高等教育フォーラムに関するはなしの続き

 フォーラム内でのメッセージのやりとりもはじめてみている。ただ、なんというか、頭ごなしな展開が過去にも多かったようで、どうなることやら、というところ。登録されているこれまでのメッセージを通して読んでみても、大学の教育をこそかえなくてはならないのではないか、という主張はフォーラムのメンバーからはあからさまに無視される傾向もある(60以上のメッセージを整理してみればすぐにわかることだ)。私のメッセージも、「メンバー」のやり方、考え方を手放しでもちあげるものではない以上、そのうち、何を書いても反応はかえってこない、ということになるのだろうと思う。

 メンバーの言動をみていると、入試を軸とした大学進学の現状が高等学校のカリキュラムを支配している、ということを認めたがらない、とか、自分の見解にあわないとけったいなレッテル貼りをしてでも相手の意見の力を減じようとする、とか、実に幼稚な態度も目につく。幼稚といえば、ばかばかしい「敵」意識などをもちだしているメンバーもいる。フォーラムメンバーである正木東大助教授によると「現場教師の話を抜きに」まとめると「敵が最も喜ぶ」のだそうだ。しかも、その「敵」については「敵が何であるのかを分析するのもひとつの分析手段かもしれません」などとしゃあしゃあといってのけている。「分析すること」が「分析手段」というのもなんともいえぬほどに微笑ましいが、分析の必要な程度の認識の「敵」が、それでも事実として想定されているあたりが、一種被害妄想的な、あるいは学生紛争時の思想カブレ的な不健全さを思わせて不快である。

 このフォーラムの運営にあたってのメンバーの原体験のようなところに、おそらくは問題があるのだろう。たとえば代表の松田氏によるメッセージなど、客観的にみれば質の悪いギャグにしかみえないのだが、メンバー間では、それなりに重要な意味を持つらしい。おそらくは、あまりにばかばかしいので掲示板に参加している他の方々は相手にしていないのだろうけれど、放置しておいても間違った観念が流布されるだけだし、あえてここでとりあげることで泥でもかぶっておこうかと思う。


 いわく、学生が自転車を止める場所がおかしい、注意してもいうことをきかない、自分の東大助教授という肩書きを伝えたら言うことをきいたおーまいがっ。
 いわく、ついでに他の自転車もかたづけろといったのにいうことをきこうとしない。ひとのために役に立ちたくないのか、と言ったらしぶしぶいうことをきいた。おーまいがっ。
 いわく、学生がビーカーの口を上にむけたまま乾かそうとした。たずねたら、家で食器を洗ったことがないという。おーまいがっ。
 いわく、研究室が汚いので掃除をしていた。そうしたら学生がきて「なにか手伝いましょうか」ときいてきた。おーまいがっ。

 

 こんな調子である(嘘だと思われる方、まさか東大の先生がそんな間抜けなことをいうはずがない、と思う方はこちらで御確認を)。自転車についていえば、自分の自転車をきちんと止めなかったのはその学生が悪かろう。しかし、「世界をよくするため」などという口実で、他人の自転車を移動させようと強いたこの自称「労務者風情の」「助教授」は一体何様のつもりなのだろうか。教師気取りをしたがるある世代に特有の鼻につくこの態度。聖職者といってもこの程度、ということか。小声で「おーまいがっ」とつぶやくことで、なにがしかの気取りが完成するのだろうけれど、なんというか、実にあさましく、なさけない「気取り」である。そもそも、身分不詳のあやしげな「労務者」のいうことをなんでもすなおにほいほいと言うことをきくような学生であれば、こんどは「最近の学生は主体性がない」というそしりを受けるのだろう。ようするに、どうころんでも学生は「問題」ということになる構図、実に、ばかばかしい。

 しかし、この「ばかばかしさ」がここでは「東京大学の背負う十字架の重さ」にされている。なんという奇怪なる曲解。こういうばかばかしさをさも大事件のような騒ぎ立てる教員がいる、という事実こそは「東京大学の背負う十字架の重さ」かもしれない。つまり、採用したことの責任、という意味では、だが。大体、これではギリシア時代から年寄りが好む「最近のわかいものは」でしかない

 一部引用してみよう。

 学生はようやくもう1台の自転車も移動し始めた。 一見、良家のお坊っちゃん風のこの学生には労務者風情の男の言うことなど意に介さない。 教官と聞いて顔色を変えてその場をつくろう。 他人のことを省みないのは、この学生が勉強だけ出来れば満足する親のもとで育てられたためか。 身分不詳の怪しい人間には冷たく当たり、先生にはパブロフの犬のごとく良い子面する。 何たることか? 大学教育以前の何かが決定的に欠けているとしか思えない。。

 すさまじい表現のオンパレードに辟易するほどだ(つけくわえるならば日本語もおかしい)。「良家のお坊っちゃん」、「労務者風情」、「身分不詳の怪しい人間」・・・どこの誰ともわからぬ男にいきなり偉そうに命令されたら、拒絶するのは正しい反応である。この場合「命令」に「いやです」と断った学生の態度は、(最初に自転車を止めた位置はともかく)正しいといえる。また、このうさんくさい相手が自分の大学の助教授であることを知った時点でしぶしぶいうことを聞くのも仕方がないだろう。なにしろ、相手はちょっとイッチャッタ趣のある助教授である(世界をよくしたくないのか、などとよくぞいえたものだ)。何がきっかけになって自分の単位が危なくなるかわからないし、それこそ進振りの点を0.1点どこかでいじられて人生棒にふるかもわからないのだから。それよりも危険なのは、氏が自分の「東大助教授」という肩書きを示した後に学生がいうことをきいた、という局面を「パブロフの犬のごとく良い子面する」などと表現するこのセンスである。嫌々、しぶしぶいうことをきいたとは夢にもおもっていないのだろうか。労務者風情イコール身分不詳の怪しい人間という思考短絡回路を持つこの「ジョキョウジュ」の頭の中には、「センセイ」についての幻想とケンイや「職業」に関する奇天烈な差別意識が轟々とうずまいている。ある人間はこの氏のメッセージを見て、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」みたいだ、と評した。たしかに、その偏った決め付け、ナルシスト的な陶酔、ゆがんだ権威権力志向、どれをとっても実に良く似ている。

 (この先生、後の週刊朝日のインタビューでも「親の財力にモノいわせた学生が増えた」とかいろいろ「過激(記者による表現)」なことを言っており、「オヤ」と「カネ」に奇天烈なこだわり、執着がある、というのは事実のようである)

 それは、「労務者風情の男のいうことなど」とか、「身分不詳の怪しい人間」という言葉に実に象徴的なのだが、彼の頭の中には労働形態についての差別意識が厳然としている。さらにいうならば、おそらくはこれは本人の父性に対するコンプレックス、あるいは欠損に対する恐怖心に由来するのだろう。氏はおそらくは無意識的に「親」にかかわる奇妙なこだわりを随所に出す僻がある。このメッセージだけでもその様子は臭いたっているが、たとえば「他人のことを省みないのは、この学生が勉強だけ出来れば満足する親のもとで育てられたためか」などの過度な妄想と決め付けにも顕著にみてとることができよう。どうやら「良家のおぼっちゃん」に対してなみなみならぬコンプレックスがおありらしい。それこそ、彼の論理展開では、氏自身の家庭環境たるや一体いかなるものだったのか、ということにもなろう。「労務者」、「身分不詳」などといった激しい表現もそのコンプレックスの裏返しということなのだろう。と、すると、「小声で」つぶやくキメゼリフが「Oh my god!」である、というのもなにがしか氏の内面に由来するコンプレックスの発露なのだろう。ひどく見苦しいはなしだが。

 駒場キャンパスの寮とりこわし騒ぎの時に、騒ぐ女子学生が現場で新棟建設に従事している人達にむかって「そこの日雇いのオッチャン、おまえらにも家族はいるだろう」とアジッたという下品な話を想起させるという点で、このエピソードは重い。現場の責任者は、この学生の非常識な言葉に怒り、抗議に出た。さて、この氏の発言と、この学生アジとを比べると、それが、「教育」のみせかけをかぶっているという点で氏の発言のほうが問題は大きい。自分が何を書いているのか自覚しているのだろうか。学寮さわぎで氏がアジる側にいなかったことを信じたいものだが・・・ もっとも、この女子学生がこういう差別的なアジを行った背景にはこういった身も蓋もないジョキョウジュによる「教育」という背景があったということか。


 繰り返すが、氏は、自分の発言が強く差別的なものであることを自覚しているのだろうか。問題発言である、ということを。

 大学改革は、もしかすると、こういう人間が、しかし大学の先生になってしまった悲しむべき現実を、教員の精神を治療することによってなんとか修正していく、という側面を持つのかもしれない。それにしても、こうして心理治療の素材にされる学生こそいい迷惑なのだが・・・

(補遺)

 その後、立花隆のページや、そこにおかれている松田高等教育フォーラム代表の文章なども目をとおした結果、およその流れがみえてきた。おそらく、この「フォーラム」は立花氏の「知的亡国論」に目からうろこがおちた松田氏が、持ち前の活動力で人集めをしてつくりあげたものなのだろう。フォーラムの主張の要所要所に立花氏の表現をそのまま借用してきたような部分が散見されるのもこれで説明がつく。また、松田氏が実際には「権威」や「知名度」、「有名人」に弱い性質の人であろうことも「労務者風情」等の暴言からみてとることができることを考えると、著名人である立花氏の活動にどこかでシンクロしてしまったとしてもなんら不思議はない。

 その際に、知的亡国論そのものについての理解などは関係なく、松田氏らが日常的に感じている不満不平が代弁されればそれでよかったのだ、とすれば、高等教育フォーラムの掲示板において、メンバーの主張にとって都合の悪い発言は無視されるとか、「12点」や「おーまいがっ」程度で「高校教育の問題」の実在を論証したつもりになっていられる安易さにも説明がつく。

 事実、「平均点で12点の差」にしても、その際に講義の方針と内容はどのようなもので、さらにどのような試験を行った結果ついた12点なのか、ということを明示しないと、これが高校の教育のせいかどうかはにわかには論証しがたいわけで、たとえば、教員が全員、高校の生物を前提としたつめこみがたの暗記授業をしていた、とすれば、ここで差がつくのは当然、ということだ。もちろん、リベラルアーツを視野にいれた立花氏の「知的亡国論」は本当はそういうつめこみ教育を大学で行うことをも含めて「亡国」と指摘しているわけだが。

 学生の質が悪くなった、というのも同様である。最近の学生は、という年寄りのグチにみせかけの経典を与えた、という点では立花氏も罪なことをしたものだ。

 医学教育については、東大の理三も含めて、「基礎教育は受けていて、試験の成績もいい」けれど、人間性の面で問題のある医者が量産されている、ということが実際には問題視されている。それは、東大の場合でいえば、進振り等によって教養部が教育というたてまえで学内における受験競争を助長していることと無縁ではあるまい。しかし、名乗りもしない見ず知らずの男に突然偉そうに命令された時に「いやです」と拒絶できるような人間がいるのならば、まだ希望はもてる。逆に、こういう無礼な人間が「教養」を教育している、という現実は暗澹たるものだ。

 その学生に「あなたは誰ですか」ときかれた時に、松田氏は「ここの大学の助教授だ」とこたえたという。どうして、ここの教員で松田というものだ、といえなかったのか。どうして、名前ではなくカタガキをなのったのか。ここにこそ下品なケンイシュギが潜んでいる。「イイコブル」というえぐい言葉の遣い方にもあらわれているこの下品なケンイシュギは、カリスマ大好きな軽薄さとも無縁ではないし、小声で「おーまいがっ」とつぶやいてみせるこれみよがしな気取りとも同質のものだ。

 松田氏は自分の「ジョキョウジュ」の権威の前に無礼な学生をひれふさせて御満悦なわけだが、「パブロフの犬」は自らすすんで快楽をえようとして舌をだすのではなく、それまでの「教育」の結果、意識の介在する余地もなく身体が反応してしまう状況をいうことくらいは生物学者たる氏も御存じのはずである。だとすると、松田氏のいうように学生は「パブロフの犬」のように反応したとしてもそれをもって「いいこぶる」などという言葉を併置するのはお門違いである(なるほど、こういう答えを書けば試験での12点差くらいはつくかもしれないが)し、それは教員が学生にそのようなストレスをかけつづけているための結果であるということでもある。そして、さらにいうならば、「あなたは誰か」ときかれて個人としての名を名乗ることができずにカタガキを答えてしまった松田氏の反応こそが「パブロフの犬」のそれであり、松田氏は「自分がどうしてそうこたえてしまったのか」を少し考えてみてはどうか、と提言しておこう。

(さらに補足)

 この後、「細胞バンクの水沢」と名乗る「都立大学の卒業生」からメイルがきた。いわく、この該当「Oh My Gods!」でいいたいことは「自分が東大の先生であることをとやかく言っているのでは無く」「偉くなさそうな人には居丈高に出て、権力のある先生だとわかったとたんに卑屈になる態度に問題があることを指摘しているだけ」だという。「細胞バンクの水沢」氏の読解力に注目したいところである。「何故ですか」とか「嫌です」と返事することが氏によると「居丈高」ということらしいけれど、「居丈高」というのはどう考えてもこの場合は「おいおい」とか「何を言ってるんだ」とか「ついでに」などと頭ごなしに学生に命令した松田助教授の方だろうし(水沢氏の世界では「居丈高」の意味合いが違うのだろう)、「卑屈になる態度」というのもどう考えてもその命令した人間(と「細胞バンクの水沢」氏)による一方的な憶測・あるいは妄想でしかないわけで、ピントの外れかたもはなはだしい。しかも、さらに「相手の名前を出して」「個人攻撃している」から「ネチケット違反」であり、「対象の品位より書かれた本人の品位が疑われてしまう」ことを「心配して」いるとある。私の「品位が疑われる」ことを心配してくださるのはありがたいのだが、しかしもともとの掲示自体が記名による、しかも東京大学のwebサイトの一角におかれた「高等教育」を考えるフォーラムの代表者発言である以上、発言した者はその内容に対しては批判や攻撃を受けることがありうることくらいは発言者の責任としての了解事項であるべきだし、こちらとしても、それについてはもともと「そのつもりでいる」こと、つまり、私の「品位」云々についても、そういう受け手がいるだろうことはあたりまえのように覚悟の上であることを伝えたわけだが、そのあとのやりとりが傑作なものだった。相手は「ネチケット違反(?)」であることを私にたたきこみ、私が頭を下げて「すいませんでした」の一言でも言い、そしてこのページを削除でもすることを期待していたらしく、発言者の責任も、こちらの覚悟もお気に召さず、「都立大学のwebマスターへ苦言を」呈したのである。結局、まあ学内のごちゃごちゃもあったけれど結局「個人の問題」ということに落ち着いたわけだが。

 いや、そもそもが私の「品位」の問題だというのならばその時点で「細胞バンクの水沢」氏の物言い自体がおかどちがいな余計なお世話にすぎないし、逆にそれが無関係な氏が口出しせねばならないほどだというならば「私と松田氏の関係」の問題である、ということだし(いや、「松田氏と水沢氏のカンケイ」の問題ということか)、うーむ、なんというか、これっぽっちの短い文章の中にこんなにも自己矛盾がもりこまれているというのは…理系研究者の国語力の問題、ということなんだろうかね。それこそ「高等教育フォーラム」で扱うべきことかもしれない。ああ、でも彼らだと「高校の国語教育」のせいにしてしまっておわり、だから無意味、か。受験科目に国語があってもこのていたらくだし、それに、この「細胞バンクの水沢」氏はそれなりのカタガキをもつヒトらしい、し…世も末という奴か。

 それにしても、自分に都合の悪い批判をこうやってひとつひとつ「サイト管理者」にチクることで封印していこうという実に「ミンシュテキ」なやり口ってある世代の特色なのだろうか。この他にもいくつもみたことがあるがなべてみな見苦しいというのは象徴的である。ようするに「セキニン」が嫌いな人たちなのだ。

 おもしろいのは、あたかも私の品位を心配するような言い方をしながら、実はまったく違う反応を私に期待していたというところである。ようは、偉そうに他人の頭をおさえつけたかった、というわけで、これは、パソコン通信なんかでも「善意ぶって実は相手にでかい顔をしたいだけ」とか「自称だけ論客・自称だけ過激な人」のタイプなんかにはよくみられた典型なもの。いわゆる「権力を履き違えた増長」である。ニヤリとする人も多いかとはおもうが、この場合は本質的に「おもしろい」のはそこですらない。このコーナー以外にも対象名を明示した批判文はいくつもあるわけだけれど、ここに「だけ」反応した、という点が「ネチケット」をよそおいながらも、おそらくは批判対象となっている人物との一種の心情的な癒着がもたらした「さわやか」で「ないぃぶ」な友情の発露でしかなかったことを示しているのだ。つまり、「オトモダチ」の「善意と正義」のもたらした珍事であったということである。仲間意識の根強さとでもいうべきなのかな、こーゆーのも。水沢氏によると「彼の名誉のために若干意見を言わせて頂きました.彼は口はめちゃくちゃ悪いから、敵をたくさん作るタイプだと思いますが、それほど悪い人間では無いと思いますのでよろしく.」ということにされちゃうわけだが、「口が悪い」というのはこういうものをいうのではない。Oh My God!という記事の記述は「口が悪い」のではなく、「思想・基本的な考え方が問題」なのである。「身分不詳の労務者風情」や「パブロフの犬のようにいいこぶる」という表現は「口が悪い」のではなく、そのような発想にいたったこと事態が問題だ、ということだ。丁寧にいおうが美しくごまかそうが、差別的思想は差別的思想であるわけで、「良い・悪い」に還元しようとするその性根が見苦しい。もちろん、松田氏が「悪い人間」であるとはこちらは思っても見なかったが(そもそも「良い人間・悪い人間」という分け方自体、驚くべき傲慢さに基づくものだろう)、彼が「敵をたくさんつくる」のだとすれば、それは彼の「口の悪さ」ではなく、おそらくは思慮の浅さによるものだ。

ちなみに、「細胞バンクの水沢」氏からのメイルから抜粋するとこんな感じだった。

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私は、松田氏と貴兄との関係についてはとやかく言うものではありません.

インターネット上での個人攻撃はネチケットに違反する行為では無いかとい
うことを申し上げているつもりです.しかも、そうした行為は、相手の品位
では無く御自身の品位を貶めている結果となっているというのが私の感想で
す.
私の所属する研究所においてもホームページ上で個人攻撃をするような「ネ
チケット違反」は不文律ながら禁じておりまして、どこのサーバーでも文書
化しているか否かは別として類似の倫理原則を持っていると思います.貴兄
の該当個所の文章は明らかにそれに違反しているものと思います.
私も同じ大学を卒業したものとして、容認できないものであると思いますの
で、都立大のサーバー管理者に対して苦言を呈するつもりです.
なお、この苦言はあくまでも個人攻撃をしている点についてのみに限定する
もので、他の部分については一切触れるつもりはありません.
なお、松田氏本人にも貴サイトを直接見るよう伝えるつもりです.
水沢
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 このあと、こちらの書いたものの引用がえんえんとだらだらと続く。これだけですでに「メイルの出し方」という「ネチケット」にふれちゃっているのではないか、というほどの分量である。やれやれ。このあと、水沢氏は「研究問題ML」も突然退会してしまってどこかに閉じこもってしまった。こちらとしては、公道でいきなり飼い主がちゃんとつないでおかなかった狂犬にほえつかれたようなものだ。自分のところの「不文律」を「どこのサーバーでも」「持っていると思い」それに「明らかに」違反している、というこの破綻した論理展開。自分のところですら明文化されていないものが「どこでも」そうであると勝手に憶測して、その妄想に照らして「明らか」というのだから根拠も論拠も論理もへったくれもない。自分で「不文律」といっているのだから、そんなものは自分の精神世界の中での限られた現実、つまり妄想でしかないと自分で明かしているようなものだ。それが「どこでも」に一般化されるあたりがおばかのおばかたるゆえん、だろう。掲示板での喧嘩なんかによくいるタイプである。ようするに、ネチケットのなんたるかもしらない人間のわがままな思い込みと妄想のかたまりというわけだ。なんか、同じ大学を卒業している自分が恥ずかしくなってきた。御自身の品位、というのも意味不明である。もし私がこれによって自分の品位をおとしたというのであれば、つまり、彼のいうところのネチケット違反の代償を私はすでに自分の名と品位において支払っていることになるのだが。「苦言」を呈したい、ということは、この品位自体にはなんの意味もなかった、ということなのだろう。まあ、こういう相手に論理を期待しても無駄なのかもしれない。最後の一文もいい味だしているし。

 でも、一言で言うとやっぱりこれは筋違いな余計なお世話、でしかない。まったく、何様のつもりでいらっしゃるのやら。

 ちなみに「細胞バンクの水沢」というのは文字どおり、細胞バンクのサーバーを管理している室長様である、らしい。サーバー管理者が「ネチケット」についてこの程度の理解しかもっていない、という現実は驚嘆すべきものだ。もちろん、このどこかおかしな「水沢流ネチケット」についての記載などもちろん細胞バンクのwebのどこにも存在しない。従って、細胞バンクのwebサイトを利用する人はこの「不文律」に気をつけないといつなんどき自分の所属している組織におかしな「苦言」がとんでくるかわからない、というけったいな覚悟が必要、ということだろう。なんだかなあ。

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