高等教育フォーラムの活動を見て

 以前から気になっていた活動であったのだが、気になっている、といっても気がかり、のほうであった。「理科教育が危ない」という文庫も最近でたが、そして、中村桂子などは随分前から「理系離れ」に対する危機意識を露骨にあらわにしていたが、それらに接すれば接するほど、一種のとてつもない間の悪さと理系の思い上がりを感じたものだ。いわれていることは単純だ。戦後の日本をここまで成り上がらせたのは科学技術であるのに、それを志す若者が減るなんてなんて嘆かわしい、亡国だ憂国だ、というものだ。理系の人間にとっては、自分達の業界の維持という点で大切なことではあろうけれど、いうまでもなく、この視点は公平にみてもとんでもなく偏っているものである。理系の学生が減ると国が滅びるといわんばかりのこの「危機意識」の正体は何か、私としてはそのほうに興味がある。文系対理系、のような、あるいは理系の陥りがちな、自己中心的世界像、馬鹿素朴実在論といった部分の問題の気配を感じる、ということはある。「高等教育フォーラム」といいながら、内容は高等教育ではなく、高等学校での教育についてであるあたりも、なんというか、あぶないうさんくささを感じてしまう。タイトルだけでは、高等教育について研究するフォーラムにみえてしまう。これでは看板に偽りという感じだ。(最も、大学の教員で「高等教育」という言葉を正しく知っている人間などほんの数えるほどしかいない、というのも哀しい現実ではあるけれど)

 この、理系が危ないテーゼ群、最近は、ちょっと姿をかえて多少のバリエーションをもつようになってきた。それが、生物を高校でちゃんと教わっていないのに医学部にくるような学生が増えた、というような論点である。ようするに、高校の教育課程に不備があって、そのために大学での教育に圧迫がかかっている、というものだ。対策として、高校教育の見直し、カリキュラムに理科系科目の体験的なものを増強し、大学に入る前にちゃんと理系に「いきたくなるような」状態にしておくようにしよう、ということがいわれている。こんなの、高校にしてみれば、「それでちゃんと大学に合格できるならね」というところだろう。何故か、こういう時のダイガクジンは入試のシステムや問題をつくっているのも自分達である、ということを簡単に忘れてしまうらしい。仮想敵としての「モンブショー」を想定できちゃったら後は目をつぶって驀進、という体である。大学として、受験に必要な教育はすべて塾でまかなえ、高校は進学に関係のない「余裕」と「興味」と「好奇心」を受け持て、というのでもなければ、こんな論点にはならないだろうに。まあ、大学改革MLなんかをみていても、とにかくこじつけてでも文部省を批判さえしていれば気持ちは満足、という「自称教育者」はダイガクジンには数多く蔓延していることはみてとれるが。

 だが、ここにはさらにもっと大きなゆがみがある。それは、こういう展開自体が暗黙のうちに「大学は高校を卒業し、相応の教育を受けてやる気もある若者がくるところである」という前提をつくっている、ということだ。10年前ならばいざしらず、冬の時代、とも大衆化、ともいわれる改革のさけばれる今、これはあまりに時代錯誤もはだはだしい前提である。学生がいわゆる18歳人口以外から広く受け入れられていき、また、18歳人口にしても、専門を志す向学の目的意識に燃えた若者ばかりがくるのではなくなっている以上、学生に対して一律に「新鮮な高校教育」を望むのも間違いなのだ。これは、「教育」を気にしているような活動をするダイガクジンですら(こそ、ではないと信じたいものだ)、自分達が受けもっているはずの「教育」についてあまりにもナチュラルに無自覚であることのひとつの証しというところだろう。リカレントで入学して来た学生が、「ちゃんとした生物教育」を高校で受けていれば「おっけぇ」なのだろうか。それが、30年前のことであっても? ようするに、非現実的な前提の上に抽象化されて得体の知れないものと化した「現実モドキ」をつみあげているようにみえる、ということである。

 いや、大きくゆずって、今の大学はとりあえず18歳人口以外に対してはほとんど門戸をひらいていないという事実から(こんな「事実」がいつまでも続いてもらっては困るし、どのみち、どうがんばっても続くわけもないのだが)、高校教育を受けたばかりの学生だけがきている、としたとしても、受けた教育がそのまま学生の内面に期待できるなどということを素朴に信じているとすればそれはただの教育しらずのばかというものだろう。ある大学で、一年生の生物学実習に際して、学生からアンケートをとった。それは、いままで高校で生物学の授業を受けたかどうか、という問いと、細胞の構造を図示(核、ミトコンドリアなど)してみなさい、という問題であったのだが、結果として、きちんと細胞の図をかくことのできる学生と、高校で受けた教育とは相関はまったくなかった。生物を高校で教わっていても細胞を知らない、というところだけがとりあげられると冒頭のような見解にたどりつく。しかし、まがりなりにも学者であれば、ここでは高校で生物学を受けていなくても、きちんと細胞を知っている、というところにも適切に意識をむけなくてはならない。この場合、全くなにもわかっていないけれど、高校三年まで生物をやってきた、というののひどさと、全然生物学を受けていないけれど、実に詳細に図示してみせた学生とのひらきは劇的であった。さて、同様の件についてふれている「高等教育フォーラム」ページ、松田氏の発言を引用すると以下のようなことになっている。

 私の所属する東京大学教養学部生物部会では、理科II類(主に生命科学系学部に進学する)と理科III類(医学部に進学する)に在籍する学生517人を対象に、大学での必修科目「生命科学基礎 I」の夏学期の成績と、高校時代における生物の履修の有無との相関を調べた。その結果、受験で生物を選択しなかった学生集団のうち、高校で生物を履修した学生(主に旧学習指導要領で育った浪人生)と履修しなかった学生(主に新しい理科2科目選択制で育った現役生)との間で平均点にして12点(100点満点)もの差が生じたことが明らかとなった (朝日新聞1997年11月28日「論壇」参照)。

 このことは、新学習指導要領による高校時代の学習の偏りが、大学入学後の成績の差として大きく跡を残すことを意味している。12点は小さな差と見えるかもしれないが東大の進学振り分け制度からすると極めて大きな差といえる。この制度では、入学後1年半の成績で志望する専門学科に進学できるか否かが決まるが、平均点で0.1点の差に泣くことも多いからだ。

 こうした状況を放置すれば、大学教育は足下から突き崩されていくおそれがある。

 517人中、12点、という一見具体的な数値を提示して「大学教育」を憂えているこの文、しかし、もういちどよく読んでみていただきたい。この12点の差は、やはり「たいしたことはない」のだということがわかってくる。これが問題になるのは、「進学振り分け」俗称「進振り」という悪名高い東大独自のシステムがあるからであって、つまり、この「差」が問題になるようにしているのは東大自身である、ということだからだ。進振りをもちだして、学生の進路にかかわるからといって、それをもって「大学教育は足元から」といわれても、困ってしまう。そりゃあ、「東大の教育は」崩れるでしょうけれどねえ。進振りをみなおすのが先であろうし、そういう数字によって学生が困っていると言うのならば、12点の差がつかないような教育を模索していただきたいものである。まさか、三つ子の魂百までといいたいわけではないだろうけれど、そもそもが従来の昔カリキュラムにしか対応していない教員による授業が、現在の生物をとらなくてもいいカリキュラムを通ってきた学生にとって著しく不利にできているであろうことは自明なのであり、この一見もっともらしい数字は、したがって実はたいして意味はない、あるいは、巧妙にしくまれたものである、ということだ。夏学期までの授業で、あなたたち駒場の教員は高校の生物をアテにするような授業はしてこなかった、きちんとした独自の体系であった、といえますか、ということだ。もちろん、そういう意味ではたしかにすでに「大学での教育」はとうのむかしに「足元から」崩れてしまっている、のではあるけれど。ここだけの話だが、以前ある駒場の生物の助手は、着任してから「ああ、ここは学生の実習のめんどうをみなくてはいけないから面倒でいやだ」ともらした。実習というのは助手の教育活動であるというのに。うむ、たしかに「こうした状況を放置」したから、「足下から大学(駒場)は崩れている」のだろう。

 現実に講義を行っている教員が、「ちゃんとした高校教育」を前提にしているような状況では、そもそも大学としての教養教育など独立できているはずもない。これは、たとえば文系の学生に同じテストをやったらそっちはさらに平均点が12点以上高かった、ということだってありうる、ということだ。事実、ある私立大学の文系一年生と、某公立大学理学部三年生とでは、「全く同じ実習(理学部の専門実習の内容)」を行っても前者のほうがレポート、スケッチのレベルが高い、という事実もある(その時はさすがに私も仰天したものだが)。つまり、「専門を教えたがる教員ほど教育能力がなく、講義では何もものをおしえられずに、高校の時の貯金で学生はテストを受けている」と仮定しても、12点の差などはついてしまうのである。そして、専門ほど教育がいいかげん、というのはどうもそれほど妄想ではなく、講義や実習に対する態度として考えてもどうも、無視できない要因になっている。ようするに、専門家キドリはのきなみ教育能力のない馬鹿、ということだ。独立できてもいない癖に大綱化の恩恵に対する帳尻あわせで教養を気取る、からこそ矛盾と問題は最低最悪のかたちで表出するわけだ。

 しかし、「進振り」はいまだに根強く残っているのだなあ、とちょっと感慨にひたってしまった。こりゃ、たしかに大学教育はまずかろう。平均での0.1点で「泣く」、つまり自分の希望する学問をできなくなる、というこの進学振り分けシステムをこそどうにかするのが先決であろう。入学時には希望の学部があったとしても、結局はたまたまの試験の点の0.1点(!)でその希望を捨てざるを得なくなるような「大学教育」をこそ、高等教育フォーラムでは論じなければならないのではないか。「東大ウォッチング」という本には、この進学振り分けに対する学生の不満が紹介されている。「学生生活実態調査」に寄せられたものだという。いわく「進振りは最大の悩みである。学部へ進学するのに、才能の有無より教養科目の出来・不出来で選別されるのはおかしい」、「教養過程の勉強は、小、中、高以来変わらぬ、興味の有無にかかわりない詰め込み教育だ。大学に入ったら、自分の好きな勉強をしたかったが、進振りでそれも思うにまかせず、勉強する意欲がうせてしまった」等々。前者など、このフォーラムが「高校の理科教育」を問題視しているのとまったく同じ論拠である。いや、教員ではなく、学生からの声であることを考えると、さらに重い。楷より始めよとはよくいったものだ。受験テクニックを駆使した学生たちに、さらに進振りを乗り越えるテクニックを明示的に求めている以上、少なくとも全国の中で東大だけは、「いまの高校教育」を自らの課程をもって強く強く支持しているという結果だけは明白なのだ。ソクラテスの知ではないが、自らとは関りのないところで高等教育を語るダイガクジンなどうさんくさいだけの存在であることにまずは開眼することがスタートラインであろう。

 調査にはもっと直截な意見もあったが、それは本をみてもらうとして、理学部生の6割から8割近くが制度改善を希望している進振りと、それによりかかって教育の満足にできない教員(満足にできていないから、高校の時の残り物で試験を受けることになり、高校のカリキュラムで優位な差がついたりする。本当ならば、こういう条件で12点も差がついたら自分の講義のまずさと、講義を反映できていない試験(試験に反映されていない講義?)を反省する、というのが筋なのに)、という「制度」の改善こそが必要なのではないのか。それが「12点」の本当の意味ではないのか。まがりなりにも「高等教育」研究を標榜するのならば、これを論じるか、せめて、この進振りを論拠の前提として立論するというまねはしないでほしかった、と考えるのである。もっとも、これを「前提」としてしまうような環境だからこそ、進振りは維持されて、高校のカリキュラムにばかり教員は目がいく、ということなのだから、ある意味ではないものねだりなのだが。まあ、腐っても東大、ということなのか。外から東大に赴任しても、「染まる」というし、日本で一番古い大学の足元の崩れ方だけは理解できる。でもやっぱりそんな環境を「大学」に一般化するなどという非科学的、非論理的なことをしていただきたくはない。

 さらに、「高等教育フォーラム」のページの正木氏の発言の中にはこんな部分もある。

 生物系、医学系の大学でも生物抜きで受験できるため、理科の中では「つぶしの利かない」生物が入試で捨てられる。これ自体は昔からあった現象だが、重大なのは、生物は嫌いでないのに受験に不要という理由で、高校の生物の授業そのものが大々的に捨てられていることである。ネイチャーやサイエンスといった総合科学雑誌の三分の二を生命科学関係の記事が占める時代に、何という逆行であろうか。

 これも、一見まともそうな論点であるが、丁寧に読めばおかしさが明確になってくる文体。どうも、悪意や恣意すら感じてしまうページの特徴というところか。これを読んで、最近某公立大学でまきおこった間抜けな話を思い出してしまった。博士の学位を出すのに、大学の内規、審査委員の判断といった大学の独自性と責任が発揮されるべきところを、「この仕事はねいちゃあにものったんだから学位をだせ」とやった恥ずかしい教員がいた、というはなしである。なんか、ケンイダイスキ症候群なのだろうけれど、だからなんなの、という程度のことでしかない。受験の体制と、そこに受験生が投入するエネルギー、コストを考えると、一部の研究者風情がなんだか徒に喜んでいるような雑誌がどうだからといって、それが自分の当面の人生と何の関係があろう。とにかく、合格しない限り、そういう研究者風情にすらなれないのだから「つぶしの利かない」科目は切り捨てられても仕方があるまいに。切り捨てられたくないのであれば、受験でちゃんと「つぶしの利く」ような扱いを大学側がすればよい。まったく、受験を行い、合否を判定しているのは大学であり、そこの教員達だというのに、本当になんという論点の逆行だろうか、これは。雑誌の著名度やケンイを大事にする専門家の気持ちがわからないわけではない。それは、同人誌を守ろうとするアニメオタクの結束とも近いものだ。しかし、そろそろ理系の雑誌や研究が社会にとってそんなに重要なものではなくなってきているのかもしれないという視点はもっても良い。少なくとも、研究者以外のところでは、「それが社会にとってなんの意味があるのか」という問いは当然のものなのだから。無視してこもるのであれば、大学受験を偏ったものにして、自分達の意を汲んでくれる学生だけをうけいれればよい。そう、あえて大学進学率を三十年前の水準にもどす、という選択肢もあってよいのだ。社会がうけいれるかどうかは別として、大学のケンキューシャの立場からは。その結果、たくさんの大学が潰れるだろうけれど、大学がつぶれて一番困るのもまたそこの中のケンキューシャなのだから、それは責任ある結果、ということになるだけだ。ダイガクジンに自分の言動に責任をとる度胸があれば、のはなしだが。

 さて、これからの社会人大学、リカレント教育、そして、現状の大衆化を踏まえるならば、大学は、大学として教育すべき内容を自らが考慮し、新しく模索すべきなのである。場合によっては、何十年も前に高校の教育を受けた人間だって入学してくる。そのような現代において、高校での教育がすぐれていればもちろん越したことはないが、、大学としては、それによりかかることなく、独自のカリキュラムを用意していくしかない。「高等教育フォーラム」が文字どおり、高等教育のあり方を考えてくようになれば、実に希望と可能性に満ちた活動となるだろう。高校教育についての討論は、大学の受験システムをかえない限りうごくことのできない部分がある以上、不毛な方向であるともいえる。たとえば東大であれば駒場キャンパスでの独特のカリキュラムを考案して、それによって学生の進度や興味を揃え、きちんと次の教育につなぐようなシステムをつくる、といったようなことだ。

 ああ、でも例えば駒場に限定すると、西部事件といわれた「出来事」が過去あったり、最近では重点化のためにつくられた研究室での教員の人間性に起因するえげつないトラブル等が絶えないとも聞く。高等教育の改革は、まず大学の足腰から、といわれてしまったら、立つ瀬がないかもしれませんね。学寮とりこわしで学生デモが騒動を起こしたときに、一部の教員はよせばいいのに建物に登って「説得」を試みようとして、結果的にアジって騒動に火を注いだ、という事実も考えても、駒場というのはどうも「そういうところ」なのかもしれない。学生は一流かもしれないけれど、教員は、さて、どうなのだろうか。

 ちなみに、「高等教育フォーラム」のwebページはこちらで確認できる。メッセージを寄せている人の中には大学の教育(つまり高等教育)をこそ改善すべきだ、という主張の方もいるのだが、いかんせん、仮想敵文部省打倒にもえちゃうとそういう耳の痛い話は敬遠されてしまうのかもしれない、という流れを感じたりもする。一読あれ。

1998.06.15.、06.20