高等教育フォーラムと高等教育の問題について

 「最近は入学してくる新一年生が高校で生物を履修していないことが多いので基礎科目をふやしている」とある私大医歯系の教授が言っていた。そして「東大あたりの先生はいろいろうるさいけれど、高校のせいにしても意味ないしね」と笑った。ここには「東大クラスであれば入学時のハードルを高くすればよいだけのこと、それでも学生をとらざるをえない私学だからこそ問題は深刻」という現実が背景にある。国立大学で、しかも、とりあえず偏差値的には最上位の学生ばかりが入って行く東京大学において「入学生の学力」を云々することのおろかしさと甘え、傲慢、そして教育者としての怠慢というのはきちんと論じられなくてはなるまい。

 高等教育フォーラムでは、あいもかわらず代表の言葉として「高校の授業内容を改善して高校卒業時には必要学力をきちんと身につけられるように」という世迷言が並んでいる。これは、二重の意味で間違っている。第一に、大学の教育を高校の延長としか考えていないという点。たとえなにを高校で学んでこなくても、大学の講義できちんと教えていけばいいのである。また、そうでなくては高等教育の場としての意味などないだろう。受験産業偏差値業界のエスカレーターの最上位に君臨しようなどと大学教員は考えてはならない。場合によっては懇切丁寧に高校でおしえこまれたすべての事実を大学の最初の講義で破壊するくらいの哲学はもって欲しいものだ。さらに、高校進学率がほぼ100%になんなんとしている現実から目をそらしているという点。18歳人口のほとんどといってよい割合が高等学校にいるのである。それに対して一律に要求水準を満たすけなどという幻想は一時の「新教育」の大失敗の恥の上塗りにしかなるまい。もしかして「大学が要求する基礎教養としての理科はホモサピエンスであれば誰でも当然理解できてしかるべきものだ」などと考えているのではあるまいに。ゆがんだプライドと選民意識が理系の教官の一部の世代には蔓延しているが、これなどはその最たるものだろう。「きちんと教えて学生がちゃん努力すれば誰でも100点はとれるし誰でも東大にはいける」という発想の双子の兄弟のようなものだ。

 こんなことよりも高等学校における理科教育でできること、すべきことはいくらでもある。たとえば、科学的な思考法や科学的なるものに対する好奇心を育て上げることとか。「おもしろい」と思う心の働きを大切にすることとか。事実、大学における生物学の講義・実習における学生の成績は高校での生物の履修状況や成績とはまったく相関がない。あるいは、文系学部で生物を選択するような学生ではかえって高校で履修してこなかった学生のほうがレベルが高い、ということもある。これもまた受験の弊害である。だきあわせで嫌いな科目や苦手な科目を強制されるくらいならば理系進学をあきらめよう、といういわば「隠れ理系」、「ころび理系」が文系にはいるからだ。つまり、「理系のおもしろさは誰にでも共有できるものだ」という幻想を教員が持つと、こういう「ころび」の心理すらも理解できなくなる、ということでもある。もっといってしまえば、理系の教員の中のはたしてどれくらいの割合の人間が自分の研究をこころから「おもしろい」と思っているのか、という問いかけにもなるかもしれない。事実、駒場あたりですら、「成果が短期間ででること」ばかりに腐心するあげく、大学院生を大量に受け入れ、放置し、端から捨てて行く、という心無い研究室がある。学生の使い捨て、ブロイラー状態である。高等教育フォーラムの「おひざもと」ですらこうなのだから、あとは推して知るべし、か。

 さらに、18歳人口の新入生における割合の低下、ということもある。高校のカリキュラムを改善すればいい、という議論の根底には新入生は当然の事実としてみーんな18歳、という強い思い込みがあるわけで、それが、現代の日本においてはたんなる勘違い、事実とはことなる思い込みである、ということは少なくとも大学人だけは自覚しなくてはならない類のものだ。

 と、いうわけで「高等教育フォーラム」の論点のおかしさを整理すると次のようなことになろう。

・大学での理系科目の独自性を忘却し、高校の延長であるかのようにふるまっている
 これは、高等教育というものの本分を忘れてカリキュラム的な手抜きにはしった結果である。この分ではそのうち文部省は、大学で教えるべき理系科目内容などというものまで策定しなくてはならなくなるだろう。

・高等学校への進学率を軽視している
 もちろん、東大の教員にとっては新入生というものは駒場にくる学生だけ、なのだろうけれど、こういう体系的な議論をおこないたければ目を学外にもむけねばならない。ローカルに、自分のところの学生が自分の美的センスに適合しないからといって学生の家庭環境や文部省のカリキュラムのせいにするのは単なる無責任な責任転嫁にすぎない。

・18歳人口の減少とリカレント入学の割合増を軽視している
 今後、どんどん割合がふえていくものにリカレント入学がある。つまり、「過去の高校教育」をベースに、しかも、高校卒業後何年も経過した人間が入学してくることになる。最初の項目とも重なるが、大学はそれまでの教育とは独立した、独自の知と哲学の体系を教授すべきなのであり、中等教育に依存したり罪をなすりつけたり、という見苦しいまねをさらしてはならない。

 高等教育フォーラム松田代表はアメリカをひきあいにだしては、「できない学生の補習なんかボランティアでできるもんか」とうそぶくが、しかし、アメリカでは大学教員の給料は純粋に「教育行為」に対するものであり、授業のない大学の休みの期間の分の給料はでないのだ、という事実はちゃんとふまえるべきだろう。「駒場の先生は町中で学生と出会って、学生が挨拶をしても無視する。後日、その先生にどうして無視したのか、と学生が尋ねたら、自分は研究の合間にしかたなくきみたちに講義をしているだけなのだから、大学の外で知り合いづらされるのは迷惑である、といわれた」という有名な話がある。しかし、この「先生」は、少なくとも自分の給料が「学生への授業」に対して支払われていることを知っていた、という点でこの高等教育フォーラムの代表達よりも数段ましといえよう。もっともたちが悪いのは研究者きどりの教員、ということだ。

 ようするに、現在の高等教育フォーラムは、「文部省が全部悪い、あの敵とたたかうぞ、おぉ!」という傾向のメッセージにだけ代表者グループからの返事が返ってきて、「大学のあり方、大学教員の教育者としての自覚と責任感をめばえさせることが大事」という内容の発言は代表者グループからはあざとく無視される、いわば一部の教員達が公共性をよそおって自分たちの無責任をエクスキューズするための場所になりさがっているのである。これでは、まったく無関係な「高等教育ML」の活動をおとしめるための悪意によって設立されたフォーラムと受け取られても仕方があるまい。

 そういえば、先に私宛にくだらない「ネチケットのはきちがえ」指摘をしてなんだか「苦言を呈し」てきた水沢氏もこのフォーラムでは元気である。

1998.10.26