようだったが、そこでいろいろと昔話を聞いた。昔そこにはえふねの人が住んでいたことも聞いた。これは家船といって、船を住居としてあちこちに移動していた人たちのことであるが、大浜にもいたということは知らなかった。五島各地には昭和30年頃までは見かけたらしい。私も岩波の写真文庫か何かで見たことがある。

それからこちらでがっぱとかがーたろうとか言われるカッパの話になった。山田さんは若い頃見たことがあると言う。私は信じていないから、あまり熱心には聞かなかったけど、それなりに面白かった。

そのうちに五島のあちこちの話になって、大浜にもガジュマルの木、つまりあこうの大木があるということになった。富江小学校にあるのと、樫の浦の大木が有名であるが、大浜にあるのもそれに負けず立派だと言う。若い方の人が家に帰る途中にあると言うから、つれていってもらうことにした。

なるほど、一本の木でありながら、2本のようにも見え、さらには道路の向かい側にも伸びて、そこからも別の木が出ているかのようにも見える。とにかく一本の木で、道全体を覆っている。福江市に天然記念物に指定するように働きかけているのだが、どうしても市が認めないのだとか。ここでもそのあたりいったいに伝わる昔話が多いということ、平山徳一氏がそれらを本に書いているということも聞いたが、残念ながら私は読んだことは無い。

そのあとぜひ寄るようにと言われていたので、もう一度山田さんの家へ行く。ここでまた昔話の続きを聞かせてもらう。なかなか面白い話もあったけど、これは省略。しかし朝は釣りとか畑仕事、昼からはグラウンドゴルフの練習をしながら悠悠自適で暮らしていて、とても80歳近くとは思えない。今でもグラウンドゴルフの大会ではあちこちに出かけるらしい。

やはり昔の城跡を探すとなると、地元の年寄りに聞くのが一番のようだ。今までは大体運が良いことに、適任の人にめぐり合っているようだと思った。



2002-3-14



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