愛知を変えて新しい日本を創ろう!――天命の政治家「石田芳弘氏」論
4月26日、「名古屋市長選挙」が行われた。結果は、民主党推薦の河村たかし氏(60)が自民、公明両党が推す細川昌彦氏(54)や共産党推薦の太田義郎氏(65)に圧勝した。
河村氏に衆議院議員5期という政治実績とテレビによる知名度の高さがあったとはいえ、この選挙結果はまったくの快挙である。正直、民主党にとってまたとない“吉兆”だと思う。心よりお喜びを申し上げたい。
当確確定直後の河村氏の「どえりゃー、うれしいですわな」との忌憚のない言葉がたいへん印象深かった。また、「庶民革命を名古屋から始めます」との言葉も頼もしい。
今回の選挙期間中、河村氏は名古屋市内を自転車で街宣して回った。その不屈の行動力と彼を支援した方々の努力と健闘に心からの敬意を表したい。
ところで、「一期一会」という言葉がある。千利休が愛した言葉だ。生涯に一度か二度かの人との出会いと別れ――この言葉には、そのはかなさゆえに会っている間の「時」を大切にし、それに感謝したいという思いが込められている。そんな出会いのなかで、人は時折たいへん魅力的な人に出会う。私にとって石田芳弘氏はそんな人物の代表的な一人だ。
私が初めて石田芳弘氏にお会いしたのは一昨年の5月29日夜、森田実さんのご著書『アメリカに使い捨てられる日本』(日本文芸社)の出版記念会(横浜市内のホテル)においてだった。
まだ、会が始まる前だった。私は一瞬、ドキリ!とした。なぜなら、“小泉元総理が壁の前の椅子に腰を下ろしている”と思ったからだ。実によく似ている。だが、よく見ると小泉氏ではなく、その人こそ石田芳弘氏だった。他人の空似とはよく言ったものだ。
石田氏の市長時代、彼が訪問した犬山市内の小学校で、彼は生徒たちにこう呼ばれた、「ソ―リ、ソ―リ」と。これに対して石田氏は彼らにニコニコと応じた。この“明朗さ”こそ、彼の貴重な財産である。
正直、石田氏を不快に思う人はいないのではなかろうか。なぜなら、彼は生来、明るく、真に柔和で謙遜な人だからだ。それに、政治家にありがちな自分をひけらかすような嫌味なところがまったくない。実にユーモアに満ち、それでいてじっくりと人の話を聴く。つまり、真の聴き上手なのだ。同時に話も面白い。話のツボを心得ていて、聴く人の耳と心を飽きさせない。いつの間にか明るくかつ温かい雰囲気を創り上げてしまう。あれは、きっと天性の品格にもとづくものだろう。何より政治家として“カリスマ”があるのだ。
人間の幸せにはさまざまなものがあろうが、私は“本物”といえる人に出会えることも大きな幸せだと感じる。石田氏はまさにそのような“本物”の政治家だと思うのだ。
政治家とは概して自ら「話し上手」と自負している人びとの集団である。だが、真の話し上手はきわめて少ない。なぜなら、彼らの言葉には“言霊(ことだま)”がないからだ。いかに早稲田大学雄弁会のOBとはいえ、下手な者は下手なのである。竹下登元総理を見ればわかるではないか。
だが、石田氏は違う。事実、彼の話のなかには真の“言霊”が感じられる。なぜなら、彼には深い“思想性”があるからだ。また、深い思想性に根ざしたヒューマニズムがあるからだ。さらには彼の話のなかには、何とも言えぬ“ユーモア”とゆとりが感じられる。それは、彼が何よりも「文化」を重んじるからだと思うのだ。
換言すれば、石田氏は政治家である前に卓越した「教育者」である。彼は生涯、「教育」を天職としているのではあるまいか。彼が瀬見井久教育長と推進した“自ら学ぶ力”を重視する手づくりの「犬山方式」教育は、そのような彼の教育理念を実現したものだった。
彼の好きな言葉がある。「凡庸な教師は、ただしゃべる。普通の教師は、説明する。良い教師は、やってみせる。卓越した教師は、人の心に火をつける」というものである。
私には石田氏自身が、この“人の心に火をつける”卓越した教師であるように思えるのだ。
石田氏は同時に“勇猛果敢な人”だと思う。たとえば、1983年(昭和58年)、愛知県会議員選に初挑戦したときのことである。彼は、当時の「師匠」だった江崎真澄氏の反対を押し切って、「犬山市民に選択のチャンスを与えたい」という一念で無所属で県議選に立候補した。この10カ月間の選挙期間中、彼は何か“悟るもの”があった。それは、“熱意と気持ちを伝えたら人びとは必ずわかってくれる”という確信である。つまり彼は、人びとに対する“説得の大切さ”を会得したのだ。実はこれが、政治とりわけ選挙の本質なのではあるまいか。この確信は終生、石田氏の心のなかでは不変だと思う。
「自分でやった選挙というのが、ぼくの原点」という同氏にとって、果たして一昨年の県知事選は“自分でやった”と言えるほどのものだったのだろうか? 私は、それほどのものではなかったような気がする。むしろ、彼にとっては不本意な選挙だったと思うのだ。
ところで、石田氏の「選択肢がなければ真の民主主義は確立できない」という思いは、県議選や犬山市長選だけでなく、一昨年の愛知県知事選でもまったく同様だった。それまで愛知県では相乗り選挙で翼賛議会というのが通例だった。だが、これでは当然、投票率は低く、県民の政治離れは食い止められない。
しかし石田氏は、このような県内の政治的低迷を座視できなかった。それゆえ彼は県知事選に挑戦し、県民の心を喚起したのである。無論、そこには、“「政権交代」の先駆けになろう!”という意気込みもあった。
そこで彼は、「マニフェスト」選挙と候補者間の「公開討論会」など、旧来の日本の選挙文化にはない斬新な手法を提起した。彼は、これらが県民の政治的覚醒と真の民主主義化になくてはならぬものだと確信していたからである。一昨年の選挙では、公開討論会は、神田陣営の思惑や規制が先行し一回しかできなかったが、今後の県知事選挙へのいい先例になった。選挙に負けはしたけれども、愛知県政史上、「マニフェスト」と「公開討論会」という画期的な先例をつくったという石田氏の自負はまことに正当なものである。
このような石田氏の信念や努力のおかげで、愛知県民は一昨年、心から選挙を楽しむことができた。心底、“感動した”という県民も多かった。つまり、石田氏自身が県民の心に火を点(つ)けたのである。愛知県、あるいは日本国に、これほどの地方政治家がいままでどれほどいただろうか? 正直、初めてではあるまいか。
このように、「愛知県の再構築」を試みた石田氏の選挙運動は、まことに果敢なものだった。だが、時間が足りず、加えて民主党や労組(連合)と市民運動体(勝手連などの)間の足並みの乱れや意思疎通がままならず、勝利するまでには至らなかった。
しかし、“今後、愛知県をどうするのか?”という問題提起や“愛知が変われば日本が変わる”、さらには“愛知を変えて新しい日本を創ろう!(あの戦国時代のように)”という思いは今後、愛知県民のなかでますます高まることだろう。
正直、私は、これから愛知県は大阪府以上に日本にとって重要な地域になると思う。かつて、“愛知県人は孫子(まごこ)の将来を慮(おもんぱか)って財を残す”という意味の言葉を、私は大学時代、名古屋市出身の友人から聞いたことがある。このような次世代の人びとへの配慮こそがいま、われわれに求められると思うのだ。
また、常にアメリカを向いた東京とアジアに目を向けた大阪を“調整”し、それをほどよくリードする使命が名古屋、あるいは愛知県にはあると思う。日本のほぼ中央に位置し、東西南北に広がる日本をバランスよくリードする責務が、愛知県にはあると思うのだ。
たとえば、古代、壬申の乱(672年)で当初劣勢だった大海人皇子(のちの天武天皇)を支え、彼の巻き返しの原動力になったのは、いまの愛知県周辺の有力豪族だった。また、織田、豊臣、徳川の三英傑による国造りも、尾張、三河の違いこそあれ“愛知人”の気概と計画性、それに組織力があったからこそできたと思う。たしかに薩長による明治維新も注目されるが、それは財政的・軍事的基盤をイギリスに仰いでいた点で、本質的な“国づくり”の参考にはならないと感じる。つまり、“自前”ではないと思える。その点、徳川幕府による“国づくり”こそ大きなヒントになると思う。ちなみに徳川家康は、後北条家と武田家の「政治」を非常に参考にした。その基本は「富民・法治」だったと思うのだ。
石田芳弘氏は、常に“教育”の大切さを説く。彼はまた、「私を育ててくれたのは、ふる里の山川草木と歴史です」と語る。たしかに、木曽川の清流は彼の人間性と思想を育んだ。
私は子どもの頃からセイショコサン(加藤清正公)を敬愛しているが、彼は、熊本城だけでなく名古屋城の築城にも関与した。彼も豊臣秀吉同様、中村村(現在の名古屋市中村区)の生まれである。野球のイチロー選手や女子フィギュア・スケートの浅田真央選手もそうだが、時代を超えて“愛知県人”は本当に素晴らしい人が多い。その“非凡さ”は他県人の追随を許さないものがある。それゆえ私は、“日本の再生”を担うのはまさに愛知県と愛知県民だと思う。石田氏はその主要な政治指導者の一人だと思うのだ。
今日、世界のトヨタの動向が日本だけでなく世界の耳目を引いている。ちなみに、今春実施されたリクルート社の「大学生就職志望調査」によれば、トヨタは前年6位だったが、今年はなんと96位にまで後退した。だが、長い目で見れば、トヨタがこのまま衰退するとは思えない。必ずや復活するだろう。私は、歴史的に、「トヨタの出現」自体が“愛知県なればこそ”だと思っている。それほどに同県は日本のなかでも重要な地域だと思う。これを日本中の誰よりも深く認識しているのが実は石田芳弘氏だと思うのだ。
たしかに、一昨年の県知事選で彼は神田真秋(まさあき)氏に敗北した。だがこれは、単なる“負け”ではなかった。むしろ、敗北を通してさまざまなことを学び、人びとの政治意識を変え、県民を政治の“主人公”にした実に画期的な選挙だった。まさに新しい愛知県の誕生のための“生みの苦しみ”だったとさえ言えよう。
そこでわかったことは、今後、女性や若者、それに恵まれざる人びとをもっと積極的に政治に取り込むことがいかに大事かということだったのではあるまいか。それは、石田氏が以前から追求してきたことでもある。
石田氏は当代一流の政治家である。日本全国のどこででも通用する“本物の”政治家である。彼はまた、人一倍、故郷・犬山市や愛知県を愛する人だ。前述のごとく私は、愛知県は日本の将来のカギを握る地域(=県)だと思う。愛知県が変われば日本が変わると思うのだ。
その彼が今回、愛知県6区から民主党推薦候補として衆議院総選挙に立候補する。このたびの石田氏の出馬は、まさに“天命”と言えるのではあるまいか。同氏の念頭にあるのはあくまでも真の「地方自治」の追求である。この思いはいまも変わらないと思う。つまり、「愛知県知事職」こそ彼が真に望むものだと思うのだ。
だが、「急がば回れ」という言葉どおり、時にはみずから予想もしない事態になることもある。その点、すべては人知を超えていると思える。今回の石田氏の衆議院選挙への挑戦がまさにそうではないだろうか。
石田氏の対立候補である丹羽秀樹氏が2世、3世議員であるのに対して、石田氏はまさに“天命の政治家”だと私は感じる。つまり、何よりも天に選ばれて日本の重要な事業を完遂するように召された政治家だと思うのだ。今回の彼の立候補で、私はその思いをますます強くした。無論、今回の石田氏の立候補にはさまざまな要因が考えられよう。だが私は、今回のことは同氏に与えられた“天命”だと確信する。
ちなみに、先述した原口一博代議士もそのような“天命の政治家”だと思う。
これに対して、小泉純一郎氏などは単なる世襲政治家の一人に過ぎない。このような人物があまりにも多い日本の政界は、その一点だけで、世界とくにアジアから非常に立ち遅れている。“天命の政治家”と言える人びとは、自民党よりも民主党の方がはるかに多い。換言すれば、来るべき衆院選は古い「世襲党」と新しい「天命党」との戦いでもあると思うのだ。
石田氏は“天命の政治家”であると同時に、非常に謙遜で実に情愛の濃やかな方だ。私事だが、彼はこのたびの立候補を宣言する前夜、わざわざ熊本の私のところにまで電話をくださった。そのとき私は“なんと情の濃やかな方か!”と心から感動した。その夜、生涯いくどとない感銘的な電話を受け、私は万感の思いを込めて、「石田さん、必ず勝ちます!」と申し上げた。この確信はいまもまったく変わらない。いや、この思いは私の心のなかでますます強まっている。“石田氏が当選せずして一体誰が当選するというのか!”というのが私の偽らざる思いだ。今回の総選挙で万が一石田氏が当選しないようであれば、それこそ“愛知県の恥”、もっと言えば“日本の損失”だと思う。私は、石田氏が当選すること自体が、愛知県にとってだけでなく、日本全体にとっても好ましいことだと考える。そのために、彼に関する小論を綴りたいと思うのだ。
◆“挑戦する”政治家
ここに一冊の本がある。『挑戦』と題する石田芳弘氏の著書である。私は本著を石田氏からご恵贈いただいた。その副題には「2007年・愛知県知事選の証言」とある。同著の取材・構成は高野史枝氏の手によるものだ。この「挑戦」という言葉が、石田氏の政治姿勢を最も端的に示していると思う。同氏はまさに“挑戦する政治家”だと思うのだ。
一昨年の2007(平成19)年は“政治変動”の年だった。その代表的な出来事が同年7月29日(日)の参議院選挙での与野党逆転である。だが、その前触れとして、同年4月の北九州市長選挙での自・公敗北と愛知県知事選挙での石田芳弘氏の善戦が挙げられる。
前述したように、それまでの愛知県知事選挙は与野党相乗りでまったくの“翼賛選挙”だった。それが小沢民主党の「相乗り禁止」で前回、与野党対決の県知事選挙になった意義は限りなく大きいと思う。その意味で一昨年、石田芳弘氏が果敢に神田県政、あるいは「トヨタ体制」に挑戦した意義は限りなく大きいと思うのだ。
だが、民主党や連合愛知は前回、石田氏の“足かせ”にこそなれ、強力な支援組織とはなれなかった。無論、それまでの長い翼賛体制から与野党対決の構図に切りかわった直後ゆえ、ある程度の混乱は止むを得なかったであろう。だが、民主党や連合愛知はあまりにも組織の論理を優先させ、選挙の当事者であり主人公でもあった石田氏を軽視、時には無視し過ぎたのではあるまいか。
石田氏は元来、“草の根選挙”を大事にする政治家であり、あまり組織に依存するタイプではない。だが、一昨年の県知事選挙では、その彼が手かせ足かせをされ、彼本来の思い切った選挙ができなかったように感じる。
事実、彼は、愛知県内をもっと隈なく歩き回りたかったであろう。そして、1995年、彼が初めて犬山市長選挙に挑戦したときのような大胆で納得のゆく選挙をしたかったであろう。だが前回はそれが許されなかった。それだけの十分な時間もなかったし、身近な組織の圧力が強すぎて、そのような彼本来の自由闊達さが許されるような状況でもなかった。
ところで私事だが、私は本来、「選挙」にはほとんど関心を持たない、変わり種の政治学徒である。“選挙運動嫌い”の父親のDNAが私の体内に流れている。村会議員だった祖父の選挙運動を見て育った少年時代の父は、選挙前の大人たちの宴席がらみの生態を批判的な目で見ていた。当時の純真な父には、選挙は“親の仇”でさえあった。
それに父は後年、小なりといえど地方の金融機関に勤めていたので、“自ら選挙には余り関与してはいけない”という彼独自の「職業倫理」を保持していた。そんな父の姿を見て育った私は、選挙自体に格別の関心も興味も覚えなかった。
そんな私が石田芳弘氏の人間的魅力に感じ入り、“ぜひ彼に衆議院議員、ひいては彼がそれを望まれるならばぜひ愛知県知事になってほしい”という一念でペンを運んだのが、この小論である。つまり、石田氏の再挑戦を“心から応援したい”という思いが今回、私のペンを動かしている。そのペンを動かす主要な動機は、この“挑戦する政治家”石田氏が必ずや愛知県のみならず日本国のためになるという強固な信念からである。
◆一昨年の愛知県知事選挙の総括(神田氏の勝因、石田氏の敗因)
ここで、はや旧聞に属するものの、一昨年の愛知県知事選挙を総括すること、とりわけ神田氏の勝因と石田氏の敗因を検討することはそれなりの意味があろう。
一昨年の愛知県知事選挙を簡単に総括すると、「神田氏の辛勝、石田氏の善戦」と言える。では、神田氏の勝因は一体何だったのだろうか? それは、何より“現職の強味”というものだろう。
つまり、彼の8年間の実績、たとえば愛知万博の成功と中部国際空港の開港などが挙げられる。この両プロジェクトは一部の環境保護団体を除き愛知県民がこぞって成功を願ったものだけに、現職の神田氏が選挙において有利になるのは、誰の目にも明らかだった。つまり、神田真秋氏の「ハコモノ」行政の面目躍如たるものがある。
事実、神田氏自身、選挙運動期間中、この二大事業を成功させた2期8年間の実績を前面に押し出した(無論、新空港建設は鈴木礼治前知事時代からのもので、神田氏自身はその後継に過ぎない)。また、トヨタを中心とした好調な地域経済を背景に愛知県の「総合力の底上げ」を県民に訴えた。その“堅実さ”や“手堅さ”が、愛知県民にアピールした。
愛知県民は、概して堅実かつ保守的で、あまり“変革”を好む県民性ではないと思う。その点では、神田氏のそつのない“手堅さ”は、愛知県民に十分アピールしたと感じる。それに、2期に及ぶ神田県政には県民の目を奪い、彼らを怒らせるほどの「失点」はなかった(*県職員による多額の裏金問題は彼の当選後に発覚した)。つまり、愛知県民にとって、神田氏を愛知県庁から追い払うほどの“怒り”はなかったと思うのだ。
たしかに一昨年の選挙当時、柳沢伯夫(はくお)厚労大臣の「女性は子どもを生む機械」発言があり、それが県内の女性を怒らせ、神田県政を覆すのではないかと、革新勢力から内心期待された。だが、同発言は愛知県内ではそれほど影響がなかった。
それに、対立候補の石田氏自身、同発言を決して露骨には非難せず、柳沢発言を批判するのは国会議員の役目(=国政)だとして、「私は愛知県をどう変えたいかを申し上げたい」と強調し、ある意味、紳士的な態度を貫いた。このような県内の“寛容な状況”も、神田氏にとって有利に作用したと言えよう。
さらに、神田氏の勝因に挙げるべきは公明党(=創価学会)の組織力の巨大さだ。愛知県あるいは名古屋市に行って感じるのは、京都や関西圏との距離的な“近さ”である。京都とは目と鼻の先ではないかと思う。そこで強く感じるのは、愛知県に及ぼす創価学会の影響力の強さである。実は、神田氏の故郷・一宮市も、かなり深くかつ強く創価学会の力が浸透している。事実、一昨年の県知事選挙でも、太田昭宏・公明党代表のお膝元である愛知県で京都や大阪の学会員たちが多く神田氏に加勢したと考えられる。
加えて、「中日新聞」の存在も大きい。選挙時の同新聞の掲載写真などを見ると、主に神田陣営に力点を置いて写した感じだ。つまり、同新聞の現首脳部は主に神田陣営と気脈を通じる人びとなのではないかと思う。事実、選挙前に神田氏の家族に関する記事を掲載したと言われる。だが、これは事前の選挙活動と言われても仕方がないのではなかろうか。まさに愛知県内、および日本の政・官・財界がこぞって、神田氏の後押しをしたと言えよう。この“総合力”が、神田氏の勝因と考えられよう。
では、石田氏の敗因は、一体何だったのだろうか? 端的に言えば、それは、彼自身の“中途半端”な立場にあったとは言えないだろうか。だが、“中途半端”という表現は一昨年の知事選で善戦した石田氏には大変失礼、かつ酷な表現かもしれない。むしろ、“中途半端”と言うなら、それは一昨年の民主党に対して言うべきかと思う。
たしかに、一昨年の知事選で、石田氏がどうのこうのと言う以前に、愛知県の民主党自体、相撲にたとえるなら、まさに“半身のかたち”で神田陣営に対抗したように思える。つまり、真正面からのガチンコ勝負ではなかったように思うのだ。
なぜなら、たとえ“相乗り禁止”とはいえ、石田氏自身、民主党や社民党の推薦を受けつつも、決して民主党生え抜きの候補ではなかった。彼は元々、自民党の政治家だったので、県内の革新系の人びと(共産党を除く)にとっては、彼をどのように理解しかつ応援していいものか、心底迷ったことだろう。なかには、石田氏の風貌が小泉元総理に余りにも似ていたことから、その点だけで、石田氏を敬遠した革新系の若者たちもいた。つまり石田氏自身、有権者にとって自民党と民主党のどちらにも見られていた。換言すれば、そういった“二面性”がどうしても石田氏から拭いきれなかったと思うのだ。こういった点からして、私は、それを“中途半端”と表現したのである。
無論、選挙中、独自の教育論を展開した石田氏は、その思想と行動の点で決して中途半端だったとは思わない。彼はその点では徹底している。むしろ上述したように、候補者としての彼の立場が“中途半端”だっただけである。それゆえ、労働組合の一部は、石田氏ではなく神田氏を支援した。その方がより馴染みがあり、有益だと思ったからだ。
実際、一昨年の県知事選は、共産党からの選挙協力も得られず、革新二極化の実に残念な選挙となった。もし、石田氏が彼本来の指導力を発揮できれば、実際、落選という憂き目は見なかったのではないだろうか。彼自身、実に不本意なことが多々あったように思う。まさに彼にとっては、“忍”の一字の選挙だったのではないかと思うのだ。
別言すれば、石田氏の敗因は、石田氏自身にあったというより、むしろ民主党や共産党、それに労働組合、加えて有権者などの外的要因が絶大だったように思うのだ。前述したように、もし石田氏が民主党や連合愛知の干渉や規制を受けずに、思う存分、選挙運動ができたならば、あるいは彼は選挙に勝てたのではないだろうか。つまり、石田氏の支持基盤が、にわか仕立てで脆弱だったことが、石田氏の決定的敗因だったように思う。その支持基盤の確かさでは、神田陣営は石田陣営の比ではなかった。
それに、選挙期間の時間の少なさや活動範囲の狭さなども、石田氏にとっては不利に働いたと思う。さらに、陣営内の連絡不行き届きや足並みの乱れなどが最後までマイナスに影響したと思える。だがさまざまな不利な条件にもかかわらず、石田氏は精一杯健闘したと思うのだ。以上が、私にとって、神田氏の勝因、石田氏の敗因と言えるものである。
◆はじめに――石田芳弘氏の衆議院議員当選を心から祈念したい
愛知を変えて新しい日本を創ろう!――天命の政治家「石田芳弘氏」論 続き1
愛知を変えて新しい日本を創ろう!――天命の政治家「石田芳弘氏」論 続き2