教員の人事

 任期制について、という文をだしたら、私が「任期制を導入すれば大学の教育はよくなる」と考えている、と読んだ人がいたらしい。こういう読まれ方をしてしまうとちょっと困ってしまうが、大学の教員人事について考えていることをもう少しまとめておこうと思う。

 教員が教員を採用するからだめだ、という視点は特に新しいものではないが、ではどうするのか、というところが問題となってくる。教員から人事権を奪うとすると、今の大学にはあとは事務職員と学生しか残らない。では、そちらで人事をまかせればいいのか、というとやはりバランスが悪い、ということになる。教員人事を大学の外に出してしまうことができればもしかするとある種の理想形態には近づくかもしれないし、教員の募集そのものを市場として成立させてはどうか、というアイデアだってそんなに新しいものではない。ただ、どのみちそれ相応のプロフェッショナルな組織をつくらなくてはならない、というところに、いますぐ、という問題には対処できない欠陥がある。民間企業から教員を募集する、というスタイルは浸透しつつあるので、そのあたりから人事組織の発生を考える、というのはそれほど期待のできないはなしではないかもしれないけれど。

 現実的には、現状ではコネと研究業績と、というのが教員人事のパラメーターである。中には、自分の研究室のボスとなる人間を決める人事で、自分のきて欲しい人間が有利になるように、その部屋の助手が対立候補の心証が悪くなるようなプライベートなネタをひろめる、といったどろどろした例まであるほどに、コネというのは幅をきかせているし、コネが期待できない場合には研究業績だけしか相手を評価する要因がない、からだ。特に教育面については業績として自明なものがないわけで、純粋に「あの人ならたぶん」という心証とコネで評価されてしまっているといえる。その結果、とってみたら話が違った、こんな人だったとは、という「失敗例」もいろいろとでてくるわけだが、採用された時点で教員の立場は守られるので後のまつり、ということになる。「あの人がいい」と大騒ぎして、でもとってみたら計算が違ったために、自分が出ていってしまった、といったことにもなったりする。

 結局、採用の判断に対して責任をとるべき立場というものがないからいけないのではないか。講座制、研究室制の場合には人事自体がその講座・研究室のプライベートなもので、他の構成員は承認するだけ、ということもあるのだから、教員の評価システムと連動する責任発生システム、というものがあってよい。業績、教育についての教員評価の結果によっては当人の扱いだけでなく、採用責任者の扱いにも影響がでる、というかたちにする。そのかわり、その責任の範囲においては専攻についての自由度が保障される、という具合である。極端なはなし、連帯責任で両方ともクビ、ということだってあってよいし、そこまでの可能性が示されていれば自由とはいえ選考作業をいいかげんにするわけにもいかなくなる。

 問題は、教員評価のシステムがきちんと働いている必要があることと、現状の強力で安泰な雇用形態をみなおす必要があること、だろうか。人事だけでなく、大学にまつわる様々な問題は部分の改定でひとつづつ改善できるものではなく、大学のシステム自体が一度に大きく変わらないと効率良く改善されないようなところがあるように思う。だからこそ、なにもかわらない、のかもしれないけれど。

1998.06.24.