学習困難児と教育、そして教育困難教師

 岡山での集まりで学習困難な児童が問題になった、と報道された。ようするに、小学生が好き勝手やるので教師にはおさえつけられなくてこまっちゃった、という愚痴のこぼしあいだったということらしい。テレビカメラを前にして興奮したある教師は「教師だって人間なんだ、つらい時は辛いといってどこが悪い」等と気炎をあげていたけれど、なるほど、こんな奴が教師やっているから子供達は学校をなめてかかるのだな、と深く納得がいった。

 別にどこの学校でもそういう問題がおきているわけではない。事実、うちの子供の通っている学校ではそういう問題はほとんどない。ほとんど、というのは、児童の中にはやはり情動不安定な子もいて、一律型にはめようとするとはみだしてしまう、というあたりまえのことにすぎない部分がある、ということ。学習困難児の問題は、ようするに指導困難教師の量産にある、と思う。たとえば、その不安定な子供を制御できないからといって、そのクラスの担任はクラスの児童たちの前ではっきりと「先生は何々クンをどうしていいかもうわからない」と宣言し、外国に異動した前の担任の名前をあげて、「何々クンにどう接すればいいのか、前の先生にきいてくる」と公言してはばからなかったりする。ようするに、教師が教師としての職にあまえていいかげんになっているのである。子供をなめきっているといってもよい。「教師だって人間なんだ」とわめくより前に、「自分は教師である」ことを自覚してみせて欲しいものである。前の先生はちゃんとクラスをまとめていたのにもかかわらず、自分にはできないのだとすると、その理由がどこにあるのかは、まあ論理的に考えれば明白といえるだろうに。子供達の面前で「先生はどうしたいらいいかわからない」などと公言してしまうのは、もちろん「教師だって辛いときは辛いという権利がある」という発想なのだろうけれど、はっきりいおう、そんな奴は教師の資格なし、やめてしまえ。世の中には、教師としての自覚をもちながらも機会にめぐまれなかったために教師になりなかった人間がたくさんいる。「教師だって人間だ」などという甘えたことしかいえないような手合いに、わざわざ教師を続けていただく必要などどこにもない。子供達のためにもこういう教師には即刻やめていただきたい。

 先日、授業参観と保護者会があるというので小学校に足をはこんだ。月曜の午後、というとんでもない時間にやってへのけたため、自分以外の保護者はすべて母親だった。以前は父親も参加できるように土曜に開催する、という配慮があったはずなのだが、どうも妙な画策があったらしい。授業参観は「体育」で、ゴムボールを使ったバレーボールの試合。教師は体育館の真ん中で定期的に笛をふくだけで、なにひとつ指導もアドバイスもしていない。子供達もボールの打ち方などはまったく教わっていないとのことで、サーブがコートにはいれば点になる、といううにゃうにゃした試合モドキをみせられて参観修了。どうも体育というのはやるのも見るのもつまらないな、というのが感想だが、まあ教師としては参観日にはうってつけの手抜きメニューということだろう。続く保護者会のほうはというと、「今こういう性教育をしています」とかいって、三本のビデオを通してみせられておしまい。特に連絡も討議もなし。ひどいものだ。そのビデオがまたひどくて、内容のいいかげんさと非現実性には辟易。みせてもらってよかったのは、これの間違っているところや足りないところを家庭で補うことができる点、だろうか。生物学的、生理学的なことなど「教育」してもらっても別にどうでもいいことなのだということがよくわかった。

 と、いうのは、隣のクラスの担任(女性)は、こういう「性教育」をしながら、実はクラスの女子のうち、特に発育のよい児童を選んでは目の敵にしていじめまくっている、という現実があるのだ。「オトコノコは胸のおおきくなったオンナノコをいぢめてはいけません。それはマチガッタことです」とかいうビデオをみせて「教育」している教師自身がそうなのだから、「性教育」は確かに必要なのだとは思う。ただし、子供ではなく、「教師に」だけれど。これもまた教育困難教師の典型といえよう。

 学習困難児童というのは、こういう不愉快にも腹立たしいキョーシタチに対する子供のレジスタンスなのではないのか。だめなのは、大学の教員だけではない、というのはなんとも嫌なはなしではある。

1999.01.26