◆「岩国市長選挙」の実態
◆両陣営の選挙態勢の差と今回の「岩国市長選挙」に至った背景
◆岩国市住民投票
◆はじめに――“忍耐の人”井原勝介氏
人の人生とは、畢竟“忍耐”なのかもしれない。とくに政治は“忍耐”なしにやっていけるものではない。だが、真に忍耐強い政治家が日本国内に一体どれほどいるだろうか?むしろ堪(こら)え性のない、未熟で、自分に“甘い”政治家が多いのではあるまいか。とくに自民党の2世、3世議員の多くはこの忍耐心とは無縁な人びとのように思える。
だが、なかには真に忍耐強い政治家がいる。このような人はさまざまな迫害や逆境のなか、“よくぞ、これだけ耐えたなぁ”と思える。本稿で論じる前岩国市長の井原勝介氏は、その代表的人物の一人だと思うのだ。
今年2月10日の「岩国市長選挙」で、井原氏は福田良彦氏に1782票差で惜敗した。投票者数9万2380人、投票率76.26%で戦われた同選挙で、福田氏の得票数は4万7081票、井原氏のそれは4万5299票だった。その得票差は全投票数の1.93%の僅少差だった。
だが、この選挙は、一般の地方選挙というには、あまりにも“国家絡み”でアンフェアーかつ不公正なものだった。選挙では、よくネガティブ・キャンペーンということがいわれる。対抗陣営を不当に誹謗・中傷するものだ。同選挙は、福田陣営からの一方的なネガティブ・キャンペーンだった。事実、そこでは“死にもの狂い”の選挙運動が展開された。
「無理が通れば道理引っ込む」という諺がある。同選挙は、まさにこの言葉どおりの感がある。またそれは、“「無垢な善人たち」と「悪人たち」との戦いだった”という言葉さえある。同選挙の実態を調べれば調べるほど、われわれはこの言葉のもつ重い真実を知ることになる。実際、同選挙は、“まったく「無効」ではないか”という声さえもある。なぜなら、政府の「補助金凍結」によって、岩国市民の正当な投票行動が阻害され、公正な選挙がねじ曲げられたからである。また、心ある人は、きっとこう感じるだろう、同選挙は、日本の選挙史上、他に類を見ない醜い、かつスキャンダラスな選挙だった、と。
かつての小泉氏による「偽(にせ)構造カイカク」以来、日本国民の間では“いかなる手を使おうと勝てばいいのだ”という風潮が支配的だ。さまざまな偽装問題や教育界の腐敗なども、そんな風潮を背景としていよう。
このような風潮に抗して、井原勝介氏は常に誠実かつ正直で、公正さや礼節を重んじる政治行動を堅持している。このような彼こそ真の士(もののふ)と言えよう。今日の日本でなくなったものは、まさに彼の持つ“士(もののふ)の心意気”ではあるまいか。
スポーツの世界ではよくファインプレー(美技)という言葉が使われる。たしかに予期せぬ美技に接すると、鳥肌が立つような感動を覚える。井原氏も、岩国市立麻里布中学校野球部時代、一塁を守るキャプテンとして真にスポーツに親しんだ人だ。彼の精神の底流にはまさに“スポーツマンシップ”があると思う。そのフェアー(公正な)精神を重んじる彼から見ると、今回の選挙で福田陣営は想像を絶するダーティな手段を弄した。
自立・公正・信義を重んじる井原氏は、誰よりも“忍耐の人”だ。この彼の姿を、具体的に見て行こう。まず、今回の「岩国市長選挙」の実態について概観してみたい。
私の手許に、『岩国市長選挙を振り返って』という小冊子がある。今回の選挙で井原氏を応援した“岩国を守る会「風」”の会員・樋口智久氏の手によるものだ。樋口氏は、岩国市議の田村順玄氏同様、“岩国の良心”とでも呼ぶべき人物だと思う。
樋口氏は、選挙の総括として「今回の選挙は自民、公明の県連相手ではなく、自民党、公明党本部対井原氏の戦いであった」とする。つまり、同選挙は政府(=国家)絡みの選挙で、“国家権力”と井原氏(=一市民)との戦いだったというわけだ。
だが樋口氏にすれば、この選挙は、“絶対に負けてはならない戦い”でもあった。その理由は、次のとおりである。
@勝った陣営はより強くなる機会を得、一方負けた陣営は離散を含む厳しい試練の時を迎えることになった。
A艦載機の移駐への有効な歯止めの機会を失ってしまった。
B岩国市の行財政改革の停滞(ボス政治、利権政治の復活―負債の増加)を招く体制に戻ってしまい、市民に仕方ない、あきらめの気持ちを芽生えさせた。
C国は、金さえあれば安易に地方自治を牛耳ることができるという悪しき事例をつくった(たとえ一部の市民であっても、その事例を認めたことになる)。
D勝つためにはどのような手段(汚さ)を使ってもいいことを、結果的に岩国市民は承認したことになる。
上記の指摘には、岩国市の現在と将来を真に案じる一人の市民の真摯かつ切実な思いがこもっている。だが、いたって正直な感想を述べれば、“勝つためにはどのような手段(汚さ)を使ってもいい”などと、岩国市民が承認したとは思えない。しかし樋口氏は、今回の選挙結果がそのような“印象”を全国民に与えてしまったと、心底危惧するのである。
また、今回の選挙結果は、岩国市民に“仕方ない、あきらめの気持ちを芽生えさせた”とあるが、市内の心ある市民は決して“諦めてはいない”と思う。これは選挙後、実際、私が岩国市を訪れ、一部の市民の方々と交流したり、また、井原氏の「草の根ネットワーク岩国」や「草莽塾」の活動を遠目に見聞した際の偽らざる感想である。
しかし、先の「岩国市長選挙」を“総括する”必要はあろう。その点、実際に同選挙で果敢に戦った樋口氏の“総括”はきわめて重要である。同氏の指摘では、本来、選挙の争点であるべき艦載機の「移駐問題」が「経済問題」にすり替えられてしまった。
つまり岩国市の本質的な問題である基地問題や米軍再編にともなう「移駐問題」が棚上げにされ、福田陣営は、新市庁舎建設に対する政府による突然の補助金カットやそれにともなう予算問題の責任をすべて井原氏に負わせ、遮二無二、井原氏を岩国市政から放逐しようとした。樋口氏の指摘にもあるが、一連の選挙方式は、市議レベルの発想ではとうてい考えられない。まさに政府が直接動き、東京の自民・公明の党本部の指揮下で行われたと見るべきだろう。
換言すれば、同選挙は、一地方において対立する両陣営が互いに拮抗し合った政治力で鎬(しのぎ)を削った結果勝敗が決したというよりも、むしろ初めから井原氏が負けるように“仕組まれた”、ほとんど“八百長”といってもいいような“理不尽な選挙”だったと思うのだ。
その“理不尽さ”を立証する福田陣営が行った汚れた選挙運動の事例を、樋口氏の記述に従って見てみよう。それらは、以下のとおりである。
@「囁き隊」によるデマ、風評の流布――複数であたかも聞いてきた風を装い、公共の施設(病院待合室内、列車内、バス内)で「岩国は、第2の夕張になるそうな」とか、老人、主婦が心配する「病院やバスがなくなる。公共料金の値上げがある」などの“流言”を流した。
Aチラシによるデマ、風評の流布――上記と同内容のデマを紙面上に堂々と記載し、各戸に配布した。
B「井原は9年間何もしなかった」とし、70億円の財政改善の実績を否定した。
C(福田氏が)「自分なら、5000億円か1兆円の金を政府から引き出すことができる」と公言した。
D井原夫妻のありもしないプライベートな内容を並べ立てた(事実、「井原夫妻は離婚した」という根も葉もないデマが流された。)
EIT機器や携帯電話を使用してデマを流布した。
F郡部老人を囲い込み、井原氏の野外説明会を聞かせないようにした。
G病院・養護老人ホーム等の指定投票所で福田候補の表示のみを掲載し、1名しか立候補していないように装い、彼らの投票の機会を妨害した。
H井原支持者の企業を福田氏後援会が訪れ、支持者が活動できないよう圧力を加えた。
I老人に、「福田が当選すれば、1人2万円貰える」と吹き込んだ。
J(福田氏は)公開討論会を忌避し、公約と政策の不一致が露呈するのを避けた。
まったく信じられないような事例であるが、これが今回の岩国市長選挙の“実態”である。実際、樋口氏は、まだ他にも福田陣営の目にあまる行為を目にしたであろう。だが、上述の指摘には、内面の怒りを制御しつつ冷静に記している彼の義憤に満ちた思いが感じられる。
しかし福田市長は、初めての市議会でこのような内容の大半は“自ら関知するところではない”という態度だったという。そればかりか、今日の岩国市民にとって最も重大な問題である「愛宕山の米軍住宅化」に対して、福田氏は、岩国市民の安心・安全な生活を守るというよりも、むしろそれらを犠牲にして、まったく政府や山口県の言いなりである。
この選挙で「市民党」を名乗ったはずの福田氏が、単なる自民党の「駒」か「刺客」に過ぎなかったことが今後もますます明白となろう。まさに同氏は、無責任といえば無責任、いい加減と言えばいい加減である。だが、“そんな人物でも市長になれる!”というのが今日の日本なのである。このような日本でいいはずがない。
ところで、2月の「岩国市長選挙」における両陣営の選挙体制の差と、今回の同選挙に至った背景とは一体何だったのだろうか?
樋口氏の論を進めれば、今回の選挙での両陣営の大きな差は、何よりも「選挙態勢の差」だった。つまり福田陣営は、自民党、公明党の国政(!)選挙対策本部、国会議員、県知事、県会議員、商工会議所、企業経営者、病院経営者、自営業者やその従業員、市会議員(艦載機受け入れ容認派――34名のうち22名。全議員の65%〈筆者注〉)とその後援会、創価学会、およびその信者が“締め付け”のために一丸となって対応していた。とくに、「郡部での保守系(艦載機受け入れ)容認派の市会議員の動向が大きく、反対派の市会議員が不在であったことは致命的だった。また具体的活動では、創価学会会員、自営業者や、その従業員の活動が大きい」と、樋口氏は記す。
これに対して井原陣営は、国会議員、県会議員、市会議員(艦載機受け入れ反対派)とその後援会、井原氏の後援会(草の根後援会)などである。樋口氏によれば、同陣営は国会議員や県会議員の数も少なく、取り組みに甘さがあり、選挙運動の主体は市会議員および井原氏の後援会などの“ボランティア”だった。
まさに“多勢に無勢”である。無論、支持者・支援者数の多寡だけが問題だとは思わない。だが、選挙が数を競い合うものである以上、組織のもつ機動力は抜群の集票力をもつ。たとえば、今日の選挙で創価学会が自民党から頼りにされるのも、彼らのもつ長年蓄積されたその抜群の“組織力”や“機動力”のゆえである。
この両陣営の選挙体制の差は、昨年7月29日の参議院選挙での自民党の大敗、つづく同年9月の安倍総理の突然の退陣などで危機感を募らせた自民党の国会議員や県会・市会議員たちが、今回の市長選挙を“どうしても負けられない選挙”と位置づけた気迫の表われだったとさえいえよう。事実、このとき彼らが抱いた危機感は尋常ではなかったと思う。その切実な危機意識が、先述したような“常軌を逸した”選挙運動や“選挙違反(だが、実質的には問われなかった)”となって表われたと思うのだ。
だが、冷静に考えれば、2006年の「岩国市長選挙」で圧勝した井原氏は、任期を2年以上も残していただけに、職を辞してまで選挙に打って出る必然性はなかった。しかし裏を返せば、同氏には、その手段しか残っていなかったのだ。なぜなら、そうすべく市議会で多数を占める艦載機受け入れ容認派の市議たちによって周到に追い詰められたからである。
事実、樋口氏の言に従えば、今回の選挙に至った最大の要因は、市議会での予算審議における議決権を(艦載機受け入れ)容認派に握られていたことにある。たしかに、これが“決定的”である。だが同氏の指摘では、容認派も、前回(2006年)の市長選、および同年3月の「住民投票」の結果から、当初は議決権を行使して井原市政を追い込むことまでは考えていなかった。しかし、この彼らの中途半端な思惑があるときを境にして急変する。
樋口氏の推側によれば、政府が新庁舎建設資金の発給を停止したため、その善後策を打診するために上京した自民党系市議団が政府関係者と面談した際、何らかの密約(井原氏追い落としの見返りにまずは補助金の復活か?〈筆者注〉)の下に政府の後押しを受け、綿密な計画の下に執拗な井原氏の追い落としが始まったと考えられる。そうでなければ、4度に及ぶ予算案の否決と井原氏の首をかけた予算案すら否決することにまでは至らなかったと、樋口氏は考察する。まったくそのとおりであろう。同氏は次のように記す。
「それだけに、選挙に負ければ、彼らの政治生命が絶たれる恐れもあり、容認派も死にもの狂いであったはずである。従って、あのように驚くべきダーティな選挙が行われたものと考える」と。このような実態に、「岩国市長選挙」の背景が垣間見られよう。
しかし正直なところ、同選挙の背景は、もっと長い時系列で考えるべきだと思う。少なくとも、2004年の「日米協議」において突然“空母艦載機の岩国移転”が決定した時点にまで戻るべきだと思うのだ。
事実、一昨年(2006年)の7月15日、広島県廿日市市で開かれたシンポジウムで、井原氏はその間の経緯について次のように述べている。「2004年夏ごろ、新聞で突然、日米協議の中で艦載機の岩国移転が報道されて問題が持ち上がった。国に情報提供を求めたが『協議中』として拒否された。2005年に入ってもそういう状況だったが、市としては受け入れられないと表明してきた」と(Jan Janニュース、佐藤しゅういち氏の記事より)。
井原氏はつづけていう。「(同年)7月には、(岩国市)議会が全会一致で受け入れ反対決議、9月には、6万人の反対署名が上がったが、10月末、政府は中間報告を強行し、岩国移転案が盛り込まれた」と(同上)。ちなみに、このときの「全会一致」について、(移転)容認派の一市議は最近、次のように述べた。「(あのとき)議会が全会一致で反対したのはポーズだった。基地というのは、打ち出の小槌なのだ」と。だが、これほど市民や井原氏を愚弄した言葉はないであろう。しかし、この“欺瞞性”が移駐容認派の本質なのである。
いうなれば、今年の岩国市長選挙の“伏線”は、少なくとも4年前の日米協議での艦載機の「岩国移転」決定にまで遡れると思う。この日米両国政府の動きに対して、いったんは岩国市民からの正当な反発があったものの、2006年になると、とくに岩国市議会内部に、“不協和音”が聞かれ始める。それは井原氏の次の言葉にも見られる。
「2006年になると、『政府が決めたから変更できない』などという意見も出始めた。これでは、(市町村)合併を控えて、市としての意思を示しておかないと禍根を残すだろうと確信して」(同上)、かつ「3月20日の(周辺7町村との)合併の前に市の意向をまとめ国に届けたい」として、井原氏は“住民投票”を発議した。この井原氏の政治行動は真に岩国市民の“将来”を案じたからだと思うのだ。
このときの「住民投票」の意義は大きい。樋口氏の指摘にもあるが、“住民の声”を市政に反映されるためには一義的には選挙ということになる。だが選挙は、あくまで網羅的であり、特定の、たとえば市の将来を決定する重要な案件については直に“住民の声”を反映する仕組み(=住民投票)が必要である。同氏は明言する。「市議会が、総てを決定できると考えるのは傲慢である。住民は、そこまで全面的に市議に委託はしていない」と。読者も同感だと思う。私もまったくそのとおりだと思うのだ。
では、この2006年3月12日に行われた「住民投票」について少し跡付けてみよう。
2006年3月12日(日)に、「アメリカ海軍厚木基地から岩国基地への艦載機部隊の移駐計画の是非を問う」住民投票が実施された。投票総数は4万9682票、投票率は58.68%だった。結果は、「反対」が87.42%、「賛成」が10.81%である。9割近い旧岩国市民が「移駐反対」を表明した。(投票率が50%以上だったため住民投票は成立した。)