今回の参院選は、全国各地で悲喜こもごもの場面を現出した。捲土重来を期した政治家も多い。だが、時代が大きく変動しつつあるのも事実だ。そんななか、私は、朝日新聞の「声」欄に掲載された一人の高齢の方の投書に強い感銘を受けた。それは「自民の大敗は年寄りの反乱」というものだった。投書氏は言う。
参院選後、地元紙は「逆転―参院に臨む」という特集を組んだ。民主党の鳩山幹事長に記者が尋ねた。
真に聡明な人というのは、この鳩山氏のような人のことをいうのだろう。私は何も、彼が東大工学部の出身で、アメリカの名門スタンフォード大学大学院で工学博士号(専門は「経営工学」)を授与された方だから、そう言うのではない。本質的に彼の視点は鋭く、かつ考え方が沈着冷静で無理がない。また、説得力にも満ちている。
ところで、今年の8月6日(月)、広島市は62回目の「原爆の日」を迎えた。
「死者をうらやむほどの『地獄』」という言葉が胸を刺す。たしかに、そのとおりだったに違いない。むしろ、地獄とはいえ、広島や長崎ほどのものではないのではあるまいか。この惨状を、アメリカ人は本質的に知らない。いや、彼らはむしろ知ろうともしない。今でもアメリカの子どもたちは、原爆投下が100万人の自国軍兵士を救い、戦争の早期終結に寄与し、真珠湾攻撃に対する復讐の唯一の手段だったと教えられている。
その点で、秋葉氏があえて伊藤一長(いとうかずなが)氏の名前を出されたことにも、深い意味があると思う。それゆえ、本稿でも、筆者の至って正直な思いを記したい。
事実、この長崎市役所内での動きによって、伊藤市長はハーグの国際司法裁判所で「核兵器の使用は、明らかに国際法違反である」と涙ながらに訴えたのである。この伊藤氏の勇気ある行動が、日本政府はおろかアメリカ政府をも激怒させたことは、容易に想像できよう。
同氏はまた、2002年の原爆の日(8月9日)には同時多発テロ以後のアメリカの核政策を批判した。さらに、2005年5月の核不拡散条約検討会議において、彼は、「核兵器と人類は共存できない」と主張したのである。最近では、今年3月のアメリカ軍イージス艦の長崎港入港を、伊藤市長は「残念だ」と語った。
ところで、参院選中、安倍氏が聴衆を前にして、いみじくも「改革を実行できるのは、自民党と民主党しかありません!」と言い間違えたのは、実は長崎市内においてだった。小嶺忠敏候補をはじめ自民党や公明党議員は、きっと唖然としたことだろう。それこそ、“アチャー!”と思ったに違いない。だが、被爆地・長崎には、まさに、人々に“真実”を言わせる霊気が漂っていると思うのだ。
日本には数多くの都市がある。なかでも私は個人的に「長崎」が大好きだ。何より、あの異国情緒に心魅かれる。私事だが、ほぼ半世紀前、熊本市内の小学生だった私たちの修学旅行先は、「長崎」だった。バスで一泊するのに適当な距離だったのだろうか。だが、今考えれば、「平和教育」の一環だったのかもしれない。
地元紙の投書欄に永井博士のことが載っていた。「原爆投下の日、永井博士(を)思う」と題する読者欄には次のように書かれていた。
実は、今から11年前、実に不思議かつ衝撃的な本が出版された。それは、『魂の伴侶(ソウルメイト)』(PHP研究所)という著作である。同著の説明によれば、ソウルメイトとは、愛によって永遠に結ばれている人たちのことだ。彼らは、いくつもの人生で何回もの出会いをくり返している。同著の著者ブライアン・L・ワイス博士は、「前世療法」という催眠療法によって、患者の魂の問題や心理的トラウマの問題を解決している。そのなかに非常に興味深い文章があった。それは、次のようなものである。
ところで、8月9日(木)の長崎原爆の日、地元紙の一面トップを飾ったのは、テロ特措法に関して、「米の延長要請拒否」という見出しだった。その紙面には、次のようにあった。
日本国内の一部の有識者は、“イラクとアフガンとは違う”と言う。だが、私は、アメリカによる“侵略”という意味ではまったく同じだと思う。
今年も、はや立秋(8月8日)を過ぎた。朝夕、心なしか、しのぎやすくなった感じだ。私事だが、朝夕の愛犬(ホワイトテリアのオス、4歳。名前はタロー)との散歩にも、いくぶん心が弾む。人間は、いささか不正直な生き物だが、季節や自然は、非常に規則正しく、かつ動・植物は、たいへん正直な存在である。
参院選での大敗北後、自民党が、ますます混迷の度を深めている。今月末に予定されていた臨時国会が9月に延ばされた。残暑厳しい昨今だが、永田町も、それに負けず、だいぶヒートアップしている。まさに、思わぬ“夏の陣”である。
8月7日(火)、臨時国会が召集され、参院議長に江田五月氏(66)が選出された。1956年以来初めての野党出身の参院議長の誕生である。まさに、新しい時代の到来だ。時代は、明らかに”変わった”のだ。江田氏の聡明、かつ果敢な舵取り(=議会運営)に期待したい。
ちなみに、われわれ団塊の世代は“いつまでも若い若い”と思っていたが、いつの間にか「旧世代」になったようだ。江田五月氏の登場に目をうるませながら、私は、いつの間にか、彼の父、江田三郎氏(1907〜77)のことを思い出していた。
三郎氏の「国会議員25年、政権も取れず恥ずかしや」の言葉が実にほほえましい。地元紙の「新生面」(朝日の「天声人語」、毎日の「余録」、讀賣の「編集手帳」、西日本の「春秋」に当たる編集主幹の手記)には、次のように書かれていた。
《「現状の改革を望んでいるのだが、こたえてくれる政党がないので無党派なのである。この層にどうよびかけ、この層と手のつなげる政治勢力をどうやってつくるか」。
旧社会党の副委員長を務めた江田三郎氏は、著書『新しい政治をめざして」の中にこう書き、社会党を離党。菅直人氏らとともに社会市民連合をつくり、国民的な人気を得た。 1977年のことだ。参院選の出馬準備を始めたが、その直後に急死。悲運の政治家と言われる。長男の五月氏は裁判官で、当初は身代わり出馬を拒否したものの、「父の無念さを思わざるを得ない」として政治家になった。あれから30年。三郎氏の思いは一直線には実現しなかった。そのことは、五月氏が社民連、日本新党、新進党、民主党などと所属政党を変えたことにも象徴される。今回の参院選で民主党が大勝し、五月氏が議長になった。
自民党以外の議長就任は56年以来だ。ただし、この勝利も「無党派層が自民党を批判、その受け皿として民主党を選んだだけ」とも言えよう。無党派層を党の支持基盤として固めきれるかどうか。自民党も含めた政党間の戦いは激しさを増すはずだ。政界の「ガラガラポン」で、また新しい政党が生まれる可能性も否定できない》(8月8日付熊本日日新聞、紙面の漢数字を洋数字に直しました―筆者注)。
1960年の「安保闘争」当時、まだ10歳の小学生だった私は、その時の実態を実際には知らない。ただ、新聞記事を見て、“東京では何か凄いことが起こっている”ということと、当時の岸首相の顔を見て“醜い!”と感じたことぐらいだ。
「歴史は繰り返す」とはよく言ったもので、今の安倍氏の“針の筵(むしろ)”状態に、私は、安保当時の岸氏の苦痛にゆがんだ顔が重なる。
私は、今年はあの1960年以来、日本にとって最大の“政治的変動の年”、あるいは“政治の年”だと思う。安保闘争時、「今こそ、国会へ」という論文を雑誌『世界』に投稿し、全学連運動を主導した清水幾太郎氏(1907〜88)こそ、大学時代のわが恩師である。学部の先輩である亀井久興氏や麻生太郎氏も、清水先生の授業をとられたかもしれない。
1960年、全学連を主導した彼は、官邸内で岸総理に近づき、「オマエ、何をやっているのか、わかっているのか!」と詰め寄った。だが、彼は衛士に取り押さえられた。実は、闘争引退後の清水先生は、同年の江田三郎氏とたいへん仲がよく、「社民連」的な政治変革運動にかなりの共感と関心を持っておられた。私は、お二人は、精神的“同志”だったように思う。ちなみに、8月10日(今日)は清水先生のご命日である。
江田父子の決意から30年、民主党の結党から11年、小沢一郎氏の自民党離党から14年――今日の“民主党優勢”の政治状況は、言うまでもなく、一朝一夕にできたものではない。その出発点こそ違え、それぞれの立場でともに日本を愛し、国民をいとおしく感じる人々の日々の努力や協力の賜物だと思うのだ。
その意味で、「今年」ほど大事な年はないのではあるまいか。1960年がそうであったように、今、われわれ日本人は歴史的岐路に立たされていると思う。単に「自民党の凋落」というだけでなく、それこそ、日本国の“浮沈”が今年にかかっていると思うのだ。今年こそ、“目覚めの年”にしなければならないと思う次第である。
《自民党の歴史的大敗に終わった参院選を、私は「じじ・ばばの反乱」と受け止めている。年寄りをばかにしてきた政権与党への仕返しだ。旧制中学の同級会が先日開かれ、自説を持ち出した私に、そうだそうだと共感の声が相次いだ。
小泉、安倍両氏と2代の政権が年寄りに何と冷たかったことか。老年者控除や定率減税が廃止され、医療費の負担増は著しい。乏しい預貯金の利息は入らない。引退後の生活にと積み立ててきた年金記録のいい加減さが発覚した。年寄りはもう要らないから死ね、と言わんばかりではないか。
地震が続く。古い家の下敷きで犠牲になるのはいつも年寄りだ。そもそも過疎地に住んでいるのは年寄りばかりになってしまった。これも政権党が長年推し進めてきた政策の結果ではないのか。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」としきりに言う。戦争への反省から我々が作り上げ、育んできた平和憲法をないがしろにするかのように聞こえる。
自民党の大敗が1人区に象徴されるのは、地方に暮らす年寄りたちに鬱積した不満の爆発だ》(8月8日付朝日新聞)。
さしずめ、私の母もこの“反乱軍”の一人である。だが、笑うなかれ!「一人区」の熊本で当選した民主党の松野信夫氏と次点だった三浦一水氏(自民党)の差はほぼ8000票の僅差だった。つまり、私の母たちの“反乱軍”の応援なしには松野候補は当選できなかったかもしれない。同氏もその怖さと「価値」をよく理解していると思うのだ。
《――参院選の結果をどう評価するか。
国民が二大政党政治を期待して民主党に託してくれた。特に自民党の金城湯池だった改選一人区での勝利は、地方の有権者が「格差社会」の中で、現政権に強い不満を持っていることを明らかにした。
――勝因は。
安倍晋三首相に対する国民の憤りと失望感だ。首相は「消えた年金」の問題を認識しながら何もせず、支持率が急落した途端に対策を講じた。国民でなく自分のために政治を行っていることを見抜かれた。閣僚の不適切発言や、政治とカネの問題も大きい。
――赤城徳彦前農相が更迭された。
疑惑を晴らせないなら辞めるしかないのに、首相も赤城氏も世の中の空気も読めず、完全にタイミングを逸した。首相の任命責任が問われるのは当然。人心一新を明言しながら、赤城氏だけを更迭した首相の政治手法を「良かった」と思う人は一人もいないだろう。国民の失笑を買った。
――首相は続投するが。
参院選の結果を見ればあり得ない。自ら「小沢氏を取るか私を取るか」と訴え、有権者は厳しく評価したのに、「政策は間違っていなかった」と主張する。国民との認識の乖離(かいり)は大きい。
私がいたころの自民党なら(首相は)とても持たなかった。今は代えるパワーも生み出せないくらい衰えた。最期の時を迎えており、国民のために政権交代を早めねばならない。
――国会対応の方針は。
納得できない法案を与党がごり押ししてきたら、参院で徹底抗戦し成立させないことも可能だ。ただ、何でも反対で国会を混乱させ、衆院解散に持ち込むのは国民の理解を得られない。「結局は抵抗勢力だ」と失望されてしまう。
――衆院選への準備は。
参院選は、若くて期待できる候補者をそろえたことも勝因の一つだ。衆院議員の任期はまだ二年あり、政府、与党が利のない解散・選挙をするはずがない。魅力のある候補者を、急ぎながらも焦らずに選ぶ。共感される政策を提言し、国民に「民主党政権のほうがより良い国になる」と感じてもらう中で、衆院解散を求めていく。》(8月4日付熊本日日新聞)。
かつて、林知己夫(1918〜2002)という世界的に著名な「統計数理研究」ならびに「行動計量学」の権威がいた。実は、鳩山氏はこの林氏の薫陶を受けた学者だ。それゆえ、鳩山氏は物事を大変客観的かつ冷静に分析できる。その点では、このたびの参院選で、地方遊説に回るなかで国民が熱烈に握手を求めるので、“十分勝てる!”と錯覚した安倍首相の浅薄な認識力とは本質的に異なる。
また、菅氏も非常に数理に明るい人で、本来、理学(専門は「応用物理学)の専門家だ。無論、政治に熱意や情熱は必要だ。だが、同時に、物事を冷静に見つめる客観的な視点も大事だ。その意味で、現在、小沢代表は大変すぐれた政治家によって補佐されていると思う。
他方、安倍氏は、さほどすぐれたブレーンに恵まれていないことが彼の不徳であり、かつ不幸だと思うのだ。
ちなみに、林知己夫氏のご命日は2002年8月6日である。それは豊富な学問的業績を遺した84年の生涯だった。知人の言によれば、その葬儀の席上、林氏の霊前に身を屈めた敬虔な鳩山氏の姿があったという。
当日午前8時から、「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和祈念式典)が、平和祈念公園で営まれた。原爆投下の午前8時15分、同会場から遠く離れた長崎市内でも、浦上天主堂の鐘を合図に、長崎市民が広島の犠牲者のために敬虔な祈りを捧げた。日本全国の津々浦々でも同様の光景が見られた。
その式典での秋葉忠利広島市長の演説は、大変感動的なものだった。彼は、式典参加者とテレビを視聴する国民に向かって次のように語り始めた。
《運命の夏。朝なぎを破るB29の爆音。青空に開く「落下傘」。閃光(せんこう)、ごう音―静寂―阿鼻(あび)叫喚。辛うじて生き永らえた人々も、死者をうらやむほどの「地獄」でした。
14万人が年内に亡くなり、死を免れた人々も今なお苦しんでいます。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷は理解されず、生きる意味を問う日々が続きました。しかし、その中から生まれたメッセージは、人類の行くてを照らす光です。3度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を忘れてはなりません。
膨大な核兵器が配備され、核拡散も加速するなど、人類は今なお滅亡の危機にあります。しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。市民と悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、国際政治を動かそうとしています。
唯一の被爆国である日本政府には、謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、世界に広める責任があります。誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れの政策に「ノー」と言うべきです。平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した援護策の充実を求めます。
被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することを、ここに誓います》と(8月6日付熊本日日新聞夕刊〔要約〕。紙面での漢数字を洋数字に直しています―筆者注)。
だが、一部の心ある日本人が理解しているごとく、アメリカは、当時のソ連に対する軍事的優位を誇示するためと、同国への“脅し”のために、無辜の日本人を犠牲にしたのである。それも、あろうことか、ウランとプルトニウムという種類の異なる核爆弾の“実験試行”(=次の世界大戦に向けての人体実験)として、広島、長崎へと投下したのだ。
私は、「原爆投下」は“悪魔でしか為しえない行為”だと思う。換言すれば、“本質的に神を知らない者たちの行為”だと思うのだ。その意味で、「米国の時代遅れの政策」と言う秋葉市長の不屈の勇気に、私は心からの感動と共感を覚える。
正直、私は昔から、彼の政治行動に対して特別に注目していた者の一人だ。秋葉氏は、真に正義と平和のために行動する政治家だと思う。ちなみに、秋葉氏も、もともとは数学者だ。だが、それ以上に、伊藤氏の無念さを思う彼は、どうしても伊藤氏を「核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた」同志として、心から追悼したかったのだと思うのだ。私は、秋葉氏も常に命を賭けていると思う。彼は、伊藤氏の弔問のため長崎市を訪れたとき、非常に緊張した面持ちだった。彼は決して他人事(ひとごと)とは思えなかったことだろう。
それだけに、彼の宣言文はわれわれの胸底に響く。秋葉市長の宣言文には、おざなりの官僚の作文をただ棒読みするだけの安倍首相の挨拶とは基本的に異なる迫力と真実があったと思うのだ。
読者は、伊藤氏が単に城尾哲弥(59)という山口組系暴力団幹部の単なる私的怨念によって殺されたとお考えだろうか? たしかにマスコミの論調は概してその線で書かれている。
だが、私は、どうしてもそれほど単純なものとは思えない。むしろ、端的に言って、伊藤氏は、「原爆はしょうがない」とアメリカにおもねる言辞を弄するような国内の従米主義者(=その種の政治家や暴力団組織)たちの反感と憎しみを買ったがために、実に巧妙な形で“謀殺された”と思うのだ。無論、確証があるわけではない。だが、私は、伊藤市長殺人事件が一人の暴力団幹部の「生活破綻」を恨んでの自暴自棄的な犯罪行為だったとは、どうしても思えないのだ。
たとえば、次のような事実がある。伊藤前市長は、市長出馬前は「防衛、外交は国の専管事項」として、平和問題、核問題には言及しないという姿勢を示していた。だが、市長就任後は、一転して平和推進路線に転換した。つまり、彼は、被爆地の市長として、核兵器の撤廃運動を積極的に行った。彼はまた、しばしば核兵器の使用や、核保有国であるアメリカを批判した。とくに、1995年11月には、国際司法裁判所で、伊藤市長は核兵器の使用は明らかに国際法違反である、と涙ながらに訴えた。事実、地元紙の特集記事は次のとおりである。
《被爆地・長崎からやってきた伊藤市長の陳述に、英国人女性判事がすすり泣いていた。1995年11月7日、オランダ・ハーグの国際司法裁判所大法廷。モーニング姿の伊藤一長が掲げたパネル写真に、14人の裁判官は息をのんだ。
写っていたのは黒焦げになり、がれき散る路上に横たわった少年の遺体。長崎に原爆が落とされた翌日、45年8月10日に市内で撮られた写真だった(撮影主は、山端庸介氏―筆者注)。太陽が降り注ぐ縁側で昼寝をしているようにも見える、安らかな表情の別の遺体の写真も伊藤は見せた。
「この子供たちに、なんの罪があるのでしょうか。この子たちが銃を持って、敵に立ち向かったとでも言うのでしょうか」。とつとつと語る伊藤の声も涙で詰まった。
英語とフランス語に同時通訳された訴えが終わると、裁判長は「感動的な陳述に感謝します」と伊藤をねぎらった。
時間は法廷の2カ月前にさかのぼる。「よか写真はなかね(いい写真はないか)?」。伊藤が市の平和担当係長・永田博光に尋ねた。
核兵器使用が国際法違反かどうか審理する国際司法裁判所で、広島と長崎の市長が陳述するよう政府に求められ、伊藤と市の担当職員が準備のための打ち合わせを始めたところだった。
永田は即座に黒焦げの少年の写真が頭に浮かんだ。長崎を訪れたマザー・テレサ(1910〜97)が「すべての核保有国の指導者はこれを見るべきだ」と言った写真だった。
「写真でインパクトを与えてやろうや」――政治家らしいひらめきを口にした伊藤は、ほかに「世界とりわけ米国にはキリスト教信者が多いから、長崎がキリシタンの町で多くの信者が被爆死したことを陳述に入れてほしい」と注文をつけた以外、準備作業にほとんど口を出さなかった。
当時、政府は「核兵器使用が国際法違反かどうかには直接言及しない」との姿勢。伊藤は記者会見で「陳述内容は国と協議する」とさらりと言い、違法性には触れない可能性をほのめかした。
だが永田は違った。「国際法違反であると長崎から世界に言わんばいかん(言わなければならない)」。ハーグの陳述に向け、永田は懸命に文案を練った》(7月23日付熊本日日新聞夕刊、漢数字を洋数字に直しています―筆者注)。
このような伊藤氏の不撓不屈の勇気ある政治行動を、日米同盟の下、今後ますますアメリカ依存を強めようと思っている政治家たちや暴力団関係者たちは一体どんな思いで見つめていただろうか? はっきり言って、“伊藤、おまえはやり過ぎだ!”と感じていたのではあるまいか。だが、伊藤氏は、死の瞬間まで、人間を信じ、長崎市民を信じ、とりわけ「正義と平和」の大切さを信じていたのである。その彼が、背後から、それも至近距離から撃たれたのだ。
しかし、その拳銃の引き金を引いた城尾の指は、単なる“道具”に過ぎず、伊藤氏ははるかに巨大な闇の“力”によって葬られたのではあるまいか。
事実、城尾は、殺害実行のための試射を何度もおこなっている。彼は、伊藤氏を殺したかったというよりも、むしろ是が非でも殺すべく、“義務づけられていた”のではなかろうか。そして、その代償に彼のすべての負債をチャラにするような密約が結ばれていたのではあるまいか。これは、私の“真夏の夜の夢”か、それとも単なる“妄想”に過ぎないのだろうか?
だが、私は決してそうは思わない。今まで、ケネディ大統領やマハートマー・ガンディーを研究し、アメリカで平和運動に邁進していた人々が秘密裡に殺されていったという話をたびたび耳にしていた私の偽らざる“直感”なのだ。
「非暴力は、原子爆弾をもってしても破壊することのできない唯一の存在である。原子爆弾がヒロシマを破壊したことを耳にした時、私は自らに語った。『今こそ世界が非暴力の精神を持たなければ、人類を必ず自滅の道に向かわしめるであろう』」と語った偉人がいる。マハートマー・ガンディーである。
また、M.L.キング牧師も、「現代に生きるわれわれは、非暴力の道を選ぶか、あるいは核兵器を無差別に使って滅びる愚か者となるか、この二つに一つの道しかない」と語る。
さらに、1981年に広島、長崎を訪問した当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、広島「平和アピール」の冒頭で次のように述べた。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の平和祈念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」と。
生前の伊藤氏の思いは、このような方々とほぼ同じ思いだったのではなかろうか。われわれは、彼の正義と平和を愛する誠(まこと)を無駄にしてはいけないと思う。秋葉・広島市長も、そのことをわれわれに訴えたかったのだと思うのだ。
8月9日は長崎原爆の日である。「この子どもたちに何の罪があるのでしょうか?」という、先述した国際司法裁判所で伊藤前市長が訴えた言葉から始まった田上富久市長の今年の宣言文も、実に心のこもった素晴らしい内容だった。田上氏には、政治的に強烈な個性をもった伊藤市長とはまた違った実直さで長崎市長の職責をまっとうしてほしいと思う。
当時、多感な少年だった私にとって、「長崎原爆資料館」に入ったときの衝撃は今も忘れられない。午前11時2分に止まった柱時計や数々の犠牲者の遺品、それに生々しい被爆の写真に私は思わず圧倒された。たしか入口の辺りに、原爆投下の経緯を述べた説明がなされていた。私は思わず、その文章を全部手帳に収めた。今なら、携帯かデジカメで写せば済むのだろうが、当時のこと、そのような利器はなかった。
その説明書きには、長崎が第一目標ではなく、実は小倉だったことが書かれていた。だが、小倉上空が悪天候で投下不能だったので、急遽、第二目標の長崎に方向を転換したとのことだった。その事実がショックだったこともあり、私は必死になってその文章を書き留めた。あの行為が、私が「平和」や「政治」に関心を持った“原点”だったのではないだろうか。
その旅行で、私たちは永井隆博士(1808〜51)の如己堂も訪ねた。畳2畳分の小部屋で生涯の最後の日々を過ごされた博士の生き様に、とても心打たれるものがあった。たしか、ヘレン・ケラーも最晩年の博士を訪問した。その他、グラバー園(当時はグラバー邸)、浦上天主堂、祟福寺などにも行ったが、私はなぜか、原爆資料館と如己堂が心に残った。その後も原爆資料館を訪ねたが、私は落涙なしには退室できなかった。
《今年も62回目の原爆投下の日が巡ってくる。先日の本紙(熊日紙)で自ら被爆しながら被爆者治療に尽力、平和を訴え続けた医師・永井隆博士の生誕百周年の記事を読んだ。昭和24年、戦後4年目の夏休み、長崎方面に旅行し、博士の家を訪問した時のことがよみがえった。
永井博士の家は原爆落下中心地の近くの小高い所にあった。粗末な木造の平屋建てで二間ほどしかない小さな家で、博士は玄関のそばの部屋に浴衣の寝間着姿で床に休んでおられた。水がたまった大きなおなかをして苦しそうな感じだった。
しかし、高校生である私たちに快く会って下さった。当時既に「この子を残して」「長崎の鐘」などの著書を出版して有名になっておられた博士の話が聞けて私たちは大変感激した。話は主に戦争のことと子どもさんたちのことであった。
戦争については「昔の戦争はよかったですね。やあやあわれこそは……と叫んで太刀を振りかざして戦うだけでしたから。しかし、今の戦争はむごいですね。たった一発の爆弾で数万、数十万の人間が殺されたり傷ついたりするのですから。こういう戦争はもう二度と絶対にしてはいけませんよ」としみじみ述懐されたことが現在の私にも強烈な印象として残っている。戦争だけは再び起きてほしくないし、そうさせない努力を国民全体がしていかなくてはならないと強く思う》と(8月8日付熊本日日新聞、部分的に漢数字を洋数字に直しています―筆者注)。
実は、永井博士のご長男の同級生で、生前の博士に大変な影響を受けた少年がいる。彼は、博士の澄んだ神々しいばかりの瞳に圧倒されたという。「如己愛人」(己のごとく隣人を愛す)の精神で献身的な医療活動に従事した博士の瞳は、たしかにとても美しいものだった。その「少年」こそ、今をときめく美輪明宏氏(72)である。美輪氏の「愛と平和」を唱える原点は、長崎での被爆体験であり、同時に永井博士との出会いだったのではあるまいか。
《ある時、南アメリカ生まれの男性に前世療法を行ったことがあった。彼は第二次世界大戦を終わらせるために、原子爆弾を開発し、広島に落とす計画のために作られたチームの一員として、罪の意識に満ちた人生を思い出した。現在、彼は大きな病院で、レントゲン技師として働いている。人を殺すためではなく、人々の命を助けるために、放射線と近代技術を利用しているのだ。彼は今生では、心やさしく、思いやりの深い男性として生まれたのだった》と。
11年前にこの文章を読んだとき、私は、このような一文が収められている本著が、あのアメリカで公にされていることに感銘を受けつつ、実にすんなりと心の中に入った。そして、この“真実”を私はまったく抵抗なく信じた。「人生は、この世限りで、死ねば無になる」と考える人にはほとんど信じられない文章であろう。だが、人間が“魂の存在”である以上、私は、目に見えるこの世だけがすべてだとは思わない。われわれは、もっと霊的かつ精神的な“真実”に目を見開くべきだろう。
単に物質的かつ物理的な視点からして、戦争が“絶対的に悪”であるだけでなく、私は霊的かつ精神的な意味でも、戦争を含め、あらゆる種類の「暴力」が“絶対的に悪”だと思う。
その意味で、核兵器はまさに“悪魔の兵器”だと思うのだ。それを、平気で使用することは、もはやわれわれが人間ではなく、それこそ魂を悪魔に売り渡し、悪魔そのものになっている証左だと思う。そんな人々が、やれ「アラー」だとか「ヤーウェ」だとか、さらには「キリスト」などといった神を論じることなど、実に笑止千万なことだ。とりわけ、「神の命令で、人を殺したり、戦争をする」というのは、本質的にまったくの欺瞞である。
《民主党の小沢一郎代表は8日夕、党本部でシーファー駐日米大使と会談した。インド洋で海上自衛隊が米艦船などに給油活動するためのテロ対策特別措置法が11月1日で期限切れとなることを踏まえ、大使は「秘密の情報が必要なら、どんな情報でも提供する準備がある」として延長に同意するよう要請。小沢氏は、「米国を中心とした活動は、直接的に国連安全保障理事会からオーソライズ(承認)されていない。活動には参加できない」と拒否、延長に反対する考えを明確に示した。
小沢氏が厳しい姿勢を重ねて示したことから、秋の臨時国会で延長をめぐる論議が難航するのは必至で、政府、与党は難しい対応を迫られる。一方、延長に理解を示す前原誠司前代表ら民主党の外交防衛担当者は10日から具体的な対応について協議を始める予定で、小沢氏の対応に不満が出ることは確実だ》(8月9日付熊本日日新聞)。
小沢氏の毅然たる態度と、「日米同盟」は決して従属関係ではなく、あくまで“対等かつ平等な関係である”と唱える同氏に、私は、喝采を送りたい。
周知のごとく、アメリカは世界の平和のために行動しているのではない。自国(厳密には石油利権の拡大・発展)のために軍事行動を起こしているのである。事実、チェイニー副大統領やライス国務長官らが深く関わるアメリカの石油資本がアフガン国内でのパイプラインの敷設を要求したのに対して、当時のタリバン政府が拒否したことが、実質的なアフガン攻撃へとつながった。それに、現在のカルザイ大統領は、元はと言えば、アメリカの石油会社の“社員”だった。アメリカにとって彼ほど操りやすい人物はいない。その彼が、最近、アメリカへ行き、今のアフガンの状況は2〜3年前に比べますます悪化していると正直に述べている。それに、治安の維持(端的に言えばタリバンの掃討)のために何とイランの力を借りていると、CNNの問いに対して述べた。そのため、キャンプデービットで、ブッシュ大統領から「それ以上は言うな!」と口止めされたとのことである。
無論、だからと言って、私は、タリバンのさまざまな蛮行を弁護する意図は微塵もない。むしろ、いかに「偶像破壊」が教義とはいえ、歴史的に貴重な仏教遺跡(バーミヤンの大仏)を破壊して以来、私は、彼らを理不尽な狂信者たちだと考えている。
加えて、なぜイラクがアメリカの攻撃を受け、フセイン大統領がアメリカによって捕縛された後、処刑されたかと言えば、それは大量破壊兵器の所持でも何でもない。実は、その主要な理由は、彼が自国の石油を今までのように「ドル立て」で売るのではなく、「ユ−ロ立て」にしたことが、ブッシュ父子やアメリカ石油資本の憎しみを買ったと言われている。すべては“石油”確保のためであって、平和や「民主主義」のためなどではない。
日本政府やわれわれ国民は、そういった実態を一体どれほど知っているのだろうか? 事実、「テロとの戦い」などと声高に叫んでも、一皮剥けば、アメリカの利権追求や覇権主義のお先棒を担がされるだけなのだ。正直、アメリカには、世界の平和を云々する「資格」などないと思う。そんな国のために、なぜわが国が戦争のお先棒を担がされなければならないのだ。むしろ、日本は、もっと積極的、かつ真剣に「平和」を希求すべきだと思うのだ。
周知のように、この世には、さまざまな「価値」がある。幸福、健康、愛、富、自由、真実、正義など、それこそいろいろあろう。だが、その土台となるもの、それは、「平和」なのではなかろうか。平和なしには、この世のいかなる「価値」もまったく無に帰してしまう。すべての人間生活や社会生活は、あくまで「平和」が基本である。
われわれが「ヒロシマ、ナガサキ」を考えることは、この「平和の大切さ」「生命の尊さ」「戦争の愚かさ」「兵器の無価値さ」、そして「限りある人生の素晴らしさ」を再確認することなのではあるまいか。
正直、「ヒロシマ、ナガサキ」の日に私が思うことは、“世界の平和こそ、われら日本国民の心からの願いではないか”ということである。それを真に実現することこそ、われらの使命、そして政治の目標だと思う。小沢・民主党は、その目標を達成するために「政権交代」への第一歩を踏み出そうとしている。
「政権交代」への道――それを、民主党は焦らずしかも着実に歩んでいってほしい。私は、「政見交代」の主要目標の一つである“平和の実現”こそ、今、われわれ日本国民に真に求められることだと思うのだ。【つづく】