2008.4.15(その1)

森田実の言わねばならぬ【248】

平和・自立・調和の日本をつくるために[243]
「惻隠の情」=「仁」なくして教育なし――千葉県八千代市の県立八千代西高校で起こったこと(二人の入学金を納められない生徒を入学式に出席させず、入学金を納入するまで入学を許さなかった学校当局の杓子定規)

「惻隠の心は仁の端なり」(孟子)



 千葉県八千代市には二人の姉が住んでいる。二人の姉は私にとって親のような存在である。だから、八千代市のことがニュースに出ると少し注意深くなる。
 この私の個人的事情とは関係のないことだが、県立八千代西高校で起きた“事件”のニュースを聞いたときに思い浮かんだのが「惻隠」という言葉だった。惻隠とは「いたわしく思うこと」「あわれみ」(『広辞苑』)のことである。
 二人の生徒に対して“惻隠の情”をもち行動に移す人がいなかったか、という思いがまず頭に浮かんだ。こういう考えは古いのだろうか。最近、「昔はこんなひどいことはなかった」などと発言すると、若い人たちからの反発を受けることが多々あった。そのためあまり言わぬことにしているが、やはり「昔ならこんなことはなかった」と言わざるを得ない。
 カネ、カネ、カネの世の中で、規則、規則、規則の世の中で、これを越えて二人の若い高校生の気持ちを思い、カネや規則を無視して、あるいは超越して、二人を他の生徒と同じように待遇することが何故できなかったかと思う。このことで、八千代西高の校長が責任を問われることはないだろう。「責任」というレベルの問題ではないからである。しかし、問題はもっと深刻ではないかと思う。
 カネと規則の世の中では学校当局に責任はない。だが、カネと規則重視だけでは教育はダメになる。それを乗り越え超越したところに教育がある。教育は理想の追求なのである。「惻隠」なのである。