「大学改革私論 研究と人事の停滞をいかに打破するか」
                       という駄本

 岡本浩一著、新曜社発行。買うまでしばらく悩んだ本だった。タイトルにはひかれたのだが、ぱらぱらとめくるとどうもトンデモ本の匂いがしたからだ。とりあえず、資料にはなるか、と思って購入して読んだのだが、そこにあった のは大学の教員は教育者である、ということをすっぽりと忘れ去ったカンチガイ野郎のあまったれたオネダリの山で、案の定、がっくりきた。読書ノートから抜粋すると、

 「教育など頭にないホシガリの甘え。誤字、嘘、間違い多し」
 「同期に対する嫉妬、やっかみ、ひがみ」
 「あそびたいばかりの馬鹿」
 「低俗、無知、いい加減」

 といった感じだ。よく最後まで読んだと我ながら自分をほめてやりたいくらいだ。そのまま、いくつか書かれているあやしげなことの裏をとっただけで忘れていたのだが。最近、大学改革に関するメイリングリストの記録を見ていて、この本をなんだかとんでもなくもちあげている方を発見してちょっと焦った。その紹介を見た人が全員ちゃんと原著を読むかどうかさだかでない以上、読者の一人としてきちんと批評文を出しておくべきだと感じてこれを書いている。

 定率加算金というアイデア自体は悪くない。しかし、それで「大学改革」などかたはらいたい。著者は、定率加算が研究者の「質」を高めるというが、ようするに、ヘッドハントされやすくなる、運営に口をだせる、という類の「質」でしかない。驚くべきことに、大学改革を標榜しておきながら、教育という観点がどこにもないのである。さらに著者は定率加算のないところでの任期制は無意味、というが、これははなしが全く逆。著者にとっては任期制は日本の社会にそぐわないということと、社会的に生活が不安な職になるからだめ、ということらしいのだが。任期制自体は大学、学部によっては以前から存在しているわけであり、加えて、日本の社会は終身雇用が一般的だからそぐわない、などというのも、日本の社会では大学教員のように「なにやってもやめされられないむのう職」など「一般的」ではないのだからこれも通用する論理ではない。職務規定で度をすぎる怠慢はクビにできるようにでもなっているのであれば違ったかもしれないが。しかし、どのみち一般企業でも終身雇用は崩壊しつつある上、年俸制の導入が開始されていたりする以上、著者のこのあたりの理論はすでにくずれている。会社によっては退職金を給料に上乗せして支給しているところすらあるのであり、「一般性」という点ではやはり大学教員という立場が度をはずれて非常識なものであることにかわりはない。

 さらにたちの悪いことに、著者は「大学改革の必要性」を「研究の停滞」のためだと信じているが、そもそも、ここに問題がある。大学の改革の必要性はいうまでもなく、社会が大学に求めるものと大学が旧態としてしがみついている実態とがかけはなれているところに生じたゆがみの修正が第一義なのだ。なんでもかんでも「研究の停滞、研究費がたりない」とするところがニセモノのニセモノたる由縁なわけだが。たかが定率加算を導入しただけで「研究助成金をとってくる力の低下した人」がいづらくなって流動化がすすむ、などとうわついたことをいっているが、それこそ根拠のない憶測というものだろう。現時点ですら、研究費ゼロでもなんともおもわずに教育も研究もしないまましがみついている勘違い教員がいるのであり、「それ」が停滞の根源なのだから。さらにいえば、助成の得られにくい研究テーマを選択する人間は著者の思考回路によれば大学に「いずらくなる」わけであり、研究の活性化とかいいながら、その実、研究の自主制を放棄するような発想ですらある、ということになる。

 結局、年金、退職金、クレジットカードの評価、ローンの評価・・・著者がいうところの任期制では「研究の活発が期待しにくい」理由は所詮この程度である。人材が職の不安定を理由に学界をめざしにくくなる、ともいうが、これも逆であろう。現在は助手という職に任期制がないために、研究も教育も満足にせず、大学にきては週刊誌を読み、弁当をたべ、webを猿のようにまわって家にかえるだけ、という50過ぎの助手があたりまえに存在していたりする。こういう人間を目の当たりにしていることこそが、優秀な若手が学界をめざす気持ちをなくす最大の要件であるといっていい。さらにも「そういう教員」はこぞって「自分は研究者だ」と思い込んでいるわけで、大学の構造的問題、改革が必要とされるポイントである。

 もっというならば、著者の理論で定率加算を導入するのであれば、同時に夏休み、冬休みのあいだの給与はなくす、というシステムもいれなくてはなるまい。結局、オイシイトコロだけに目がむいて、現実がなにひとつみえなくなっている暴走の結果、というのが本書の実態であろう。新曜社って、もっとまともなところだと思っていたのだけれど。

 授業の評価のくだりなど、定率加算にコジツケたむちゃくちゃでしかない。もしかして、著者はこの部分を書いた後読み直していないのではなかろうか。飛躍てんこもりのめちゃくちゃさである。著者による大学教員の仕事のうち、教育についてはこのような記述がある「日本の大学では、教育的負担は、だいたい誰も同じくらいである」から、「仕事」といっても研究と運営にしぼって議論する、とだけ。所詮、この程度の認識しかないわけだ。大学における教育の重要さ、など、教員のほとんどはろくに考えてなどいない。せいぜいで、「今、自分達はちゃんとやっているぞ」くらいのものだ。自分の認識では「おっけえ」なものだから、他から批判を受けるとおたついて「研究の重要性」とか「大学の自治」にしがみつかなきゃならなくなる。日本の大学で研究が停滞したとすれば、その一番の理由は、この自治であろう。つまり、外部の評価のすべてから耳をふさいで、「研究にもっとお金を! でも中身は理解しないでね」といいつづけていればよかったわけで、これで堕落するなというほうが無理というもの。つまり、研究の停滞は、この「大学改革私論」のようなむちゃくちゃをいいだす人間をパシリとはたきおとすシステムに欠く世界の宿命であったとすらいえるかもしれない。40ちょっとの著者は、紛争の後の大学、めちゃくちゃになった大学が、背負った十字架を、逆に福音と解釈してのうのうと生きていたタイプなのかもしれない。で、あればこそ、大学改革についての一連のピントはずれな発言にも首肯できるというものだ。

 さて、本書には何度もくりかえしでてくる象徴的なフレーズがある。おそらく、著者は無意識のうちにこれらのフレーズを用いているのだと思う。全部で何回でてくるのか、暇をもてあましている方は数えてみてもいいだろう。つまり、これらは著者のいわば、本音、である。それは、大学の教員などやっていると「同期の友人が社会人になったり結婚したりしているのに対する引け目」を感じるとか、「経済的にきつい」といったこと、そして「優秀な友人はみんアメリカにいってしまった」、という三点である。あまったれのひがみ、というのはこのあたりから生じたものだろう。一時期流行したアメリカ礼賛は、アメリカにいって自分の能力で研究を続けていく事に対するあこがれと、でも自分の能力ではアメリカになどいけない現実とのギャップがうみだした妄執であったわけだが、本書は「大学改革」というキーワードに便乗したホシガリのオネダリ本でしかない。

 かんがえてみれば「大学改革私論」とかいうタイトルでありながら、サブタイトルには「研究と人事の停滞をいかに打破するか」となっていて、ここに教育の二文字がはいっていない、ということ自体が雄弁だったのだ。このあたりにだまされて、大学改革についての本だと思って1900円プラス消費税をはらってしまわないように、注意を喚起しておきたい。

1998.06.09.