第4回(9月10日)
瀬島龍三氏の死に想う



 9月4日午前零時55分、「昭和の参謀」と呼ばれた瀬島龍三氏(95)が、老衰のため都内の自宅で死去した。毀誉褒貶の差が著しい現代史の人物が亡くなった感じだ。果たして、彼の生涯は真実、幸せなものだったのだろうか? 私には、世間的な栄光の裏に、実に汚辱に満ちたものだったように思える。
 「善悪共存 生涯の参謀」(朝日)、「昭和史の表裏で異彩」(西日本)、「戦争と復興…昭和史に異彩放つ」(熊本日日)など、「参謀」と「異彩」という言葉が目立つ。西日本新聞は、次のように記した(漢数字を洋数字に直しました。なお、熊本日日新聞も同じ筆者による同様の記述でした――筆者注)。
 《太平洋戦争で対米英戦の作戦主任だった旧陸軍のエリート参謀、瀬島龍三氏が死去した。11年間のシベリア抑留を経て戦後は商社マンから「歴代首相の指南役」「政界の陰のキーマン」となり、功成り名を遂げた。その軌跡を取材したが、戦争と復興の昭和史に異彩を放つ存在だった。
 1995年7月、東京・青山の伊藤忠商事東京本社21階の応接室でインタビューした。「大本営時代の事柄に限って質問に答える」という条件付きだった。
 当時83歳。細身の体をグレーのスーツに包み、背筋をぴっと伸ばし、声は年齢より若々しい。どんな質問にも感情的になることなく、理路整然と答えていたのが印象的だった。(中略)
 トップで卒業した陸軍大学校では戦術や戦史を徹底的に教え、図上演習を繰り返す教育をしていた。ある同期生は「瀬島には他人にまねできない緻密さがあってね。彼に『この方がいいと思う』と突き付けられると、反論できる能力のある人はあまりいなかった」と回想している。
 事態を分析して戦略を立て、戦術を練る秀でた能力は多くの人が証言していた。瀬島氏は77年に外相に就任した園田直氏から度々、大臣室に呼ばれた。園田氏の秘書は「政治にはいろいろな問題が複雑に入り組んで星雲状態にある。それを瀬島さんは整理して箇条書きにしていく。それを見て初めて客観視できるようになる」と瀬島氏の指南ぶりを話している。
 この能力は委員となった81年発足の第二次臨時行政調査会で遺憾なく発揮される。「裏臨調」と呼ばれた作戦本部を設けて政官財界の利害調整を一手に引き受け、電電公社、国鉄などの民営化を実現させた。
 こうした表の顔とは別にほとんど知られていない顔もあった。シベリア抑留から帰還した瀬島氏は58年に伊藤忠商事に入社した。前年の11月、戦時中、日本軍が占領支配したインドネシアへ総額8百3億円を支払うことで賠償問題が決着していた。
 この賠償には現物支払いも含まれ、その利権をめぐって日本の商社が争奪戦を繰り広げた。瀬島氏はジャカルタに飛び政府要人らと接触していた。その後は、5億ドルとなった韓国への賠償をめぐる商戦でも豪腕を発揮している。その売り込みには「右翼の黒幕」といわれた児玉誉士夫と結び付き、猛烈な政界工作もしている。
 防衛庁発足以降、戦闘機やレーダーシステムなど自衛隊の装備納入でも伊藤忠は米メーカーの代理店となっているが、その商戦を指揮していたのが瀬島氏だった。旧陸軍の人脈が役に立ったのは言うまでもない。
 業績が評価され、入社3年目で業務部長に抜擢され、副社長、会長と昇進した。軍人から商社マンへの華麗な転身。だが、その歩みには批判も多い。「戦時中は戦争を指導し、戦後は一転して、その戦争の賠償を商売の機会とした。戦争責任の自覚がないのではないか」。何人もの人から、このような言葉を聞き、戦後史の闇を感じた(共同通信論説委員・田中章氏記)。
 だが、瀬島氏には、戦争責任の自覚がないのではないかと問われる以前の、もっと本質的な問題があるのではなかろうか。つまり、「60万人以上のシベリア抑留」に関する“責任問題”である。この旧ソ連による不当な抑留に関して、瀬島氏は、まったく関係もなく、それゆえ責任もないのだろうか? むしろ、大いにあったのではあるいか。
 第一、なぜ瀬島氏は、田中氏のインタビュー要請に対して、「大本営時代の事柄に限って質問に答える」などという条件をつけたのだろうか? もし、終戦直後から抑留に至るまでの彼の行動に何もやましいことがなければ、彼は何でも答えられるではないか。 
 インタビュアーの田中氏は、瀬島氏がどんな質問(?)にも感情的になることなく理路整然と答えていたのが印象的だった、と記している。だが、仮に、「シベリア抑留の理由や背景」についてとか、「抑留生活の実態」や「ソ連との関係」などについて質問されれば、瀬島氏は、果たして感情的にもならず、理路整然と答えられただろうか? 筆者ははなはだ疑問である。むしろ、彼は必ずや激昂し、突如インタビューそのものを打ち切ったと思うのだ。
 各紙の紙面には、共通して「1946年10月、東京裁判で証言台に立つ瀬島龍三氏」という写真を掲載した。正直、私は、このときの瀬島氏の服装を見て、非常な“違和感”を感じた。ストライブのネクタイをきりっと締め、同じストライブのスーツに身を包んでいる。ウェストの部分が体型に合わせて、格好よく締められている。それが、どう見ても、終戦の翌年の「日本人」(?)のものとは思えない。それに、いかにソ連の手によってドレスアップされたとしても、どう見ても、「勝者」(?)の服装なのだ。つまり、彼は敗戦国の国民(臣民)の一人であるはずなのに、まるで勝者のような雰囲気を漂わせているのだ。これでは、日本の立場を擁護するというよりも、むしろ明らかにソ連のために証言するといった感じだ。腹蔵なく言えば、完全に共産主義に洗脳されている人間の顔とその姿だと思った。
 瀬島氏は、この東京裁判の後、計11年間、シベリアに抑留された。いかにも11年間とは長いが、同じ抑留とはいえ、飢えと病気、それに厳寒に苦しんだ一般兵士たちの過酷な抑留生活とは、月とスッポン、天国と地獄の違いがあったと思う。「抑留生活」などとはいえ、私は、その長さが問題だとは思わない。むしろ、その内容や質こそ問題だと思うのだ。その意味で、瀬島氏は、ソ連によって手厚く遇された見返りに、旧大日本帝国陸軍の相当な軍事機密や国家機密を暴露したことだろう。たぶん、そうでもしなければ、彼は、生きて帰国などできないと思ったに違いない。
 朝日新聞本社のコラムニスト早野透氏は、次のように記す。
 《戦局憂色、満州の戦線に移って敗戦、シベリアに11年抑留された、再建日本に帰国した。シベリア抑留は、ソ連軍と在満日本軍の密約ではないかという疑問は断固否定し続けた。過酷な捕虜体験は、瀬島氏の人間観を深くする。
 「満州から持参したユーゴーの『レ・ミゼラブル』を何度も読みました。人間は二つの中心を持つ楕円体と描いてあります。物質的と精神的。神と悪魔。人間は悲しく、また尊いものです」》と、瀬島氏は、早野氏に直に語ったようだ(9月5日付朝日新聞)。
 瀬島氏は、「物質的と精神的。神と悪魔」という二分論を語り、朝日紙も、この言葉を参考にして、「善悪共存 生涯の参謀」という見出しをつけたのだろう。だが、この「物質的と精神的。神と悪魔」とか「善悪共存」などという単純な二元論の、何と陳腐なことか! 
 こんな考えは、ルネ・デカルトの「精神と物質二元論」やドストエフスキー的なロシア文学の世界を待つまでもなく、プラトンのイデア論とアリストテレスの「実体」論の論争やキリスト教の普及以来、ヨーロッパ思想の根幹を成す、手垢のついたものに過ぎないではないか。
 とくに、瀬島氏に関しては、朝日が書くような「善悪共存」などという単純な問題ではないと思う。むしろ、彼が、あの過酷なシベリアにおいて、「同胞を裏切ったか、裏切らなかったか」が問題なのだと思うのだ。さらに言えば、その裏切り行為に対して、自ら心底痛みを感じたか否か、ということが重要だと思う。むしろ「善悪共存」などという陳腐な表現は、何も瀬島氏だけでなく、万人に冠され得る言葉だと思うのだ。
 その意味で、瀬島氏がいみじくも早野氏に語った「人間は悲しく、また尊いものです」という言葉は、実に重い言葉ではないだろうか。換言すれば、この言葉は、彼のある種の無意識的な“告白”とは言えまいか。人が「人間は悲しい(存在)だ」という場合、何ゆえ悲しいのかと言えば、それは、抑留体験者だった彼が言う場合、とくに、(自分を含めた)人間が裏切りなどの“罪”を犯す“罪深い存在”であるがゆえに、そう独白できるのだと思う。経験上、罪意識なしに、この「悲しく」という言葉を発することはないと思うのだ。 
 それに、私自身の体験を通して言わせてもらえば、この言葉は、自分は罪を犯さず、他者だけが罪の状態にいる姿を見て、端から冷ややかに言える言葉ではないと思う。むしろ、自らの罪を深く理解してこそ、しみじみと言える言葉だと思うのだ。
 端的に言って、私は、瀬島氏は終生、何らかの強い”負い目”を感じていたと思う。もし、それを感じていなかったとすれば、彼は、実に厚顔無恥な人間だったと思うのだ。だが案外、彼には、それが出来たかもしれない。「参謀」などといったところで、終戦時、まだ34歳ぐらいの単なる“若造”ではないか。それに、自分が多少、軍事にかんする専門的な知識があるというので、若き日の彼はきっと踏ん反り返っていたことだろう。そんな彼に、ものごとを謙虚に反省するなどといった人間的な深みと謙遜さがあったとは、私には到底思えない。
 熊本日日新聞社の桑原氏の記述によると、瀬島氏は、終戦について「この日に、自分たちのつくりあげていた国家は崩壊してしまった…」と、保阪正康氏に語ったそうだ。これは、瀬島氏の近年における述懐であろう。これに対して、桑原氏は、「少なくともこの言葉からは、戦争責任の自覚はうかがえない」と記している(9月6日付熊本日日新聞)。
 たしかに桑原氏の言うとおりであろう。だが私は、瀬島氏には、単に戦争責任の自覚がないばかりか、彼はずいぶんと思い上がった御仁だと思う。「自分たちのつくりあげていた国家」とは何事か! 彼は、当時の日本国が、彼ら軍人だけの力ででき上がっているとでも思っていたのだろうか? 私は、彼のこの言葉には、当時の農民や労働者、それに名もなき庶民や一般兵士に対する感謝と情愛の念は感じられない。それゆえ、高齢になっても、こんな思い上がった言葉を平気で語るような人間に、私は、真の人間的な深みと真心を感じることはできない。
 その上、彼がどんなに年を経て身だしなみのよいスタイリストだったとしても、単なる「エリート主義」の気障な御仁としか思えないのだ。どんなに身奇麗に自分を装ったとしても、己(おのれ)の内面的な醜さは隠し通せないのだ。まさに、瀬島氏は、イエス・キリストが喩えた「白く塗りなる墓」に過ぎないのである。
 それに、先述した早野氏のコラムには、「シベリア抑留は、ソ連軍と在満日本軍の密約ではないかという疑問は断固否定し続けた」とあった。だが、言うまでもなく、「断固否定し続けた」ということと「密約に関与しなかった」ということとは、決して同じことではない。それを証明するものでもない。むしろ、そうでない場合が多いのだ。
 考えてもほしい。誰が「私がやりました」などと言って、おめおめと祖国に帰国できるものか。むしろ、すべての秘密を自ら“封印”して、帰国後、瀬島氏は伊藤忠商事に入社したのである。
 既述した共同通信社の田中章氏がインタビューしたとき、瀬島氏は、83歳だった。いかに日本人の平均寿命が高いとはいえ、その年になれば、いつ“お迎え”が来てもおかしくない。もはや酸いも甘いも噛み締めて、インタビュアーに「(私はもう先も見えているので)さあ、どんなことでも尋ねてください」と言うのが、普通の高齢者ではないだろうか。それを、「大本営時代の事柄に限って質問に答える」という条件をつけたことは、かえって、その他の時代のことを聞かれるのははなはだ困る、という証拠だ。瀬島氏に何の疚(やま)しいところがなければ、こんな条件はつけないだろう。私は、これを決して下種のかんぐりだとは思わない。
 正直言って、私は、瀬島氏のような人物は、本質的に“信じられない”のだ。それは、中曽根康弘氏に対する思いとまったく同じだ。私見だが、“人間的に信じられない”という点で、両者は実によく似ていると思う。まさに「同じ穴の狢(むじな)」、「類は類を呼ぶ」のである。 
 では、何をもって両者は似ているかと言えば、その野心の強さ、鼻持ちならない「エリート意識」、他者を踏み台にして平気な神経、「才あれど徳なき」人間性、信義なき言葉、そして、本質的“無責任さ”においてである。
 保阪正康氏の著『瀬島龍三―参謀の昭和史―』によれば、終戦直後、ソ連軍は、軍民合わせて約60万人以上の日本人をシベリア凍土に連行した、そして、劣悪な条件下、過酷な労働を強制し、多くの日本人を死に至らしめた。だが、この行為は、ポツダム宣言第9条やハーグ陸戦法規(第6〜19条)違反であり、天人ともに許されざるものだった。
 しかし戦後、先述したように、関東軍司令部が率先して将兵を労働者としてソ連軍に提供したのではないかという疑惑がささやかれている。全国戦後強制抑留補償要求推進協議会事務局長(全抑協)の高木健太郎氏は、次のように述べている。
 《私たち兵隊は、ソ連軍に抑留され、厳寒と粗食と重労働で筆舌に尽くしがたい苦労をなめてきました。現にこのわたしも、シベリアの厳寒で、またコルホーズの炎熱の叢(くさむら)の中で、重労働を強制されました。わたしの作業大隊には千人の抑留者がいたのに、強制労働と飢えと栄養失調で半数以上がバタバタと死んでいきました。死んだ仲間を丸裸にして穴を掘って埋めましたよ。一説では、われわれ兵隊がシベリアに連行されたのは、終戦のときに“国家賠償として”連れて行かれたと言うんです。うちの会の理事は、瀬島さんがソ連との話し合いで、それを認めた疑いがある、と言っています。瀬島さん、あなたはソ連側との停戦協定でどのような話し合いをしたのか、一言だけでいいから、
わたしに話して下さい。それが、われわれ抑留者全員の願いなんです。…でも瀬島さんは、この件に関しては、いまだに一言も話していないんです》と。
 事実、全抑協の切ない願いも虚しく、瀬島は、シベリア抑留問題を含め、大東亜戦争の真実について何ひとつ語らないまま鬼籍に入った。
 そればかりか、1990年12月、瀬島はソ連側要人と密会し、「すでに戦後45年を経ている。大半の日本人捕虜は傷も癒えた。いまさら資料公開で波風をたてないでほしい」と申し入れたのである。ソ連が崩壊したのは、その翌年であった。
 シベリア捕虜収容所において、瀬島は「天皇制批判」を行い、将校団の民主化運動(=共産主義洗脳)を推進し、将校たちに“赤いナポレオン”とささやかれていたという。

 瀬島龍三は1911年(明治44年)、石川県の中農の家に生まれた。瀬島家は浄土宗の篤(あつ)い信仰を持った家だった。彼は陸軍幼年学校、陸軍士官学校へと進み、富山歩兵第35連隊に任官し、大日本帝国陸軍軍人としてのスタートを切った。昭和15年から終戦の年まで、彼は「大本営陸軍課作戦部」に配属された。彼よりほぼ10歳年長の参謀たちが第一線にいたなか、彼は大抜擢で彼らとともに作戦の中枢で活躍した。
 瀬島の著『大東亜戦争の実相』を読むと、彼は、日米開戦に関して「今日、冷静に振り返ってみると、“やはり大局的に問題があった”と反省せざるを得ない」と書いている。一見、きわめて冷静な判断ともとれる。だが、大事な局面(無論、開戦時においても)で自分が深く関与したことへの反省や自己批判がまったくなく、非常に“無責任”な感じだ。その本質的な“無責任さ”では、かつての「参謀たち」と今日の「官僚たち」とはほとんど同質だと言えよう。
 というのは、先の保阪氏によれば、第一に瀬島は、真珠湾攻撃の前にルーズベルト大統領が昭和天皇に送った電報を自己の判断で伏せていた。つまり、「電報」を天皇にお見せしていないのである。この事実を東京裁判で初めて知った東条英機は、心底驚いた。それを、こともあろうに、瀬島は通信課の戸村少佐がしたと責任転嫁しているのである。彼は、この責任転嫁をシベリアでも多用したのではあるまいか。
 そして第二に、南方日本軍がハノイ(当時のフランス領インドシナ)に進駐した際、昭和天皇は、「武力行使を避けるように」とおっしゃっていた。だが当時、大本営の参謀長から現地への叱責電文の送信を頼まれた瀬島は、実際の激烈なものを自己の判断で“穏当なもの”へと書き直したのである。まさに天皇の御意思と大本営の司令官の厳命を、彼は、その場の好戦的な雰囲気に合わせて捏造してしまった。そればかりか、その後の大本営からの数々の「重要情報」が瀬島によって書き換えられたり、勝手に握りつぶされたのである。
 同様に、先述した熊日の桑原氏の記述によると、保阪氏の同著には、瀬島氏はレイテ島をめぐる決戦の敗北にも深く関わっているという。同作戦は、台湾沖航空戦で敵艦隊に大打撃を与えたとの情報に基づいて決行されたが、戦果に疑問を持った堀栄三情報参謀が、その事実を再確認するよう大本営に打電したという。だが、何とその電報を瀬島氏は握りつぶしたのだ。保阪氏は、堀氏の証言を交えて、同著で紹介している。
 “国賊的”とも言えるような瀬島氏の一連の行為(=点)がつながり線となり、結局、それが面となった感じだ。まさに、一事が万事である。瀬島氏の“裏切り”行為は、シベリヤにおいてだけでなく、すでに大本営時代から、実証済み(?)だったのである。彼は、この種の手練手管を、伊藤忠商事を一介の繊維会社から総合商社にまで変身させるために大いに活用したことだろう。人間、他者を平気で裏切れる人間の方が、瀬島氏のように立身出世できるのかもしれない。
 戦後、昭和天皇は、入江侍従長に、次のように語っておられる。
 《先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵を咎(とが)めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行ない、なおかつ敗戦の後も有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行なっている者である。瀬島のような者がそれだ》と。
 あの忍耐強く寛容な昭和天皇をして、かくも言わせる「瀬島」とは、一体何者であろうか!
 本来、勤勉・実直で誠実だという日本人の致命的な欠陥は、結局、その“無責任さ”だと思う。だが、その“無責任さ”の度合いは、一般庶民よりもむしろ一種の「エリート」と言われる人々(かつての「参謀」や現在の「官僚」)ほど高いと思うのだ。瀬島氏は、その典型的な人物だと言えよう。
 昭和天皇からこのように思われていた彼は、一体どんな天皇観や国家観を持っていたのであろうか? 私は、中曽根内閣の時代、「第二次臨調」に深く関与した彼が、テレビで国家や政治について得々と論じている姿を見て、正直、“嘔吐感”を覚えたことがある。中曽根氏に対する不信感と同様に、その言葉が耳に届いても、胸底にはまったく響かないのだ。
 さて、彼は、冥界に入ってのち、8万2千とも言われるシベリア抑留中の戦死者たちの御霊(みたま)に対して、一体どんな挨拶と釈明をするのであろうか? それは、彼の思い上がった作戦の誤りのせいで戦死した御霊に対しても言えよう。
 その意味で、とくにシベリア抑留に関しては、“生前、告白しておいた方がよかっただろうに”と思うのは、私だけだろうか? 正直、私は、95年に及ぶ彼の全生涯は勿論、彼の死に対しても“真の平安”を感じることはできない。
 人間は、生前の“借金”は生きている間に返さなければならないと思う。それと同様に、生前に残した“宿題”や“果たすべきこと”は、生きている間にやり終えてこそ、まっとうな人間の生きざまだと思うのだ。
 瀬島氏は、自ら95年の長き生涯を“終えた”と感じたかもしれない。だが、霊的に考えれば、彼の果たすべき“謝罪”の長い霊的生涯は、まさにこれから始まるのだ。つまり、彼が、在世中に“未払い”だった「霊的負債」は、次の世では、まさに天文学な額になって、死後の彼に要求されることになると思うのだ。さあ、それを彼は一体どんな思いで支払うのだろうか? 興味の尽きないところだ。【つづく】 <拙著『J・F・ケネディ vs 二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘 』参照>