2009.2.11
中谷氏の良心、竹中氏の邪心



◆はじめに
 今回は「現代日本政治論」の本筋から少し離れることをご海容いただきたい。
 ところで、人を単純に善悪で論じることはできない。だが、その「生き方」が正しいか、そうでないかを論じることはできるだろう。
 その意味で、本稿では、中谷巌(なかたに・いわお)氏と竹中平蔵氏の生き方の違いについて論じたい。両者ともグローバル資本主義、ひいては小泉構造改革を強力に推進した経済学者である。無論、厳密には、中谷氏は小渕内閣の「経済戦略会議」にこそ参加したものの、竹中氏ほど小泉構造改革に深く関与したとはいえない。だが同氏は、経済戦略会議の諸提言のいくつかがそのまま小泉構造改革に盛り込まれている、と告白する。その意味では、間接的な形ではあっても、彼自身、「小泉構造改革」の“片棒を担いだ男”の一人であると自認する。
 しかし、中谷氏が自ら犯した過ちを深く反省し、その正直な心情を最新著(『資本主義はなぜ自壊したのか』集英社インターナショナル)で堂々と表明しているのに対して、竹中氏にはその反省の弁はひと言もなく、むしろ昨今の経済不況の一因は“構造改革の不徹底にある”とまで言い張る。まさに同氏には、自ら推進した「構造改革」に対する真摯な反省の念は微塵も感じられない。むしろ、竹中氏は開き直っている。あるいは、居直っている感じだ。つまり、この両者は、その生き方において実に対照的である。私はそれを「中谷氏の良心、竹中氏の邪心」と表現したい。

◆かつての「構造改革の急先鋒」の懺悔と警鐘
 中谷氏の最新著の「帯」には“構造改革の急先鋒であった著者が記す「懺悔の書」”とある。また、本書の副題には“「日本」再生への提言”とある。それに付随して、「帯」には横書きで“リーマン・ショック、格差社会、無差別殺人、医療の崩壊、食品偽装。すべての元凶は「市場原理」だった!”と続く。
 だが読者は、本著のタイトル名に疑問を感じられることだろう。これについて筆者自身、終章のなかで次のように語っている。
《本書のタイトル『資本主義はなぜ自壊したのか』は「過去形」の表現になっているが、もちろん、資本主義が全面的に自壊しているわけではない。しかし、自由を満喫したグローバル資本が世界経済を不安定化させ、所得格差拡大で不幸な人々を大量に生産(*いかにも冷厳な経済学者らしく、何と情趣なく、かつ心ない言葉だろう――筆者注)し、また、地球環境をもはや修復不可能に近いところまで汚染してしまったという意味で、資本主義の自壊作用はすでに始まっているというべきなのである》と。
 こうならないために、著者は人間(とりわけ経済人や株主たち)に「自制の精神」を求め、次のように記す。
《このように考えると、グローバル資本の行動をより自由にする「改革」(*既存の「構造改革」――筆者注)に血道をあげることだけが正義だという「改革派」の愚は慎まなければならない。むしろ、さらなる「自由」を求める動きに対しては、それがおそらくは資本主義の自壊、さらには人類という種の自滅を早めるだろうことを認識し、欲望の肥大に対して自制の精神を持つように努力することが適切な行動原理になる》と。
 まさに、資本主義は“欲望の肥大”を特徴とする。とくに、中谷氏が「グローバル資本主義」と呼ぶ「行き過ぎたアメリカ型金融資本主義」は、際限なく“欲望を肥大化”するものだ。それをどこかで規制し、あるいは自己規制することなしには、資本主義は崩壊(=自壊)する道しか残されていない。中谷氏は、その危険性に対して警鐘を鳴らすのである。

◆自壊しはじめたグローバル資本主義
 では、「グローバル資本主義」の本質的欠陥とは一体何だろう? それについて中谷氏は次の三点を挙げる。
《一、世界金融経済の大きな不安定要素となる。
 二、格差拡大を生む「格差拡大機能」を内包し、その結果、健全な「中流階層の消失」という社会の二極化現象を産み出す。
 三、地球環境汚染を加速させ、グローバルな食品汚染の連鎖の遠因となっている。》
 このなかでも、私は「中流階層の消失」という言葉に注目したい。これこそ、中谷氏が実際に体験した30年前のアメリカと今日のアメリカとを比較して感じた“現実”であり、同時に今日の日本が経験している“歴史的真実”なのである。このような現実の把握を経て、中谷氏は次のような認識に至る。
《今回の金融不安は、まさにその本質的な欠陥や問題の一部を露呈したものに他ならないし、現在も深刻さを増しつつある環境汚染、食品汚染、格差拡大などを考えると、グローバル資本主義にはかなり大きな修正が不可避になるはずである。もっと強く言うことを許していただけるなら、「アメリカ主導のグローバル資本主義は自壊しはじめた」というのが筆者(=中谷氏)の認識なのである》と。
 「アメリカ主導のグローバル資本主義は自壊しはじめた」というのは、もはや自明のことで決して新しい想念ではない。だが、いままでその「アメリカ主導のグローバル資本主義」を先導、かつ推進してきた経済政策の代表的な専門家の言だけに、その言葉の持つ意味と重みは限りなく大きいと思うのだ。
 私は経済学の専門家ではない。だが、いろいろな経済関係の書物を渉猟して思うことは、今日、単に「グローバル資本主義」だけに止まらず、「資本主義」そのものが浮沈の極みにあるのではないかということだ。それほどにアメリカ型金融資本主義は邪悪で、“破壊的な”ものだと思う。それに、「詐取」や「搾取」を大前提にするミルトン・フリードマンの新自由主義などに真の成功や成就、それに人間の幸せなどあり得ないではないか。むしろ、その欺瞞と虚偽が看破できなかった日本の経済学者のナイーブさが私には信じられない。彼らがフリードマンに振り回された背景には、自ら真の“哲学”を持っていないからだったと思う。彼らはただ皮相な功利主義と屁理屈に幻惑されただけだと思うのだ。
 その意味で私は、グローバル資本主義が自壊し始めたというのは物事の偶然の結果だなどとは思わない。むしろ“自壊すべき”問題性を内包した社会の枠組みが崩壊しているだけだと思えるのだ。
 「サブプライムローン」にしても、それを喩えるなら、毒性の強い劇物を一千万倍に薄めて投与したからといって決してその毒性が減じるわけでもなく、ましてや、なくなるわけでもない。あくまで毒は毒なのだ。それを知りつつ安易に許したブッシュ政権やニューヨーク・ウォール街の金融界の経営陣や直接の関係者たちが“邪悪だった”のである。
 それに代表されるように、「グローバル資本主義が自壊し始めた」というのは単なる物事の結果ではなく、むしろ早晩そうなるような運命を背負っていた“自己破壊的な”経済理論(=新自由主義理論)が破綻し、世界の人々が多大の迷惑を蒙ったのだと思うのだ。

◆求められる洞察力と真の“哲学”
 「論語読みの論語知らず」という言葉がある。たとえ『論語』を百万遍読もうとも、孔子の精神に深く思いをいたし、それを“体得する”ことなしには、『論語』の精神は把握できない。また、「学びて思わざれば、すなわちくらく、思いて学ばざれば、すなわち危うし」とも言われる。自分で徹底的に考え抜くと同時に、謙虚に他人に学ぶことも大事なのである。これはあらゆる学問について言えよう。
 そこには、柔軟な想像力と洞察力、それに絶えざる創造力が求められる。まさに、「木を見て森を見ず、森を見て山を見ず」ではいけないのだ。だが、その「山」を見るためにはつねに柔軟な発想と洞察力、それに真の“哲学”が必要だと思うのだ。
 その点、中谷氏は、政府関係者としての自らの体験について次のように正直に述べる。
 《今にして振り返れば、当時の私はグローバル資本主義や市場至上主義の価値をあまりにもナイーブに信じていた。そして、日本の既得権益の構造、政・官・業の癒着構造を徹底的に壊し、日本経済を欧米流の「グローバル・スタンダード」に合わせることこそが、日本経済を活性化する処方箋だと信じて疑わなかった。
 もちろん、戦後日本経済の活力を奪いつつあった既得権益構造の打破などに関しては、今でも自分の主張は正当なものであったと信じている。
 だが、その後に行なわれた「構造改革」と、それに伴って急速に普及した新自由主義的な思想の跋扈、さらにはアメリカ型の市場原理の導入によって、ここまで日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、さまざまな「副作用」や問題を抱えることになるとは、予想ができなかった。この点に関しては、自分自身の不勉強、洞察力の欠如に忸怩たる思いを抱いているのである》と。
 私は、上記の文章に、中谷氏の勇気と良心を感じる。実際、学者の書物のなかにこのような正直な感情の吐露を見るのは、生まれて初めてである。
 孔子は「過ちて改めざるこれを過ちという」と述べたが、私は、一概に中谷氏を責める気にはなれない。むしろ中谷氏は、「既得権益構造の打破」などに心底情熱を感じていたと思う。それに、これほどの心情を吐露できた同氏はたいへん立派だと思うのだ。中谷氏ご自身、「自分自身の不勉強、洞察力の欠如に忸怩たる思いを抱いているのである」と語っておられるが、日本の学者や研究者に、これだけのことが言える学者が一体何人いるのであろうか?
 私は、これだけのことが言える中谷氏は本来、十分な洞察力と真の“哲学”を持っておられると思う。むしろ、それらがあるからこそ、「過誤は過誤」「是は是、非は非」としてかつての自分の思想や行動を再検討し、かつ自己批判できると思うのだ。その背景には、中谷氏はつねに自己の責任で徹底的に考え抜き、あくまで自主的に行動してきた実績があるからではないだろうか。
 それが、アメリカのロバート・ゼーリック氏(2005年当時の国務省副長官)の指示で行動していた竹中氏とは明らかに違うところだ。竹中氏は小泉氏同様、自らの意思と行動で政策を遂行したというより、むしろアメリカ政府の指示と命令で動いていたと思うのだ。このような“紐つき”状態では、決して十分な洞察力と真の“哲学”は生じない。竹中氏に、それらを求めることはもともと無理なのだ。そのような彼の心に、真の思想的自由と“客観性”など生まれようがないのだ。
 つまり、中谷氏はフィロソホス(愛知者=哲学者)にはなり得ても、竹中氏は単なるソフィスト(似非学者。実質、詭弁家)に過ぎない。同氏に仮にケシ粒ほどの洞察力と“哲学”があるならば、彼はいまのような実質“逃げ腰”の言動はとっていないであろう。むしろ、それがまったくないゆえの言動だと思うのだ。
 いまもって臆面もなくテレビに出る竹中氏は、金子勝氏(慶応大学教授)などと討論するときでも、あくまで自分に都合のいい事実だけをまくし立て、糾弾されてもまったく逃げの一手なのだ。彼は決して真正面から反論しない。つまり、彼には真の学問的な“真摯さ”が微塵もないのだ。それに、彼自身に真の客観性や謙遜さなどないから、彼との間には“真の議論”は成立しない。単なる一方的な詭弁を聞くだけの、実に不愉快な時間となる。
 十分な洞察力と真の哲学は、中谷氏ではなく、むしろ竹中氏にこそ求められるべきだろう。だが先述したように、それはもともと無理な話だと思う。なぜなら、彼にはそれを受け入れるだけの知的想像力や真の“自由さ”、それに“主体性”などないからだ。さらに、彼はそのような世界とはまったく無縁な世界で生きている人物だと思うからである。

◆自己中心的な発想の蔓延
 中谷氏の文章はしなやかで実に読みやすい。その思想が真に柔軟で客観的であるゆえに、文章そのものが具体的で説得力に満ちている。
 ところで、竹中氏の発想を端的に表現すれば、それは“自己中心的な発想”と言えよう。まさに彼は物事を“天動説”的に議論し思考するゆえに、勢い自己を絶対化し、自らを相対化できない。つまり、彼は似非学者ではあっても、“真の愛知者”にはなりえないと思う。彼の本質は、自己欺瞞とその“自己中心的な発想”であろう。小泉純一郎氏もまったく同様である。まさに「類は友を呼ぶ」と思うのだ。
 ところで、中谷氏は、今日の日本の現状について次のように述べている。
《地方経済が悲惨な状況にあるのは、地方への十分な税源移譲がなされないまま、国家の財政再建を優先し、地方交付金や公共事業が削減された結果である。手足を縛られたままで、交付金や公共事業が削減されれば、それらに依存していた地方が疲弊するのは当然である。
 地方が自律的に動けるように、住民の生活を安定させるのに必要な税源措置の裁量権を与え、それと引き換えに中央からの財政資金の絞り込みをするというのがあるべき順序なのに、それが逆になってしまっている。これでは地方が悲鳴を上げるのは当然である。〈中略〉
 国内においてさえ、十分に安全性を保証できないことが、どうしてグローバル規模で可能になるのか。そんなことはあり得ない。業者が産地偽装をしたり、あるいは危険な食材と知りつつ消費者に提供したりといった事件の増加は、明らかにグローバル資本主義の副産物なのである。〈中略〉
 「より多く儲けた者が勝ち」という新自由主義的な価値観は、裏を返せば「手段のためには目的を選ばない」「稼げない人間は負け組であり、それで飢えたとしても自業自得である」という考えにそのままつながる。こうした自己中心的な発想が蔓延したことが、今の日本社会から「安心・安全」あるいは人と人との信頼関係や絆が失われる事態を惹き起こしてしまったのではないだろうか》と。
 まさにそのとおりである。また、この「自己中心的な発想」こそ、アメリカの新自由主義の本質だと思う。この考えが小泉氏や竹中氏に適合したのも、彼ら自身がまったくその“波長”を同じくしているからだと感じる。だが、このままでは、日本はみじめで貧しいままであろう。この「自己中心的な発想」を改め、超克するところに、新しい日本のあるべき姿があると思うのだ。
 事実、相互協力的な動きは日本の各地で起こりつつある。この動きをより充実させ深化させることができれば、日本の未来は決して暗いままではないはずだ。その行動の原点は、新自由主義に潜む「自己中心的な発想」をしっかりと把握し、それを徹底的に否定することではないかと思うのである。

◆新自由主義は「危険思想」
 「危険思想」という言葉自体、今日ではほとんど聞かれない。正直、実に“時代がかった言葉”だと思う。この言葉を発する中谷氏に、私は世代的な違和感を覚える。だが今日、中谷氏は、“新自由主義は「危険思想」である”と断ずる。彼は言う。
《新自由主義に基づく単純な「構造改革」路線で我々が幸せになれるなどというのは妄想にすぎないということを痛感させられる。
 新自由主義の思想は、私たちが暮らす社会を個人単位に細分化し、その「アトム化」された一人一人の自由を最大限尊重するという思想だから、安心・安全、信頼、平等、連帯などの共同体価値には何の重きも置かない。つまりは人間同士の社会的つながりなど、利益追求という大義の前には解体されてもしょうがないという「危険思想」なのである。
 現代世界には、そんな危険思想を内包するグローバル資本という怪物が地球上を自由に闊歩しているのだ。  グローバル資本主義や新自由主義というモンスターの被害は、格差社会の広がりに象徴されるような「社会の解体」だけにとどまらない。世界中で起きている環境破壊もまた、市場原理優先の生み出したものに他ならない》と。
 今日の格差社会、経済破綻、それに環境破壊や人間間の信頼関係の希薄さや社会的信用の失墜などを考えるとき、「新自由主義は危険思想」という中谷氏の言葉は、決して大袈裟ではない。むしろ、そのように断ずる峻厳さこそ、今日のわれわれに求められると思うのだ。

◆中谷氏が本書を上梓した目的
 出版には必ずその意図と目的がある。中谷氏の本書は「懺悔の書」という触れ込みだが、決してそれだけではない。事実、彼はその出版の目的を次のように記す。
《本書は筆者自身の「懺悔の書」であると同時に、グローバル資本主義や市場原理が本質的に個人と個人のつながりや絆を破壊し、社会的価値の破壊をもたらす「悪魔のシステム」であることを筆者なりに解明していくことを目的にしている。さらには、「小さな政府」や「自己責任」といった公共利益よりも私的利益を重視した新自由主義やグローバル資本主義の欠点を是正するためのありうべき方策の方向性についても提言したいと思う》と。
 まさにグローバル資本主義や市場原理が「悪魔のシステム」だという認識こそ重要である。その「悪魔性」を真に理解できてこそ、それを避け、否定し、拒絶する勇気が求められるのだと思う。
 また、それが「悪魔のシステム」であるゆえに、それらを助長する新自由主義はまったくの「危険思想」なのである。それを理解できなかった経済学者やいまでもそれを信じようとする人々のなんとナイーブ(=無知)なことか。それは、自ら毒を食らいつつ、それがあたかも薬だと妄信する愚かな患者に似ていよう。
 私たちは、その無知・無明の状態から一刻も早く脱しなければならない。中谷氏の解明・解説がその有力な一助となろう。なぜなら、同氏は、この書を通してグローバル資本主義や新自由主義が「悪魔のシステム」であることを解明することを上梓の目的としてくれているからである。また、今後、日本国民がとるべき方策について提言してくれているからでもある。その意味で、本書は、まさに日本国民必読の快著だと思うのだ。

◆「厚顔無恥」の竹中平蔵氏
 ここで少し翻って、竹中平蔵氏について語りたい。「竹中氏の邪心」とまで書くのであるから、読者には私がよほど彼に個人的な恨みや怨念を抱いているのかと思われるかもしれない。だが、私は彼に対してそのような私的感情は一切ない。第一、私は彼と付き合ったこともなければ、話したことさえない。正直、話したいとも思わない。
 しかし、私は「政治指導者論」を専攻する手前、「人物論」そのものに多大の興味を抱いている。とくに竹中氏のように現代の日本政治や経済政策に多大の影響を持った人物に対しては、特段の関心を持つ。それゆえに、彼の言動について私なりに論じるだけのことだ。
 私の「人物論」は至って単純だ。その人物が信じられるか否か?である。また、それに付随して、その人物が“自立した自主・独立の存在”か、まったく“紐つき”の従属的な存在か?ということである。それで、竹中氏について端的に表現すれば、私は彼をまったく“信じられない”。また、彼は他者に“依存的な”人物だと思うのだ。換言すれば、彼ほど“眉唾”な男も珍しい。
 『週刊新潮』1月29日号の特集記事「それでも平気でテレビ出演『竹中平蔵』厚顔無恥の研究」は実に興味深いものだった。なかでも作家の高杉良氏の「竹中評」は出色だ。
 高杉氏は、1975年の『虚構の城』以来、非常に画期的な経済小説を物する特筆すべき大家である。同氏は「サンデープロジェクト、竹中平蔵vs金子勝のガチンコ対決」を観たあとの感想を次のように述べている(以下、『週刊新潮』1月29日号より)。
《彼は、“構造改革を断行し、成果を得た”つもりのようだが、いったいどこが改革され、どういう成果を得たというのか。道路公団? 中途半端な結果です。郵政民営化? これは最悪です。郵便事業は国民にとって欠くべからざるライフラインですが、地方では郵便局が無くなるなど悲惨なくらいズタズタになっている。会社化したらそうなることは目に見えていた。民営化に失敗し元に戻したイギリスのように、今からでも過ちを認めて元に戻すべき。かんぽの宿にしても、うまく運営すれば赤字にならないはずなのにオリックスに売却という、出来レースのようなおかしなことになっています。》
 同誌の記者は書く。「番組中で、竹中氏の“業績”と称揚された小泉政権下の『不良債権処理』についても、高杉氏は手厳しい」と。実際、高杉氏の言葉は、こう続く。
《竹中がやったデフレ不況下における“ハードランディング”は、先進国では前代未聞のことで、彼が信奉するアメリカにそそのかされてやったこと。デフレの最中に不良債権処理をやっても、それは新たに不良債権を生むだけで一向に減るわけがない。その結果、東京三菱銀行に実質吸収され“消失”したUFJ銀行が巨額の貸倒引当金戻入益を計上し、“三菱東京UFJ銀行がトヨタを超えた“という間抜けな報道が出たりした。むしろ、この時に竹中が行った“厳格な資産査定“という銀行いじめが、いかに多くの貸し渋り、貸し剥がしを生み、どれだけの中小企業が潰れたか、彼は全然分かっていないのです。小泉・竹中コンビはスクラップだけでビルドしていない。こうした“日本経済壊し“がなければ、今回の世界同時金融危機でも日本はもっと優位に立てたはずなのです。(派遣切りにつながる)製造業に派遣を認めるという規制緩和も、もちろん小泉・竹中がやったことです》と。
 同誌記者はこう続ける。「高杉氏の竹中批判は、その特異な“人間性”にも及んだ」と。
《たとえば、02年に金融担当大臣という立場ながら、米ニューズウィーク誌のインタビューで、“四大銀行であっても、大き過ぎて潰せない(too big to fail)、という考えはとらない”と発言して銀行株を急落させたことがある。ところが、国会でそのことを追及されると、証拠テープもあるのに“そのようなことは言っていない”と嘘をついた。そんな食言を平気でするんです》と。
 高杉氏は続けてこう述べる。
《彼の議員辞任劇も疑念が残るものでした。彼は06年9月15日、参院議員を突如辞任したのですが、それは彼の政治資金規正法違反を報じる『週刊ポスト』が発売される前日というタイミングでした。編集部には、“事実誤認だ”というFAXが届いたそうですが、国民への説明責任を果たさないままの辞任でした》と。  高杉氏は、竹中氏の大臣就任当初から竹中氏を「亡国の徒」と批判している。まったく同感である。録音テープのなかに自分が告白した声があるのに、それを言下に否定する彼はもはや日本人ではない。むしろ人間でさえないと思う。
 古来、日本では「私」にとらわれない純粋な心(=「清明心」)を尊重する。まさに竹中氏は、この思いと対極に位置する人だ。むしろ彼は、「自己中心型」人間の典型で“自己防衛本能”が極端に強い。だが、彼は真に賢明なのではなくて、単にずる賢いだけだと思う。彼はまた強そうに見えて、本質的に弱い人間だと感じる。一見、「厚顔無恥」に見える彼は、このような自らの不正や弱さを隠し、小心にもすべてから逃げようとしているだけだと思うのだ。

◆中谷氏が見逃していたこと
 また、中谷氏の話に戻りたい。同氏は1969年(彼が27歳の時)、サラリーマン生活(日産社員)に見切りをつけてハーバード大学に留学した。それも、大学院博士課程(経済学)にである。1973年に彼は経済学博士号を取得している。最低5年は必要と言われるアメリカでの学位取得を4年で達成したわけであるから、並大抵の努力ではなかったことだろう。
 当時の経済学は、ポール・サミュエルソンの時代だった。これについて中谷氏は次のように述べている。 《しかし、実は当時、アメリカ経済学で主流を占めていたのは、けっして今のような市場原理主義的な考え方ではなく、ノーベル賞経済学者サミュエルソン教授らが中心となって提唱していた「新古典派総合」と呼ばれる考え方であった。サミュエルソン教授らの思想は、マーケット・メカニズムを重視する「マネタリスト」と呼ばれる立場と、政府介入を許すケインズ経済学を適切に組み合わせることで資本主義経済は安定的発展を遂げられるというものであった。悪く言えば折衷的、よく言えばバランスの取れた穏健な経済学である。
 しかし、アメリカ経済学はやがて、政府の市場介入を全面的に否定する、市場原理主義的な急進的学派(「合理的期待形成学派」)に席巻されるようになり、それがレーガノミックスという形でアメリカ政府の経済政策をも大きく変えていくことになる。私(中谷氏――筆者注)の立場も、この市場原理肯定派に近かったのは言うまでもない。だが、ここで私が見逃していたのは次の二点であった。
 すなわち、第一に、日本とアメリカでは国の成り立ちも大きく異なり、アメリカ流経済学をそのまま日本に適用しても、それで日本人が幸せになれる保証などどこにもないという当たり前の事実である。
 そして第二の盲点は、私の留学当時、私を圧倒したアメリカの豊かな社会を支えていたのは、実は自由な市場活動などではなく、「偉大な社会」建設を謳い、政府の役割を重視していた「新古典派総合」に基づく経済政策であったということである。私はこうした現実を見過ごして、レーガン政権以降に主流になる新自由主義こそが、昔からアメリカ流経済の中心であったかのように錯覚してしまった点である。
 当時のアメリカ社会が豊かで、健全な中流階層が存在しえたのは、実は、何も新自由主義的な意味で市場原理がアメリカ社会で貫徹していたからということではなく、むしろ、フランクリン・ルーズベルト(FDR)によるニューディール政策や戦後のケインズ的政策、所得平等化のための税制や社会福祉政策のおかげであった》と。
 著者によるこの錯誤の指摘は、たいへん重要だと思う。なぜなら、かつてのニューディール政策やケインズ的な政策の業績を正当に評価しているからである。また、彼の新自由主義への肩入れが、留学時代からの“根の深い”ものであったという事実を有り体に告白しているからでもある。
 実際、渦中にいたり当事者でいたりすると、なかなか自己を客観化できないものだ。留学時代の中谷氏がまさにそうだった。それを彼は“アメリカかぶれ”と表現した。たしかに、彼はアメリカにおいて市場原理主義、ひいては「新自由主義」に心底“かぶれた”のである。

◆日本の前轍(ぜんてつ)としてのアメリカ
 だが、戦後、ケインズ的な政策で形成されたアメリカの中流社会は、中谷氏の言に従えば、1981年に登場したレーガン政権によって決定的に変質してしまった。彼は言う。
《「小さな政府」「高額所得者向けの減税」「自己責任」といったキャッチフレーズのレーガノミックスが推進されたことで沈滞していたアメリカ経済を活性化することにはある程度成功したが、その後、たったの30年足らずで、アメリカ社会では所得格差の拡大と、それに伴う中流階級の消滅、そして、医療や福祉の後退が起こったのである》と。
 だが、これとまったく同じ現象や問題がサッチャリズム下のイギリスや中曽根政権下の日本でも起こった。三国間の経済理論や経済現象はまさに緊密な関係をもち、相互に連動し合ったともいえる。より腹蔵なく言えば、日本は、アメリカが引き起こした独善的で問題の多い経済政策の誤り(=前轍)を踏んだのである。

◆新自由主義台頭の背景
 アメリカの豊かさや社会的中間層の現出は、ケインズ理論を抜きには考えられない。だが、物事にはバランスが必要である。事実、中谷氏によれば、戦後、隆盛を誇ったケインズ経済政策による経済介入が1970年代に入って行き過ぎる事態が発生した。彼は言う。
《どういうことかというと、ケインズ経済学は景気の安定化という仕事が政府の仕事であると主張するのだが、それならば、景気の良いときには政府はむしろ介入しないで、様子を見るほうに回らなければならないはずである。景気が過熱してきたならば、逆に引き締め政策を採らなければいけないだろう。
 ところが、そうはならなかった。なぜならば、景気が良いのに、議員たちは「引き締め」どころか、有権者の歓心を買うために、誰もが喜ぶ公共事業や福祉政策を推進するための計画をぶちあげたからである。ケインズ経済学はそういった議員たちにとって格好の理論的支柱になった。
 こうなると、ケインズ経済学が言うところの「景気の安定化」は機能せず、逆に景気過熱と公的部門の肥大という副作用をアメリカ経済にもたらすことになる。実際、景気過熱によるインフレと、巨大な財政赤字、さらには、公的部門の肥大という「先進国病」を抱えるようになっていった》と。
 ここに、ケインズ経済学そのものの問題というよりも、議員たちが自ら選挙に勝ち残りたいがためにやるべき適正な経済政策を行わず、公費を無理に遣い果たしていったという構図が浮かび上がってくる。しかし、このような現実は決してアメリカ一国の問題ではない。日本の政治にもまったく同様の問題が存在したと思うのだ。だが、アメリカの場合それだけではなかった。中谷氏は続ける。
《1964年の大統領選挙で「地すべり的勝利」を収めたジョンソン大統領は、議会における民主党の圧倒的優位を背景に「偉大な社会」実現のための一連の社会改革立法を次々と成立させ、ニューディール以来の画期的業績を上げたと評されている。
 だが、対外的にはジョンソン政権時代にはベトナム戦争がエスカレートし、戦費も急速に増大した。高齢者医療補助制度(メディケア)などの福祉政策の拡充もあって、アメリカの赤字財政はいよいよ深刻なものになっていった。その後、追い打ちをかけるように石油ショックが起こったため、インフレが激しくなる。その結果、1970年代後半に入ると「大きな政府」批判が徐々に強くなった。
 それに伴って、1970年代後半のアメリカ経済学界の主流は、ケインズ経済学や新古典派総合から「小さな政府」「市場原理」「自己責任」を軸とするマネタリストや、合理的期待学派に変わっていった。
 マネタリストや合理的期待学派の考え方とは、一言で言って、ケインズ的な景気対策は役に立たないばかりか、公的部門を肥大させ、経済のダイナミズムを喪失させるのでかえって有害だというものであった。この考え方は次第に有力となり、ついに1981年にレーガン政権が誕生するに至る》と。
 今日、アメリカの財政赤字の規模は悲劇的なまでに巨大化している。とりわけ、ジョンソン大統領の「偉大な社会」の背後では、ベトナム戦争、福祉政策の拡充、石油ショックなどでアメリカの赤字が膨らんだ。  国家経済をとくに疲弊させるのは戦争であろう。ベトナム戦争がアメリカ経済に与えた負の遺産は限りなく大きい。ジョンソン大統領自身が、その重要な責任者の一人なのだ。それは、今日のイラク・アフガン戦争におけるブッシュ大統領と同じだ。
 アメリカの政治・経済は30〜40年で循環すると言われる。政治的循環論はアーサー・シュレジンガー・Jr博士の説だが、今日では、経済的にもその循環論が定着している。その説に従えば、1970年代までがケインズ理論と新古典派総合の時代で、80年代から今日までの30年間が反ケインズ的な市場原理主義や新自由主義の時代であった。
 だが、新自由主義が台頭した背景には、ジョンソン時代の「偉大な社会」の崩壊と、旧ソ連崩壊後のアメリカ第一主義やグローバリズムの勃興があるように思う。この新自由主義の考えが、とくにアメリカ・イギリス・日本の三国間で共同歩調がとられたと思うのだ。
 とりわけ、「米ソ対立」の時代から、ソ連崩壊を機にアメリカ一国が勝ち残ったような印象を与えたことが、各国のアメリカ流金融資本主義への傾倒を強化していったように感じる。新自由主義はそのような国際潮流の変化を背景にして台頭したように思うのである。

◆中谷氏の疑念――「構造改革は日本人を幸福にしたか?」
 中谷氏の努力もあり、「構造改革」が少しずつ進められ、日本経済が「グローバル・スタンダード」を受容していく過程で、同氏にはある種の疑念が芽生えた。それは、「構造改革やグローバル資本主義によって日本人は幸福になったのだろうか」という疑問である。それも、「今世紀にはいってからのこと」と書いているので、小泉構造改革自体を中谷氏はかなり早い時期から批判的に凝視していたことが窺える。彼は次のように述べる。
《小泉内閣の最大の課題であった郵政民営化は曲がりなりにも実現したが、最大の成果は、郵便貯金や簡易保険で集められる資金が自動的に財政投融資となって不要不急の公共事業に流れていくという仕組みにくさびが打ち込まれた点にあった。この功績はこれからも語り継がれることになるであろう。しかし、田舎にあった小さくて便利な、村の人たちに愛された郵便局が民営化され、採算が合わないという理由で次々に廃業していくことにどれだけの意味があったのだろうか。さぞかし、日本の昔懐かしい風景がひとつ消えて、さびしい思いをした人たちが大勢いたことだろう。
 小泉改革を経て、日本社会は他人のことに思いを馳せる余裕がなくなり、自分のことしか考えないメンタリティが強くなったのではないか。地域はいっそう疲弊し、所得格差は格差は拡大した。医療改革によって老人たちの心は穏やかさを失った。異常犯罪が増え、日本の社会から「安心・安全」が失われた。こうした人心の荒廃や、貧富の差の拡大は、経済環境の変化がもたらした一時的・過渡的な現象などではなく、グローバル資本主義やマーケット至上主義そのものにビルト・インされたものではないか。日本で進められてきた「構造改革」にはこれら日本社会の変化にほとんど関心を寄せることはなかったのではないか》と。
 まさに、人心の荒廃や貧富の差の拡大がグローバル資本主義やマーケット至上主義に内在的なものだという仮説(あるいは指摘)こそ、中谷氏の心の奥底に潜む“実感”なのではあるまいか。事実、私は“内在している”と思う。
 つまり、グローバル資本主義やマーケット至上主義は、人間としての倫理や道徳観とはまったく関係なく、人にわからなければ詐欺や搾取をしてでも勝ち残ればよいという考えだからである。そのようなもの(=構造改革)が日本人を幸福にするわけがないではないか。同時に私は、「構造改革は日本人を幸福にしたか?」と疑問を感じるところに、かなり遅まきとはいえ、中谷氏の「良心」を感じるのである。

◆竹中氏の邪心
 これに対して竹中平蔵氏はどうだろう?
 最近、全国の「かんぽの宿」がオリックス不動産に破格の安値で譲渡される予定であったことが判明した。2400億円もの巨費を投じて建設された物件(70の宿泊施設と9つの首都圏の社宅など)が109億円もの相対的な超安値で一括買い上げられる話になっていたという。つまり、“最初からオリックス不動産に決められていたのではないか”というのが大方の国民の疑念だと思う。
 この最終決定をしたのが西川善文社長だ。彼を社長に強く推したのが竹中平蔵氏である。それも、小泉政権が終わる直前に無理に押し込んだ。
 実際、オリックスの主宰者である宮内義彦氏と西川善文氏、それに竹中平蔵氏の三者は、緊密なトライアングル関係を保持していたと思われる。その三者がお互いに利益になる協力・共助関係を維持していると考えても、決して無理はないだろう。
 人にバレなければ何をやってもいいとか、アメリカの命令や指示で経済・金融政策を履行しながら、そのような事実はまったくないと言い逃れる厚顔、それに嘘を何度も繰り返しながらも平気で“嘘などついていない”と言い張る無恥など、すべての彼の言行の“邪悪さ”をまとめて、私は、“竹中氏の邪心”と書いた次第である。
 ところで、前掲の『週刊新潮』に、『国家の品格』の著者・藤原正彦氏が「私があの小泉・竹中構造改革路線で一番許せないと思っているのは、日本にとって一番大切な『国柄』を壊されてしまったことなんですよ」と書い語っている。
 藤原氏は続ける――《彼らがやった改革と称するもので、どれだけ日本的な文化が破壊されてしまったか。終身雇用や年功序列を大事にし、家族的で無闇にリストラなどしない日本的な経営方式がそうです。取引先との株の持ち合いや、ドライな金銭感覚だけでなく人情をベースにした契約関係もそうです。会社が大変になったら、末端に押し付けるのではなく、上の役員から給料を下げていくような慣習は日本にしかなかったものでしょう》と。
 まさに竹中氏の“邪心”は、彼の個人的な思惑をはるかに超えて、日本の文化の一部を破壊し、人間間の信頼、信用、信義をないがしろにし、国民に不幸をもたらした。これらの事実になんら反省の念がないところに、私は彼の邪心の罪深さを感じるのである。(つづく)