死こそ免れたものの、被爆した一人に渡邉司氏(75)がいる。今月14日夕、KAB(熊本朝日放送)を観ていると、長崎のテレビ局が、同氏の「一人芝居」のことを報じていた。その一人芝居(=朗読劇)の題名は、「命ありて」である。
渡邉司氏と同年で、著書『ガラスのうさぎ』で有名な高木敏子氏がいる。彼女は、1945年3月10日の東京大空襲で母や妹たち、それにおじやおば、友達を亡くし、終戦を直前にして、米軍機の機銃掃射によって父親を亡くした。父親は、天才肌のガラス職人だった。
さて、政治の話題に移ろう。今回の参院選での自民党の大敗北を受け、地元紙も「首相続投を問う」という特集を組んだ。今月15日は、自民党の石破茂衆院議員(元防衛庁長官)へのインタビュー記事だった。それは、次のとおりだ。
たしかに今後の安倍政権は多事多難である。石破氏は「能力主義」を強調する。たしかに正論だと思う。だが、派閥均衡を主張する山崎氏のような人もおり、厳しいせめぎあいが予想される。安倍氏は、小池防衛相や塩崎官房長官をどう処遇するのか、まことに興味の尽きないところだ。
ところで、今年もまた、8月12日の「御巣鷹の日」がやってきた。あの日から、今年で22年目の夏である。1985年の8月12日、日航機による、御巣高山中腹への墜落事故が起こった。毎日新聞には、次のようにあった。
ちなみに、人の死にも様々なものがある。惜しまれつつ死ぬ人もいれば、長命を疎んじられる人もいる。去る7月18日(水)、日本共産党の、かつての最高指導者宮本顕治氏(98)が亡くなった。彼の場合、一体どっちだっただろうか? 正直、私は、彼は後者だったような気がする。
1年前の8月17日、鬼籍に入られた田中先生は、このような偉大な方々を私の導き手として紹介して下さった。だが、私だけが、その恩恵にあずかるのは何とも“勿体ない”話だ。森田先生も黒田先生もともに、人間として“本物”の方々だと思う。そして、腹蔵なく言えば、両先生はともに“日本国の宝”と言えるほど、現代日本にとって大切な方々だ。このような真の人格者であり、まことに素晴らしい方々に邂逅できたことを、私は、心から感謝したい。何が“幸せ”かと言って、この世で、このような方々と邂逅し、その指導を受けられることほど、私は、人間として幸せなことはないと思うのだ。
今日(8月17日)の朝日新聞の一面トップには、「猛暑更新40.9度」という見出しが躍った。74年ぶりの最高記録だという。当時の山形市での40.8度という記録を更新したわけだ。「40度」などとはインドのことかと思っていたが、もはや日本も、よそ事ではなくなった。実は、この暑さにはインド人もびっくりとのことだ。「北極海の氷、観測史上最小に」という記事もたいへん気になるところだ。
ところで、8月は、鎮魂の月だ。「慰霊の月」と言えるかもしれない。広島、長崎原爆投下の日、終戦記念日(実質的には「敗戦の日」)、それにお盆など、8月は、亡くなった方々へ思いをいたし、その霊を弔う“特別の月”である。
「一年の中で、8月は心騒ぎ、平静ではいられない」と、母は語る。彼女は、長崎原爆の日の夜、熊本市の北西の空一面が異様なほど真っ赤に燃えていたのを覚えている。まさに“紅蓮の炎”とは、あのようなものを言うのだろうか。それを見た瞬間、若き母は思った。“この紅の色は、生涯、忘れられない色だ”と。彼女が、そう思った数時間前、その炎の下で、7万人もの人々が炎熱と放射能によって死へと追いやられていたのである。
渡邉司氏は、13歳のとき、爆心地から1.6キロの銭座町で被爆した。そのとき視聴した放送内容ではないが、NBC(長崎放送)の塚田恵子アナの8月7日付ブログには、次のようにあった。
《1945年8月9日。被爆。奇跡的に自力で這い出した司少年は、家の下敷きになった家族を必死で助けます。街は火の海。爆発するガスタンク。助けを求める焼け爛(ただ)れた人。水をあげた途端、死んでいった近所のおばさん。
そんな地獄絵図の中で、司少年は「生きる希望」を捨てません。絶望という暗闇の中で、「生きたい」という希望がいかに強い輝きを持っているものか! しかし、そんな司少年を待っていたのは、「ピカドン病」の宣告。事もあろうに医師たちは、13歳の少年に「君はもうすぐ死ぬよ」と告げるのです。それでも、司少年は希望を捨てず、ある医師にたどり着くのでした…。
そして62年。少年は今年75歳になりました。芝居の後、お孫さんから花束が贈呈されました。「命ありて」。あのとき、原爆によって絶たれた命は、もう二度と次の命を生むことはできません。奇跡的に助かった渡邉さんも、あのとき「生きる希望」を捨てていたら、かわいいお孫さんはこの世に存在していないでしょう。
渡邉さんは、この芝居を修学旅行で長崎を訪れた子どもたちに向かって、上演しました。その中の子どもが芝居の後、こう言ったそうです。「自殺を考えたことがあった。でも、もう二度とそんなことは考えません。」 渡邉さんの「生きる希望」が、現代を生きる若い命をひとつ救いました。この大切な命を、いとも簡単に奪ってしまう原爆。後々まで後遺症と心の傷を残す原爆。「しょうがない」はずがない。
実は、渡邉さんは、教員を退職する歳まで、誰にも被爆体験を語ってきませんでした。そのくらい、辛く思い出したくない経験だからです。それでも、渡邉さんは決意しました。思い出したくない辛い経験を自ら上演する強い思いとは…。渡邉さんたち被爆者の皆さんの思いを改めて重く受け止めた夜でした。》
上の文章に、実際に渡邉氏の朗読劇を目にした塚田アナの正直な思いを感じる。「生きる希望」という言葉が、一つのキーワードになっている。この言葉こそ、あらゆる不幸に遭遇した人を救い出す”魔法の言葉”ではないだろうか。塚田さんも強調するように、それが、いかに“強い輝き”を持っているか知れやしない。それを信じて、この厳しい人生を生き抜きたいものだ。
その彼女が、この夏、新著『ラストメッセージ』を著した。その名のとおり、本著が、彼女の最後の著作かもしれない。その帯の後ろには、「戦争を起こそうとするのは、人の心です。戦争を起こさせないようにするのも、人の心です」とある。まことに、そのとおりだ。
同著のなかに、「命を粗末にしないで」という一節があった。私は、この文章に上記の渡邉氏と共通する思いを感じる。そこには、次のようにあった。
《若い命を大切にしてほしい、と切に思います。十年も前のことなのに、いじめにあったある中学生の自殺のニュースがいまだに忘れられないでいます。その子は辛くて、福島のおばあちゃんのところへ行こうと思ったのですが、おばあちゃんの家の近くの駅のトイレで首を吊ってしまったというものです。ほんとうに子どもの自殺のニュースほど辛いものはありません。しかし子どもの自殺は年々増えているといわれています。
二十年前、NHK歌謡ショーで、ダークダックスが「ガラスのうさぎ組曲」を歌ってくださいました。わたしは『ガラスのうさぎ』の作者として、舞台上の席で歌を聴いていました。皆さんの視線もあり、カメラのライトも当たっているのに、歌を聴き、松田(トシ?)さんの朗読を聴いていると胸に迫って、涙をこらえるのに必死でした。
歌が終わると、「高木さん、あらためて当時を振り返って、何かございますか」とアナウンサーから声がかかりました。当時も中学生の自殺が度々報じられていて思わずわたしは訴えていました。四千人も入るホールにいっぱいの人たちでしたが、マイクを握り絞めながら、震える声で―
「みなさんにひとつ、お願いがあります。戦争中の子どもは生きたかったのに、殺されていったんです。あるものは炎に焼かれ、あるものは食べるものがなく飢えて死んでいったんです。この頃は苦しいから、悲しいから、辛いからといって自らの命を絶ってしまうお子さんたちがいます。どうか戦争中に亡くなった子どもたちのためにも生きていただきたいんです。お願いします。それが亡くなっていった人たちへの何よりの供養になるからです。」
十代といえば傷つきやすい年頃ですから、辛いこと、嫌なことがいっぱいあるかもしれません。それで思いあまって死を選んでしまうのでしょうけれど、でも考えてほしいのです。戦争中の子どもたちのことを…。わたしの妹たちは、一人は学校の先生になる夢を持っていたし。末の妹は今でいう歌手になりたいと思っていたようでした。妹たちだけではなく、生きたいと思いながら何万何千人ともしれない子どもたちが亡くなったのです。せっかくいただいた命を粗末にしてほしくないのです。
わたしが生きてきた昭和という時代は、その三分の一が戦争の時代。生まれた時から戦争がありました。自分の楽しみや夢よりも国のことを優先するのが当たり前だと教わり、それを信じて疑いませんでした。その果ての大切な家族や友だちとの別れ。十二歳の女の子が十二歳の女の子らしく生きられなかった時代。その後の平和がどんなに素晴らしいものか、身にしみています。その平和とは、多くの人の犠牲によって得られたものなのです。
人が死ぬということは、どんなに苦しみや悲しみを生むものなのか――。生きるということは、どんなに素晴らしいことか――。戦争のために生をまっとうできなかった人たちのためにも、若い命を大切にしていただきたい。道はひとつではないのです。いつか道はひらけます。七十五年間生きてきて、わたしは確信を持ってそう言えます。どうぞ、あなたの命を生き抜いてください。》
「多くの人の犠牲によって得られた平和」「自分の命を生き抜くことの大切さ」など、過酷な戦争を生き抜いてきた高木さんたち世代(母も含めて)でこそ言える確言だ。われわれも、そのような人々の辛い体験や生き様から、多くを学ばなければいけないと思う。そして、平和の大切さや人の“いのちの尊さ”を後世に伝えなければならないと思うのだ。
先日、母と話したとき、なぜ不自由な体を押してまで今回の選挙に行ったのかが、話題になった。母は次のように語った。
「わたしたち高齢者は、決して年金問題や医療費の負担増の問題だけで選挙に行ったわけじゃないと思うよ。お金の問題をとやかく言ったって、私たちは“先が見えている”じゃない。
正直言って、私などは、安倍さんという人が信じられないのよ。むしろ、何をしでかすのか不安なんだよ。第一、このまま、さまざまの法案が強行採決され、結局、憲法を改正されて、いつの間にか、昔の戦争のときのような状態になるのが我慢できないのよ。日本は、もうどこの国とも戦争だけはしてはいけないよ」と。
母は、今回、投票に出掛けたときの深い胸の内を語ってくれた。
《――自民党が歴史的大敗を喫した参院選の受け止めは。
「政権選択の選挙ではないことは、多くの人が知っているが、安倍晋三首相自らが政権選択と言ってしまったことで選挙の性格が変わった。候補者の人柄や実績に関係なく、首相自身がどうかということが強く出た」
――首相続投に異を唱える理由は。
「この自民党を立て直すためにどうするのかということで申し上げており、自民党が信頼を失えば、この国が駄目になるという確信に基づいている。何をどう変えていくのかというクリアなメッセージを発信し、国民の共感を得たとすれば安倍首相でも全く構わないが、それも言わずに『続ける』と言われると、あの選挙は何だったのかということになる」
――首相の政治姿勢について。
「地位に恋々としているとは思わないが、選挙でああいう民意が出た以上、無視はできない。政治家は主権者である国民に対する恐れを持つべきだ。この政治権力は天が与えたものでなく、国民から与えられているものだ。彼らが『NO』を示した以上、何が否定され、何が間違っているのかを述べた上で、でもこういう訳で辞めないということでなければならない」
――説明不足だと。
「少なくとも私は充分納得していない。多くの国民がそうではないか」
――首相が反省すべき点とは。
「本当に疲弊した地域に対する配慮と弱者に対する思いやりだ。今の経済成長は、リストラ景気と中国特需によるものだが、いずれも関係ない地域には絶対に好景気は波及していかない。また障害者自立支援法などもよかれと思ってやったことだが、その裏では一番苦しんでいる人たちの負担がより重くなっている」
――首相は党内に「ポスト安倍」がいないと慢心していると思うか。
「そこまで不誠実な指導者だとは思いたくない。自分でなければ、と信じていると思いたい」
――今月末に予定される内閣改造、党役員人事について。
「参院で野党が多数になった以上、今後の国会運営は、これまでとは比べものにならないほど難しいものになる。閣僚だけでなく政調会長、幹事長、総務会長などすべての人事について、年功序列や派閥均衡を排し、能力主義でいかないと持たない。政策、手法、人事に通じた人をまず優先的に充てるべきだ」》(8月15日付熊本日日新聞)。
石破氏の「政治家は主権者である国民に対する恐れを常に持つべきだ」という言葉が、心に響く。まさに、そのとおりだと思う。だが、今の自民党には、それほどの見識を持った政治家はきわめて少ないように思うのだ。それこそ、テレビの「太田総理」の天敵(?)と言われる石破氏ではあるが、防衛問題に詳しい優秀なスタッフの加勢もあり、なかなかの論客であることは間違いない。このたびの安倍批判も正鵠を射ており、共感する人も多いと思う。
だが、正直言って、あえて“泥舟”に乗ろうとするような人がいるのかと、心底、疑問に思う。もし、あえて乗ろうとする人々がいたとしても、多分、新味に欠ける「内閣改造」になるように思うのだ。
今回の参院選をスリリングなものにし、これまた、どのような「改造人事」(?)を行うのかと、われわれに多大の興味を持たせる点では、安倍首相は、貴重な存在なのかもしれない。彼は、新年早々、「憲法改正」を5年以内に実現したいと明言したとき、自分も小泉氏同様、当然、長期政権を維持できると思ったことだろう。強行採決によって、数々の法案を通過させたのも、そのような自負(実際は思い上がり)と「計画」にもとづいていたと思う。だがそれは、明らかな誤算だった。
事実、彼が総理・総裁に選出されたとき、それを当然の“運命(あるいは祖父の代からの「約束事」)”と確信し、自民党の大多数の信任や信頼を得たものだと合点したことだろう。だが、これに対して、自民党議員たちは、何よりも目先の参院選(先月、実施された)に勝利するために、一体誰を祭り上げたらよいかということで選出したと思う。つまり、安倍氏は、党員からの全幅の信頼を受けて選ばれたというよりも、むしろ単なる選挙の“旗頭”に過ぎなかったと思うのだ。その結果が、自民党の大敗北なのだから、今後は、「こんな、辛気臭い旗は降ろせ!」とばかりに”安倍降ろし”が加速化しよう。まさに今年は、大方の予想とおり、「乱」の年なのだ。
《520人の命が奪われた日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者の冥福を祈る灯籠流しが11日夕、群馬県上野村の墜落現場「御巣鷹の尾根」のふもとを流れる神流(かんな)川で今年も行われた。最愛の家族へのメッセージを記した灯籠約300個を、遺族らが一つ一つ川面に浮かべると、ろうそくの明かりが周囲を柔らかく照らし出した。
85年8月12日の大事故から22年。参加者は犠牲者への募る思いを灯籠に込めるとともに、空の安全を願った。死亡した南慎二郎さん(当時54歳)の孫の内野慎一さん(18)は「(慰霊で)山に登る人が少なくなると事故が風化する。自分たち若い世代が頑張り、忘れないようにしていきたい」と話した》(8月12日付毎日新聞)。
同日の朝日新聞によると、この灯籠流しには、《今回初めて、遺族同士の連帯を求めて、兵庫県のJR宝塚脱線事故と明石歩道橋事故で子どもを失った遺族も参加し、亡き人たちへの思いを灯籠に託し川面に浮かべた》(同日付朝日新聞)。
両紙には、鎮魂や慰霊の思いが子々孫々に継承される姿(つまり垂直的なあり様)と、時と所こそ違え、肉親を亡くした人々の悲しみを”共有する”姿(つまり水平的なあり様)が描かれている。そのどちらにしても、この大いなる悲しみは、今後も人々に語り伝えて行かれることだろう。いや、語り伝えて行くべきだと思うのだ。
22年前の日航機墜落事故は、国内最大、かつ世界航空史上2番目の大惨事だった。一昨年、NHKのドキュメンタリーで、ボイスレコーダーが解析され、乗組員たちのベストを尽くした必死の対応が報じられた。そこでは、実際に操縦桿を握っていた佐々木祐(ゆたか)副操縦士と彼に指示を与えていた高濱雅己機長との真剣かつ切迫したやりとりが、克明に記録されていた。実は同日のフライトは、佐々木副操縦士の機長昇格試験を伴ったものだった。
だが同機は、垂直尾翼が吹き飛び、ミサイルのような形態になっていた。いかに熟練したパイロットでも、操縦は実質上不可能だった。事実、一昨年のテレビの中でも、大事故の時と同じ状態でシュミレーションしたが、ベテランでもまったく操縦できなかった。
私事だが、佐々木祐氏(当時、39歳)は、私より3歳年長で、実は彼は、私の小学校の先輩である。家も100メートルと離れておらず、彼は、とても温和、かつ眉目秀麗な方で、私の憧れの先輩だった。佐々木家と我が家は、たいへん縁の深い間柄だった。彼の御祖父(おじい)さまは熊本市の助役をした方だ。
最晩年、彼は、夕方になると、近くのお宮や観音堂で熱心にお祈りをしていた。その参拝の際に見せてくれた、彼の白くて長い髭を垂らした羽織袴の威厳ある姿が、幼い頃の私の目に焼きついている。なぜなら、そのお宮や観音堂前は、幼・少年期の私たちの遊び場だったからだ。きっと彼は、佐々木家の平安と家人の健康を祈っておられたことだろう。 彼の孫の佐々木先輩は色白の実に心優しい人だった。先輩とは中学・高校と進路は違ったが、中学時代のある日、私は、とても不思議なイメージを思い描いたことがある。それは、彼が青空をバックに優しく微笑んでいる姿だった。
彼の進んだ高校は、帽子に黄色の線が入った県内の有名校だった。私は、そのイメージの中の黄と青(青空)の対比があまりにも鮮烈なので、よく覚えていた。だが、私は、なぜあのようなイメージを思い描いたのだろうか? あの大事故のニュースをテレビで知ったあと、母から先輩のことを聞いたとき、私は、そのイメージのことを思い出していた。佐々木先輩はじめ520名の方々の御冥福を、心より祈念したい。
筆坂秀世氏によれば、宮本氏は「弁当はウナ重」「酒は菊水」だったという。彼はまた、一流のブランド品志向だったという。だが、これは、単に個人的な趣味というより、むしろ宮本氏が贅沢三昧の「貴族主義」だったことを表わしている。要するに、彼は、非常に偽善的な”暴君”だったということではないだろうか。
無論、”赤い貴族”は何も日本ばかりのものではない。本家本元の旧ソ連や現代中国、それにインドにさえ存在する。インドには、お城のような大邸宅や広大な土地を所有する共産党幹部がいる。だが、宮本氏の場合、そのような“赤い貴族”という側面だけでなく、彼には、「ズルケン」というあだ名に象徴されるような際立った狡さや狡猾さがあったと思う。つまり、そこには、熱心で良心的な党員を犠牲にして、自分だけ高位高官に居座り続け、暖衣飽食にうつつをぬかしているという姿が、容易に想像されるのだ。
戦前・戦中がいかに過酷な時代だったとはいえ、彼は、袴田里見とともに、同志小畑達夫を殺害した。このとき、宮本氏が主体的な役割を果たした。また9歳年上の愛妻百合子(旧姓、中條)を散々利用したあげく裏切り、数多くの同志たちを踏み台にしたり犠牲にしたりして、長い間、共産党議長に君臨した。宮本氏の行状に詳しい兵本達吉氏(69、元共産党国会議員秘書)は、次のように語る。
《スターリン・毛沢東らの国際的干渉に、大きく水門を開いて、党を分裂に導いたのが、他でもない宮本・志賀(義雄)らの「国際派」という分派であったことは、当時(1950年代)の事情を知る人であれば、誰でも知っている。しかし、今では、その分派が「主流であり、徳田(球一)らが”分派”であった」と歴史を捻じ曲げているのだから恐れ入る。
本来なら野坂の平和革命論を厳しく批判した宮本こそ鉄砲をもって軍事闘争の先頭に立つべきところであったが、下部の党員、労働者や学生が火炎瓶を投げて武装闘争を展開しているまさにその時、肝心の宮本は、百合子の存命中にすでに同棲していた大森寿恵子と新婚生活を楽しみながら、百合子全集の編集などにあたっていた。
この武装闘争で検挙された党員の懲役刑の累計は1000年以上にも達したというのに、肝心の宮本自身はそういう生活を送っていた。だからこそ、宮本には、“ズルケン”という呼称がつけられたのである》と(『週刊新潮』、07.8.2 号)。
こんな人物の生涯に、私は正直、嫌悪と嘔吐感以外の何ものも感じない。長い間、こんな偽善者に牛耳られた日本共産党も不幸、かつ不運だったと思う。だが、長期間、こんな独裁的かつ全体主義的な人物に指導され、自ら内部変革をしない政党が、国民に真に理解される「国民政党」になれるわけがないではないか。
同党は、いかに女性議員が多く、平均年齢が若いとはいえ、本質的に閉鎖的かつ全体主義的な政党だと思う。それゆえ、今後、尻細りになろう。
また、私が宮本顕治氏に感じるものは、人間としての“絶対的な欺瞞”だ。その意味で、彼は、共産党員のみならず、われわれにとっても典型的な「反面教師」だったと思うのだ。
私事だが、今日、8月17日(金)は、大学時代の指導教授田中靖政先生の一周忌だった。社会心理学の泰斗で、研究面だけでなく、日本の原子力行政の面でも活躍した方だった。享年、74歳だった。先生がこんなに早く逝去なさるなどとは想像だにしなかったので、正直、かなりショックだった。
「仰げば尊し、わが師の恩」というけれど、私は、大学時代の指導教授田中先生にその思いを強く感じる。先生は、清水幾太郎先生のお弟子の一人であり、私たち夫婦の仲人でもあった。
田中先生を通して、私は、二人の偉大な方と邂逅した。一人は、森田実氏(74)であり、もうひと方は、黒田安昌先生(76、ハワイ州立大学名誉教授)である。お二人ともそれぞれ、田中先生の無二の親友だった。
1993年、ハワイ大学に留学する前、田中先生は、私のために個人的に歓送会をしてくださった。目白のお寿司屋さんでだったが、そのときの客の一人に、先代の小さん師匠がおられた。私との会話の最後に、先生は、次のように語られた。
「安保闘争後の同志たちが、日本評論社から一人また一人と去って行ったけれど、“彼”だけは一人残って、自らの意志を貫き通したんだよ」と。
そのときの“彼”こそ、まさに森田実氏である(実は、人的には「森田先生」とお呼びしているので、今後、拙稿でもそのように呼ばせていただきたい)。 私は、森田先生のことが、その日以来、ずっと心に残っていた。そして、あの日から13年後、先生の来熊の際、思い切ってご挨拶した。それ以来、実に温かい御厚誼をいただいている。
私は、森田先生はまことの人格者だと思う。正直、先生こそは、今後、小沢代表はじめ民主党諸兄が舵を執るであろう「民主党・日本丸」の“羅針盤”のような存在だと思うのだ。
もうひと方のドクター・クロダは、早稲田大学1年生のとき、同大学を中退し、単身、アメリカに渡った。そして、1952年、彼は、オレゴン州立大学に入学した。フルブライト奨学生は、日本の大学を卒業し、一定の支援を得て留学したものなので、苦労の中にも生活の保証は得られた。だが、それとは違う道を選んだ黒田青年の場合はすべて独力で切り開かなければならなかった。実際、彼は、大学からわずかな奨学金は貰いつつも、一週間20時間ほど働かなければならなかった。
また、夏休み中も、毎日働いた。そんな仕事の一つに次のようなものがあった。
大学には、寄宿舎に住む学生たちのためのカフェテリアがある。そこへ、600〜700人の学生が、一日三食、食べにくる。そのたびに、毎月食事費を支払った学生の名簿と照らし合わせて、名簿に載っているか否かをチェックする仕事である。つまり、タダで食事をしたり、2度食いをする学生をチェックするのだ。
お腹の空いた学生たちが二列に並んでやってくる顔を見て、黒田青年一人で、何十人、何百人の新しい名前と顔を覚えなければならない。1950年代半ばでカードのようなものはなく、ようやくIBMのカード・ソーターが出始めた頃だった。名前は千差万別、相手は早く食べたい若者たちで、待たせるわけにはいかない。新しい学生の顔と名前を一週間から遅くとも10日以内で覚えなければならない。ストレスのかかる大変な仕事だったが、他の仕事よりは楽に見えたし、自分の能力を試してみたかったので引き受けた、とドクター・クロダは語る。
彼も最初は、できるかどうか半信半疑だった。数人の名前と顔ではない。数百人である。それも、数日内に覚えるのである。最初の数日は大変だった。彼は、全身を耳にして名前を聞いて顔を覚えた。だが、集中すると、思ったよりも楽に覚えることができた。彼が今でも覚えている名前の一つに、One Flew Overthe Cuckoo's Nest(『カッコーの巣の上で』)の
著者Ken Keseyがいた。
彼は、黒田青年や彼の仕事仲間たちにとって実に厄介な存在だった。時折、ステーキのようなご馳走が出ると、夕食を2回食べにくるのだ。そのたびに、黒田青年が彼に「食事は済んだはずだ」と告げると、彼はそれを否定し、「俺は、今日用事があったので遅れてきた」と言う。それゆえ、黒田青年は、「でも、5分ほど前まで入口のドアに近いテーブルで、ビルやジョンと食べていたではないか」と言い返さなければならなかった。
この経験を通じて、黒田青年は、精神を集中すれば、通常不可能と思えることでも必ずできるという自信を得た。「何事も、努力と集中なのである」。
1960年の夏、彼は、オレゴン大学大学院で政治学博士号(Ph.D)を取得した。その後、彼は、指導教授の紹介で、イリノイ州立大学の心理学者チャールズ・E・オズグッド(1916〜91)を訪ねた。そのとき、オズグッドの指導を受けていたのが田中靖政青年である。
黒田青年がなぜアメリカに留学したのかと言えば、それは、「戦争で日本を破ったアメリカが、なぜ強いのか、そのアメリカの強さの源泉を知りたかった」という。それは単に“物量”だけの問題だったのだろうか?という疑問だった。
黒田先生の専門は、日米関係やアメリカの中東政策、それに日本の「国対政治」についてである。先生は、現代日本の政治だけでなく、日本文化についても非常に造詣が深い。 彼は、半世紀に及ぶアメリカ生活のなかで自らさまざまな被「差別」を体験し、その是正に向けて果敢に挑戦した正義感に満ちた一流の学者だ。彼が「差別問題」に関心を持つきっかけとなったのは、オレゴン大学でのサーグッド・マーシャル(Thurgood Marshall)との出会いだった。
先生によると、マーシャルは当時(1950年代後半)、NAACP(全国有色人種地位向上協会)の弁護士として活躍していた。彼は、社会科学の文献などを証拠として、いかに学校で差別待遇をすることが国法に反し、アメリカに悪影響をもたらしているかを示して最高裁判所を動かした。彼はその努力を買われて、史上初めて最高裁判所判事に抜擢された。彼を任命したのが、ジョン・F・ケネディ大統領である。
マーシャルは、黒田青年に学問的な“実証性”の大切さとそれを果たすための地道な努力の尊さ、またあらゆる差別に抗する“不屈の精神”を教えた。それゆえ、ドクター・クロダは、何より“実証性”や公平な”客観性”を重んじる学問的な態度を堅持している。彼にとって、「“実証”という努力の積み重ねこそ、まさに人や社会を動かすのだ」。
黒田先生はまた、人間や国民としての“自立の精神”の大切さを強調する。彼は、日本人がアメリカの言いなりになっている現状に強い危機感を抱いている。私は、彼こそ、「日米軍事同盟」の本質とその限界を熟知した主要な政治学者の一人だと思う。正直、私は、もし小沢民主党に開明的な先見性があるならば、ドクター・クロダの“教授”を仰いだらよいと思うのだ。そして、同党の諸賢のなかで、もし“われこそは”と思う方がいれば、彼と大いに”論争”したらよいと思う。ドクター・クロダは、英語ででも日本語ででもどちらでも、快く相手になってくれよう。
彼はまた、単に民族や国家というレベルからではなく、むしろその思想の原点に、「人類」とか「人間」という視点がある。その意味で、彼は、マハートマー・ガンディーやM・L・キング牧師に通じる視点(あるいは思想)の持ち主だと思うのだ。
私は、今まで自分が接した大学人のなかで、彼ほど人格的に優れた学者を知らない。単に学者として尊敬できるだけでなく、一人の人間として、その精神的な幅の広さや深さに私は心から感動する。また、彼のユーモアの豊かさと洒脱さに感銘を受ける。
実は、ドクター・クロダは、Who’s Who in Americam(現代アメリカ名士録)にも載っている非常に稀少な日本人の一人である。名簿上、彼の前にいるのは世界の「黒澤明」監督である。その意味で、日本人の多くが彼を知らないことは、まことに不幸なことだ。それに、真実、“勿体ない”ことだ。
何もお盆の月だから言うわけではない。だが、私は、物故した方々は“もういない”のではなく、目に見えない形で、われわれを導き、守り、慰め、励まし、愛してくれていると思う。そのような“方々の声”に、心静かに心耳を傾けることが大事なのではなかろうか。われわれの目に見えるものなど、それこそ、まるで「氷山の一角」のようなもので、見えないものの価値のほうがはるかに貴いような気がするのだ。
8月は、そのような方々の死を通して、人のいのちの大切さや重み、つまりその“尊(とうと)さ”を感じる、たいへん“精神的な月”だと思うのだ。【つづく】