釧路漁港に立って考えたこと[4・完]――日本の魚食文化復活が日本を救う〈その3〉
塩鮭への思い
「体力増進に役立つ鮭は『神近い』魚」(浅野純次『食は医力』より)
私は1932(昭和7)年に伊豆の伊東で生まれ、育った。戦時中時々、鮭を食べた。いつも塩鮭だった。ある時期までは鮭とは真っ白な食べ物だと思っていた。焼くと塩が吹き出て真っ白になる。これがなんとも旨かった。塩辛いのでほんのわずかな身でもおかずになった。戦時中のある時期から食べられなくなったが、白いご飯に塩鮭は最高だった。
いまでも忘れられない鮭がいくつかある。とくに忘れられないのは石巻市の須能邦雄さんから頂いた鮭と、釧路の鮭である。
『広辞苑』によると、サケ(鮭)の語源はアイヌ語のサクイベ(夏の食物)からとも、サットカム(乾魚)からともいう。鮭は、秋、川をさかのぼり、上流の砂底に産卵したあと死ぬ。アキアジ、シロザケ、シャケともいう。
浅野純次さんは書いている。
「古くから鮭は健康を守る魚とされてきた。蛋白質、脂質、ビタミン、ミネラルが豊富にバランスよく含まれているからだろうが、古代から神前に供えられることが多かったことも関係していたのかもしれない。
胃腸が温まり、胃弱、虚弱に適している。ために強壮食ともされ、冷え性の女性が食べると子どもが出来ると信じられていた」
1945(昭和20)年8月15日に第二次大戦が終わったあと、あの塩鮭を食べることはなかった。なくなってしまったのだ。旧制中学と新制高校の6年間、伊東から小田原の相洋中・高等学校へ通学したが、この間もあの真っ白な塩鮭に出会うことはなかった。1951(昭和26)年に上京したあとも食べられなかった。子どもの頃の塩鮭の味が忘れられないだけに、塩鮭への思いは募るばかりだった。
私が鮭に再会したのは30歳になった頃だった。実に約15年間、私はこのすばらしい食材を口にすることができなかった。だが、やっと出会った鮭は塩辛くなかった。やわらかくて甘い鮭だった。あの、焼けば真っ白になる塩鮭に出会ったのは50歳を過ぎてからであった。あの塩が吹き出して真っ白になった鮭が、私にとっての本当の鮭である。
この鮭を全国民がいつでも食べることができるようになったとき、日本の食糧問題は解決する。そのためには漁業の繁栄をはからなければならない。漁港の整備も必要だ。輸送のための道路整備も急がなければならない。全国民が安価なすばらしい鮭を食べられるようにすることが日本の食糧問題の解決につながるのではないか、と思う。(この項完)