2001.3.1
その9
我らの目的は成功ではない。失敗に負けず前進することである(スティーブンソン)


 不撓不屈の精神は人生において最も大切なものである。この精神の重要性を説いた言葉は数多くあるが、最も代表的な言葉としてこのステブンソンの言葉を選んだ。
 この言葉は20年ほど前『昭文世界金言名言事典』(昭文社、1979年刊)という豆本を読んでいて見つけたものである。この本はいわゆる豆本です。20年ほど前に三菱銀行(現・東京三菱銀行)から預金者へのサービスとして贈られた景品である。繰り返し繰り返し読んだため、いまではボロボロになってしまっている。

 七度転びて八度起きよ
 私自身の人生は挫折と失敗の連続だった。失敗ばかりを繰り返していいところはほとんどなかったような気がしている。その都度、「もう一人の自分」が「現実の自分」に向かって叫んだ言葉があった――「失敗に負けるな!」。この言葉に励まされてへこたれずに今日まで生きてきた。
 じつはこの言葉に出会うずっと以前から同じ意味の言葉を使いつづけてきた。「七度転びて八度起きよ」という言葉である。通常は「七転び八起き」という。少年期から「七転び八起き」は私の人生のモットーだった。終戦直後に野球をやり始めた頃は「ネバー・ギブ・アップ」という言葉もよく使った。これも私の人生を通じてのモットーである。
 スティーブンソン(1781−1848)は蒸気機関車の発明で知られるイギリスの発明家である。『昭文世界金言名言事典』によると、彼は炭坑火夫の子で無学に近い状態から独学で頑張り、数え切れぬほどの失敗を繰り返しながら、あたかも地を這うように一歩一歩前進した。彼の不撓不屈の精神が近代社会に大革命をもたらすような大発明を達成したのである。
 よく考えてみると、人類の歴史はこういう形で展開してきたと言えるかもしれない。失敗と再起、どん底に突き落とされるような大失敗と苦難のなかから創造的な発見をして這い上がっていくという過程を経て人類は進化してきたのである。歴史はこうしてつくられてきたのである。不撓不屈の精神がバネの役目を果たし、絶望の淵から立ち上がる。これが人間の進化というものなのである。
 失敗しても決して諦めないこと、不屈の精神をもって生き抜くこと、あるいはタフネス―失敗に対する対応策はこれしかない。このとき初めて「失敗が成功の母」になるのだと思う。

 三木武吉の「七転び八起き人生」
 十数年前、私は『人生七転び八起き』というタイトルで評論集を出版したことがある。この第一章に1984年に書いた「稀代の仕事し・三木武吉」(『歴史と人物』1984四年9月号)を収録した。タイトルの『人生七転び八起き』は三木武吉(1884−1956)の波乱万丈の人生を考えてつけたものである。
 四国の香川県高松市に栗林公園という由緒ある立派な庭園がある。高松藩主松平頼重(1622−1695)が築造したものである。この庭園の入口に三木武吉の銅像が立っている。三木武吉は高松市民が最も誇りとする政治家であり、高松市を代表する人物として評価されているのである。
 三木武吉が鳩山一郎内閣樹立や保守合同で活躍していた頃、私は大学生だった。左翼学生運動の活動家として反体制運動の側から保守政党を批判し対決していた。1956(昭和31)年、私は大学生活5年目だったが、全学連中央執行委員・平和部長として砂川軍事基地拡張反対闘争の学生部隊を指揮した。この砂川闘争は鳩山内閣と真っ向から対決した戦いだった。「流血の砂川」といわれた激しい戦いで、数多くの負傷者が出た。
 この頃、鳩山内閣の参謀総長的存在だったのが三木武吉である。実力ナンバーワンの政治家といわれていた。新聞やニュース映画などを通じて私は三木武吉の活躍ぶりを知っていたし、興味ある人物として見ていたが、しかし若くしかも左翼の側にいた私にとっては三木武吉は遠い存在だった。
 三木武吉を集中的に研究したのは1980年代に入ってからである。当時、中央公論社が発行していた『歴史と人物』に三木武吉の評伝を書くことになったからだ。400字原稿用紙100枚の私の評論が同誌に掲載されたのは、前述したとおり1984年9月号だった。
 三木武吉の最大の功績は1955年の保守合同を実現したことである。このときが三木武吉の絶頂期だった。ここに至るまでの三木武吉の人生は文字どおり「挫折」と「再起」の往復人生だった。
 三木武吉が生まれたのは四国の高松。三木家は松平藩の藩儒の家柄だったが、武吉が生まれた頃は三木家は没落し、生活はかなり困窮していた。武吉は七人きょうだいの長男。父は骨董屋を営んでいたが、一家の生計を支えていたのは母アサだった。
 武吉は数え6歳で漢学塾に通い四書五経を学んだ。尋常小学校から高等小学校に進み、さらに高松中学に入学した。しかし2年生のとき「うどん食い逃げ事件」の首謀者として退学処分を受ける。やむなく京都の同志社中学の編入試験を受け合格。武吉の「挫折」と「再起」の繰り返しの人生行路がここから始まる。
 この同志社中学も病気でやむなく退学せざるを得なくなり、療養のために高松に帰郷。病が癒えたあと今度は東京へ出て京成中学4年に編入。そこから早稲田大学の前身・東京専門学校に進学した。同学年に大山郁夫や永井柳太郎がいた。
 東京専門学校を卒業したあと、早稲田大学図書館創設の仕事につくが長続きせず、日銀に就職。門司支店勤務となったが、同市で行われたポーツマス講和条約反対の集会に飛び入りして反政府の大演説をぶったために解雇されてしまう。
 東京に戻り衆議院事務局に就職。ついで武吉は司法試験を受けることを決意して北鎌倉の円覚寺に入り、座禅と猛勉強の日々を送る。そして合格。東京司法裁判所に司法官試補として勤務した。しかしこれもすぐに辞めてしまい、法律事務所に弁護士として勤務するが、武吉の変転は止まらなかった。
 次は政治家への転身だった。1913(大正2)年に牛込区会議員に当選(満28歳)。1915年に衆議院議員選挙に立候補して落選。1917年衆院選初当選(満32歳)。1922(大正11)年東京市議会議員(当時は衆議院議員と東京市議会議員を兼ねることが可能だった)。1924(大正13)年、39歳のときに憲政会幹事長に就任し、さらに大蔵参与官に任命された。武吉にとって「成功」の時代が到来したのである。
 だが、武吉の「成功」は長続きしなかった。1928(昭和3)年、「京成電車疑獄事件」で逮捕され起訴されてしまったのである。大いなる挫折。7年にわたる裁判ののちに有罪確定。政界引退。以後、事業に専念することになる。
 しかし武吉は挫けなかった。再度政界に挑戦。1942(昭和17)の翼賛選挙に非推薦で出馬し当選。このときに選挙区を以前の東京から郷里の高松に移した。翌昭和18年、鳩山一郎、中野正剛と組んで反東条(東条英機首相)運動を展開したが敗退、東条に狙われる存在になり、郷里の高松に引きこもった。
 1945(昭和20)年8月敗戦。敗戦の衝撃で食が進まなくなった武吉は栄養失調になり、「彼岸鶴」といわれるほど痩せ細ってしまう。私たちが戦後に見たのはこの痩身痩躯の三木武吉である。
 同年10月、鳩山一郎とともに自由党を結成するために東京に戻る。11月、自由党結成の際に筆頭総務に就任。今風に言えば総務会長だが、当時の筆頭総務は総裁に次ぐナンバー・ツーの地位で、ナンバー・スリーの幹事長の上のポストだった。
 1946(昭和21)年4月の新選挙法による第22回衆議院議員総選挙で当選、5月に満場一致で衆議院議長に推されたが、その7日後に占領軍から追放処分を受けた。またも挫折。小豆島に引き上げた。
 小豆島では濤洋荘という旅館に住み、小豆島の青年に『老子』など中国古典を教えたりした。三木武吉は中国古典に通じた知識人でもあった。私は1984年の早春、濤洋荘に宿泊し、当時の三木武吉を知る人々からいろいろの思い出話を聞くことができた。1999年に小豆島に講演旅行したとき濤洋荘は閉館していた。バブル崩壊後の不況の荒波をかぶったのである。話を本筋に戻そう。
 1951(昭和26)年に追放解除、翌年の総選挙で当選し復活を果たした。1953(昭和28)年1月に自由党総務会長に就任。同年3月、鳩山分自党結成。吉田茂と対立し孤立。しかし1954(昭和29)年11月に日本民主党結成に加わり総務会長に就任し、同年12月に武吉が悲願としてきた鳩山内閣を樹立。さらに1955(昭和30)年11月15日、保守合同により自由民主党を結成。三木武吉は鳩山一郎、緒方竹虎、大野伴睦ともに総裁代行委員に選出された。政治家として頂点に立ったが、その翌年の7月4日に逝去した。三木武吉の生涯は「失敗と再起」「挫折と努力」の繰り返しだった。
 三木武吉の人生から学ぶべきことは多い。まず、人間にとって大切なのは不撓不屈の精神だということである。これがなければ人間は挫折に押しつぶされてしまう。もうひとつ大切なものがある。失敗の経験に学び、どん底から這い上がって飛躍する創造的手段を見つけ出す能力である。
 不屈の精神力と創造的能力が結合したとき、挫折を再起・飛躍に転化することが可能になるのだ。