ではどうする、理科教育

 「理科教育があぶない」という本が新潮文庫からでている。高等教育フォーラムというところでは、高等教育、つまり大学での教育について、高等学校でのカリキュラムの影響で差がついてしまっていることを問題視している。たしかに、昭和30年代、40年代にくらべると、若者の理科離れはあきらかだろう。理系の大学は学生にとっての魅力も欠けるために進学者も少なくなってきている。理系というと、つめこみ教育が大学でも続く、時間遅くまで実習で拘束される、研究室に入っても時間の観念ぬきに実験にいそしまないと卒業できない、等々。事実、新四年生が配属先の研究室を選ぶさいには「拘束時間はどれくらいか」、「休日は休めるのか」、「就職はちゃんとできるのか」といったことを気にする。こんなこと、一昔前であれば学生は気にしないどころか、こういうことを気にする学生は教員からも他の学生からも白い目で見られたものだし、就職できるかどうかを気にするなど、学問に対する侮辱だ、とばかりに教員にどなりちらされすらしただろう。高尚な研究に俗をもちこむなどなんたることか、というわけだ。

 そういう過去がよかったかどうかは別として、確かに、自然科学分野に進学しようとする学生は少なくなってきている。少なくなってきていること自体は、時代の流れだし、別に特に自然科学系が学生を必要としているなどということもないので、これ自体はいい。ただ、その中で少ないながらもやってきた学生が、自然科学の素養のない場合があるのが問題、ということになろうか。たぶん、高等教育フォーラムで問題視されているのもこのあたりなのだろう。(中村桂子などは以前、理系を志望する学生が減ったこと自体を問題視していたが、これは論外である)

 しかし、こればかりはそうそう簡単ではない。高校での教育をかえたところでどうにかなるものではない。いや、もっというならば、中学や小学校での教育をかえてもだめだろう。なぜならば、ここで必要とされる素養は、自然科学を「おもしろいと思う」気持ちであり、好奇心であり、興味なのだから。教育課程をどうにかすればなんとかなる、という幻想は、教育に携わる人間が自分自身の興味がどこで発生したかを忘れてしまっているところからでてくる安易な結論、というところであろう。

 以前は、まず社会全体に科学に対するはげしい希求心があり、科学教といってもいいほどの科学礼賛があった。円谷プロの特撮番組があり、SFがファンの心をつかみ、少年漫画雑誌にはエアカーやテレビ電話、ロボットがたくさんでてくる薔薇色の未来の紹介が載っていた。もう少し古い世代では、もっと薔薇色の科学の未来があり、もうもうたる黒煙を吹く煙突は産業と復興の証拠としてもてはやされたりもしたし、さらに古い世代では、科学があれば日本は次の戦争では負けないぞ、といういきごみが学生の背中をどんと押していたりもした(文部省の科学研究費もこの時代の産物である)。ようするに、一時期の理系ブームはそういった社会の流れによって「つくられた」側面があった(その直中で理系の人生を選択した手合いは決してこの事実を容認できないだろう。自分達にとっての正義や真理、真実がつくられたものだとなど彼らの脆弱な神経では耐えられまい。せいぜいでヒステリーをおこすのがせきのやまというところか)のだが、ひるがえって、現代では科学は人の生活や自然をむしばむことこそあれ、手放しで礼賛されるものではなくなった。謎といわれいた問題の多くも「わかって」しまったし、専門家にとっての現行の「謎」はそれ以外の人にとってはよくわからないものだったり、どうでもいいことになっていたりしている。確かに「謎」はまだまだたくさんあるが、それらは一部の専門家にとってだけの問題となってきてしまっているのだ。

 そういう時代に、若者に対して自然科学にむけての気持ちをつくれといっても無理だろうし、事実、無理だからこそ理系離れもおきた。この状況で、もういちど自然科学への興味をよびさますには何が必要なのだろう。

 まず、社会的な要請、必要度には期待できない。この点について理系の教員・研究者は正しく理解する必要がある。自分達があたりまえに受け止めていた科学への憧憬は、自分が自然にもったものというよりも、時代につくられたものであったことを正しく認識する必要がある。

 小学四年生を一クラス、大学の研究室に案内して、顕微鏡をのぞいたり見学したり、ということをしたことがある。子供達はそれなりに楽しんではいたが、正直なことをいうとこの学年になってしまってはここから情動をよびさますことはできないだろうと思えた。つまり、何を面白がるか、というポイントは、この年齢ではすでにかたまっているのだ。だとすると、高等学校のカリキュラムなどをどうかえたところで、受験テクニックの延長として大学の試験の点を底上げするのが関の山で、まあ、学内の春学期試験の平均点程度ならば12点くらいはあがるかもしれないけれど、というところだろう。もちろん、「最近の学生は大学での成績が悪い、それは高校が悪いせいだ」という立場であるならば、ごまかすことはできるだろうけれど。

 必要なものは、幼稚園程度の時期に接する原体験なのだろう。考えてみれば、私自身についてはテレビの特撮番組をみつつ、小遣いで通えるような市立の科学館が町中にありそこにいりびたっていた。博物館、科学館といった環境があったし、日常的にそこで遊んでいたことがこの「ギョウカイ」に入ってしまったきっかけだったということがある。ごまかすのではなく、本当に科学に対する興味を子供にもってもらうのであれば、遊びの中に科学に触れる環境をつくる、ことからはじめなくてはならないだろう。文部省にカリキュラムについての要望を出したりするよりも、子供の生活の中に科学をとけこませていくような努力をこそ要望すべきだと考える。

 ただ、そのような要望を出すためには、大学人サイドが「子供は科学に興味をもってあたりまえ」とか「学校がちゃんとおしえさえすれば興味は芽生えるはず」といった幻想・妄想をその身から捨てなければならないだろうし、それくらいならばとりあえず文部省を責めているほうが楽、ということもあるだろうから、結局、理系離れは解消されない、のかもしれない。

1998.06.21.