大学教員の任期制について

 任期制を導入する大学、学部がふえてきている。私立に限らず、国公立にも任期を設定したポストの募集が目立つようになってきた。また、いまだに大学人の間では「任期制反対」の気炎も高い。しかしながら、任期制の導入に反対する流れをみていると、そこには、天野等の指摘してきた「日本の大学教員は自分のことを教育者というよりは研究者だと思っている」という側面が濃厚ににじみでているようにみえる。任期制の「問題」は、端的にいってしまえば雇用が不安定になり、長期的な研究が行いにくくなる、また、それによって研究の活性が低下していくのではないか、というのが建前であろう。当然、その背景には今までの自分達の実に非常識なほど安泰な職業環境が失われるかもしれないという恐怖と無縁ではあるまい。

 大学の教員は、無能であっても、仕事をなにもしなくても、やめさせることができない職である。公務員法に守られ、また、それに準ずる法的背景に守られて、何十年も研究も教育もしない人間でも安泰な職場だ。そして、大学という場所が教育機関である以上、たとえどんなに研究にいそしんだところで学生に対する教育という点で不十分であったり、あるいは、さらにひどく悪影響しかおよぼさないような、いわば、教員としての職分においてまったくの無能であっても、やはり同様に安泰におまんまにありつける職でもある。せいぜいで「昇進できない」くらいがペナルテイの限界であり、そういう人間をやめさせられない、ということが教育環境としてどれほどの問題であるか、ということにもなる。民間企業であれば、十分に退職勧告、あるいはクビであろうような状況でも、のうのうとしがみついていられる職場であることは、例に限りがない。

 任期制は、少なくともそのような「既得権」の剥奪という点において、大学の環境を改善する一助となるものだ。もちろん、反論は容易に予測できる。いわく、既存のポストには適用されないから無意味、いわく、だめ教授には適用されずに若者にだけ適用されるから無意味などなど。しかし、少し考えてみれば、これらの反論は単に近視眼的な蒙昧によるものであることはすぐにわかる。一年二年ではなく、十年で考えなくてはならないのだ。任期制が次第にであれ浸透していくことによって、若手ポストの回転はよくなる。それは、本来ならば若手の研究・教育のスタートでもある助手というポジションが、「無能だけどやめさせられないから」占有される、ということが次第になくなっていくことを意味している。年長のダメ人間はやめさせられない、というが、それらは次第に定年でどのみちいなくなっていくのだ。いなくなった後、一部であれ任期制というものが具体的に視野に入っている世界で、従来のような情実人事は少なくとも同様には生じ難いと考えて良い。

 大学人は「研究者」である以前に「教育者」であることを忘れてはならないのだが、実際には忘れている人間のほうが多い。事実、某公立大学ではその結果、過去数年の間に某学科に採用された「助手」は、単なる大学院の延長気分からぬけきらぬまま、ちょっととうのたった学生と化している。

  アメリカのような、教育者評価や大学評価のシステムのない日本で、それでもできるだけ教育環境をととのえようと思ったら、馬鹿にでもわかるところからはじめるより他はない。そうでないと、危機や問題の存在自体が理解されないからだ。現に、学生を虐げ、その人生をふみにじる教員の自覚は「自分はちゃんと教育をおこなっている。あれは学生のほうが悪いんだ」にとどまるものだ。わけのわからない人間は、わけのわからないままにほうりだすより仕方がない。理解などのぞむべくもないほど、爛れているのが大学自治の現実である。

 もちろん、任期制だけでは足りない、ということはある。セットにすべきアイデアは少なくともあと二つ。一つは、定年のひきさげであり、一定期間だけ有効の時限立法でよいから、定年を50歳程度にひきさげてしまう、というアイデア。これは、紛争世代、団塊世代による不当なポジションの占有を一旦はきだすためのものだ。そして、人事の外部委託が第三のアイデアとなる。学内で人事をすすめるということは、子供が子供を産むようなもので、結局のところ健全とはかけはなれたものになりがちである。学内の人間には教育という概念がほとんどないのだからこれは仕方がない。だとすれば、マネージメント自体を自治による「ごっこあそび」ではなく、プロに委託してしまう、というのがドラスティックな健全化への一歩たりえよう。

 ここでも既得権にしがみつくダイガクジンの抵抗が目にみえるようではあるけれど。

1998.06.05