第3回(9月4日)
酷暑の8月を振り返って



 酷暑だった8月も終わった。NHKのニュースは、熱中症で120名以上の方が亡くなったと報じていた。それも、65歳以上の方が70%を超えるという。まことに痛ましい限りだ。既述したごとく、8月は、鎮魂の月、慰霊の月、そして追悼の月でもある。だが同時に、戦争について思いをいたす月なのではあるまいか。端的に言って、“わが国は、もうどの国とも戦争はしない”という不戦や非戦の誓いを新たにする月だとも思うのだ。
 8月末、中国の国防相が来日した。日本政府も、中国を潜在的な「敵国」として警戒するのではなく、あくまで重要な友好国と見て対処してもらいたいものだ。
 ちょうど8月の中日(なかび)に「終戦記念日」がある。これは、単なる偶然とは思えない。私には、この日がまさに戦争と平和の“分水嶺”のように思えるのだ。
 すでに旧聞に属するが、8月18日の地元紙の投書欄に、私はたいへん心惹かれる一文を見出した。それは、83歳の元全日空ヘリパイロットだった方の「徴用の軍馬に、切ない思い出」というものだった。それには次のようにあった。
 《終戦記念日ごろになると、動物好きの私は、ある情景に出くわした時のわびしい、切ない思いが胸を締めつけるのである。
 それは、昭和20年8月早々のこと。4隊の特攻隊を出したわが部隊に飛行機が無くなり、航空士官学校から譲り受けた使用済み機体を特攻機用に爆装改修するため、信州松本飛行場の航空廠(しょう)へ空輸し、伊那街道沿いの旅館に泊まって、改装完了の日を待っている時だった。
 部屋が暑いので、窓は開けっ放したまま、蚊帳(ぶんちょう)を張って寝ていた。静まり返った夜明け前、パカ、パカ、パカと馬の蹄(てい)鉄の音が聞こえて目が覚めた。蚊帳を抜け出し、窓の外を見れば、薄暗い中に、馬の手綱を引いた飼い主さんと馬の肩から掛けられた赤いたすきが、かすかに見えた。軍馬として徴用され集合場所へ連れて行かれるのであろうと思った。
 銃弾うなる戦場に駆り出されるとも知らずに、パカ、パカと蹄鉄の響きを残し、ただただ従順に飼い主さんに引かれて行ったあの馬の姿を、私は、どうしても忘れられないのである。
 その馬たちが再び古里へ戻って来た話は聞いたことがない。忌まわしい戦争、絶対に二度としてはならないことを、ひたすら祈念するのみである。「残る桜も散る桜」。遅かれ早かれ自分も特攻にいくはずだったが、運命のいたずらか、いまだに生を長らえている》(8月18日付熊本日日新聞)。
 この文章の中で筆者が最も言いたかったことは、「忌まわしい戦争、絶対に二度としてはならないことを、ひたすら祈るのみである」ということではあるまいか。戦争とは、まさに宇宙における「ブラックホール」のようなものだと思う。そこでは、すべての人間的な価値観が歪(ゆが)められ、かつ破壊され、人間だけでなく、あらゆる生き物の“いのちの尊厳”が蔑(ないがし)ろにされる。その意味では、戦争とは“絶対的な悪”だと思うのだ。
 この考えは、すでに内村鑑三(1861〜1930)の思想に見られるが、今、改めて認識すべき“真理”ではないかと思う。戦争は、人の命だけでなく、この投書にも見られるように、動物たちの命さえも奪ってしまう。さらには、人の生活基盤やその手立て、それに人の生き甲斐や希望さえも破壊してしまう。それは、決してあってはならない「絶対悪」なのだ。
 だが、この意識が薄れるとき、人は、戦争を容認してしまう。また、その可能性を持った政党を容易に支援してしまう。これは、今でもあると思うのだ。 
 世界で“常に戦争をしている国”が、言わずと知れたアメリカである。まさに、同国は、戦争なしには成り立たない国とも言える。その国に追随しているのがわが日本の自・公政府である。今後、日本が戦争に巻き込まれる可能性は、ますます高まろう。そのような事態も、急に起こるのではなく、じわりじわりと、足音もなく忍び寄ってくるのだ。
 ここで、至って正直な思いを述べたい。それは、現下の自民党も公明党も、将来の戦争に結びつく政党だということだ。

 ところで、われわれ人間は、動物だけでなく、社会的な弱者を犠牲にして生きている。上記の投書は、戦地に赴く馬(つまり、軍馬)のことだったけれども、それは、食肉にされる家畜についても言えるのではないだろうか。事実、私は先日、食肉用として屠殺されるために運ばれる牛や馬、それに豚の姿を、それぞれ別々に目撃したことがある。豚などは、体の表面に赤いペンキで印がつけられていた。その後の運命を知ってか知らでか、軽トラックで運ばれるその豚たちの姿を見て、私は思わず涙が出て仕方がなかった。
 ところで、「馬肉」などと言うと、とくに関東以北の方々はかなり抵抗があると思う。だが、私たち熊本に生まれ、同地に育った者は、昔から馬肉を食する機会が多かった。高校時代、母が時々、馬肉、鶏のそぼろ、それに玉子焼きを三色のお弁当にしてくれたが、それは、当時の私にとっては、たいへんなご馳走に思えた。周知のごとく、熊本の「馬刺し」は有名だ。最近では、博多でも人気が出ているようだ。きわめて上質な霜降りの馬刺しはまさにマグロのトロを思わせる。とはいえ、私は、そのような馬刺しは、まだ一度しか食したことがないけれど。 
 35年ほど前の大学生時代、東京の目白で自炊をしていた頃、マーケットで買物をしたときのことを今も懐かしく思い出す。まことに他愛ないことだが、私が「馬肉を下さい」と言うと、店員さんが目をむいて非常に怪訝な顔をした。Donqという名の結構大きなマーケットだったが、そこには、置いてなかったのだ。しかし、その店だけでなく、都内ではほとんど馬肉を見かけなかった。東京の人々は馬肉を食する習慣があまりないのではないかというのが、私の正直な感想だ。そういう私も、32年間の東京暮らしで、ほとんど馬肉を食べることはなくなった。東京生まれ東京育ちの妻に、それこそ体よく飼いならされてしまった感じだ。 
 東京では、馬肉のことを「桜肉」という。それは、「馬肉」などと直截に表現することを嫌う彼らのゆかしさなのかもしれない。そう考えれば、日本も東西南北、それぞれの個性を持った、なかなか“広い国”だと思うのだ。
 だが、正直に思う。われわれ人間とは、何と因果な罪深い生き物だろうか、と。無垢な動物の肉を食して、わが身を長らえているからである。私には、8月という月は、そのような生き物への罪悪感と感謝を思い出さずにはいられない月のようにも思えるのだ。  

 さて、政治の話題に移ろう。8月27日(月)午後、第2次安倍内閣が発足した。翌日、各紙が、一面トップで、次のように報じた。「安倍色薄め延命型」(朝日新聞)、「政権浮揚へ重厚布陣」(讀賣)、「派閥均衡の布陣に」(毎日)、「『安倍カラー』を封印」(西日本)、「“側近”やめ派閥均衡」(熊本日日)などといったものだ。それぞれ、安倍新内閣の特徴を言い当てていると思う。
 とりわけ、注目されたのが舛添要一氏(58)の厚生労働大臣就任だった。その点で、筆者の目を引いたのが、28日付朝日新聞に掲載された、やくみつる氏の一口マンガである。舛添氏が右手に石つぶてを持って今こそ投げようとするその額に、突然白羽の矢が当たる。絵の中の舛添氏曰く。「あたってうれしい矢もあるわ」と。絵のタイトルは、「安倍批判急先鋒に真正面から白羽の矢」といったものだった。やくみつる氏は一種の“天才”だと思う。舛添氏の心中を非常に的確に掴んでいると思うのだ。
 今回の内閣改造に関して多くの識者が感想を述べた。各紙を一応概観したが、最も共感できたのは、西日本新聞に掲載された、このやくみつる氏と佐高信(まこと)氏の感想だった。やくみつる氏は同紙で次のように述べた。
 《新しい内閣は「豪華幕の内(賞味期限ぎりぎり)内閣」と言える。おかずは豪華だが、使うなら今しかないという具材ばかりだ。新味が無い中、厚労相に就任した舛添氏にはピリッとした辛い味付けを期待したい。これだけ大物議員が並ぶと、リーダーシップを取るべき首相がどこまで必要なのか疑問も感じる。これで、安倍首相は当初求められていた「選挙の顔」としての役割に専念できる形となったが、参院選で大敗した後というのは皮肉な話だ》と(8月28日付西日本新聞)。
 “おかずは豪華だが、使うなら今しかないという具材”というのは、たいへん辛口な表現だ。だが案外、国民の深層心理にある感情かもしれない。
 さらに、佐高氏は、次のように記した(なお、熊本日日新聞でもまったく同様の内容だった)。
 《参院選の結果を見ても、国民は安倍首相の退陣以外は望んでいない。化粧を施しても、地肌は同じ。国民は「安倍首相が出走する競馬はもう見たくない」と言っているのに、責任を棚上げし出走している。勝手に自分たちで“改革”が支持されていると決め付け、責任は自分以外にあると考えている「自己責任棚上げ内閣」だ。安倍首相をあれだけ批判していた舛添要一氏までが、のこのこ入った。責任感の鈍磨、与党の末期症状が表れている》(同上)。
 舛添氏の入閣に関して、先のやくみつる氏とは異なる評価をしているのが興味深い。たしかに、佐高氏の指摘にあるように、安倍首相は、真に自己の責任を認識していないと思う。理解していれば、さっさと退陣すると思うのだ。“再チャレンジ”という言葉は、現在の安倍氏自身のためにあるのかもしれない。いかに国政の継続が大事とはいえ、このような無理が通れば、道理は引っ込む。さらに、信義が軽視されれば、人心や社会は、さらに乱れるだろう。安倍氏をはじめ、今の政治家にはそういった認識がかなり希薄なように思うのだ。  今回、舛添氏と同様に目立ったのが、期待していた入閣を逃した矢野哲朗参議院議員(60、栃木県選出)である。本人はモーニングまで用意して安倍総理からの電話を待っていたのだが、結局かかってこなかった。「参院軽視」との声も出た。また、青木幹雄氏の凋落を決定づける出来事とも言われている。 
 だが、このような出来事を振り返りながら思うことは、結局、自民党の“二分化”(端的に言えば分裂)ということである。つまり、衆議院と参議院との分断、党内の強硬保守派(安倍氏たち)と穏健派との分裂、東京中心主義と地方主義との齟齬といった“二局化現象”の顕在化である。有り体に言えば、現在、“二つの自民党”が混在していると言えるのではあるまいか。 
 安倍氏には、参院の実情を把握する認識力もなく、地方の窮状に思いをいたす想像力もなく、谷垣派の良識に謙虚に耳を傾けるような雅量もないように思う。今回の組閣は、国民のためというよりは、むしろ次の衆議院選挙で民主党に勝利するための、至って戦術的な布陣のように思える。とりわけ、小沢氏の“勢い”を封じ込めようとする、実に小技を労した組閣のようにも思うのだ。
 安倍氏自身は、今回の内閣を「政策実行型内閣」と自認している。実務担当能力のある実力者を擁した布陣だという自信と自負の表われともとれる。だが、逆に名ばかりの安倍総理が、これだけのつわもの揃い(?)を御しきれるかどうか、きわめて疑問だ。今後の推移を見守りたい。
 29日(水)に新旧大臣の引き継ぎがなされた。話題の厚生労働大臣室では、例の厚生労働大臣というより、むしろ「厚顔無恥」大臣とも言うべきだった柳沢伯夫氏を、カメラは追った。だが、なんと彼は、署名すべき場所を間違えて、「新任」のところに署名してしまった。最後まで、彼は実に粗忽な人だった。
 記者に、今の感想を聞かれた柳沢氏が答えた。「ほっとしています」と。それをコメントしたテレビ朝日のナレーターが言った。「国民のほうがホッとしているのでは?」と。私は思わず、心の中で笑ってしまった。あの非難轟々の状態にもかかわらず、厚労大臣として居座った“忍耐心”(?)には、正直、呆れてしまう。この点では、安倍氏も同様だ。だが、この厚顔無恥こそが、現代政治家の必須条件(?)なのかもしれない。思うに、政治家の質もずいぶんと落ちたものだ。
 29日の各紙は、安倍改造内閣の「支持率」を報告した。それは次のとおりだ。支持率33%―朝日、同44%―讀賣、同40%―西日本、同40.5%―熊日。 
 朝日の33%と讀賣の44%の差が興味深い。それこそ、反政府新聞と御用新聞の“希望の差”と言えば、話は簡単だが、両紙の価値基準や価値判断の差は、今後もそう簡単に埋まることはないだろう。だが、正直言って、私は、大手の新聞社の調査結果よりは地方紙のそれのほうがむしろ実態に近いような気がする。簡単に言って、私は、安倍新内閣も大手新聞も、本質的に“地方を見ていない”ような気がするのだ。
 だが、そうならないようにと、安倍氏は今回、総務大臣に増田寛也(ひろや)氏(55、前岩手県知事)を起用したのだろう。事実、「地方分権」や「格差是正」の問題解決に道筋をつけることが、増田新総務相の双肩にかかっている。改革派知事の代表格としても有名な彼の手腕や活躍を見守りたい。 
 29日(水)夜、NHKの特番で「新閣僚に問う」という番組があった。そのなかで7名の主だった閣僚が、それぞれの所信を述べた。増田氏も自分の経験にもとづいた論を展開していたが、「わが岩手では…」という言葉を連発していた。同県知事だったので無理からぬとは思ったが、いささか“固着性”が強く、あまり柔軟な発想ができる人ではないような印象をもった。正直、いかにも建設官僚出身で、まるで“コンクリートのような人”だと感じた。瑞々しい地方の樹木を見るような“柔軟な感じ”がしない。
 つまり、言うまでもなく「岩手」だけが地方ではないのだ。全国的な地方の実態を知ってこそ初めて、総務大臣の職が務まるのではあるまいか。
 「政治とカネ」の問題が取り沙汰されて以来、“身体検査”などという実に品のない言葉が一般化した。新閣僚たちはこれをクリアした人たちなのだろうが、早速、遠藤農相の不祥事が発覚し、辞任に追い込まれた。あのワイン通で有名、かつ自らを“知恵者”と自認する伊吹文科大臣などは、体よく影に隠れた感じだ。だが、29日のニュースで、玉沢徳一郎衆院議員(元農相、自民党、比例・東北ブロック)の“5重計上”の経費問題が露見した。「5重計上」など、一般国民の予想だにできないことだ。“政治家とは金のためなら、どんなことでもする人種なのだな”と、ほとほと呆れてしまう。
 それに、政治家になるのを、金儲けする最も手っ取り早い手段だと考えるような不埒な輩(やから)もいる。その意味で、単に自民党だけでなく、全政治家に、わが身を振り返ってもらいたいものだ。
 事実、民主党自体、横峯良郎参議院議員(47)の問題を抱えていて、決して安穏としてはいられない。同氏に投票した21万1828人の期待を裏切らない解決を民主党諸賢に期待したい。何よりも、是々非々ははっきりさせなければならない。
 「年金問題」に関して活躍しておられる谷沢忠彦弁護士が、きっといい方向へと善導してくださるようにも思う。だが、さまざまな困難な問題の解決を通じて、集団は、ますます逞しくなっていくのではないだろうか。とはいえ、政治の主人公は、決して政治家ではなく、あくまで「国民」であることを忘れてはならないと思うのだ。
 さまざまな事件が起こり、かつ異常な酷暑に見舞われた8月。自分の頭の中までホットになるのではなく、むしろ沈着、かつ冷静に、いろいろな問題や仕事に当たるべきだと思う今日この頃である。【つづく】