設置基準の大綱化とはなんだったのか

 おそれていたこと、といえばよいのか。1991年の大学設置基準の大綱化について、ほうぼうで虚偽やでまかせがまかりとおっている。もちろん、高等教育研究者による発言や書籍にはそんなことはあまりないのだが、問題は、つけやきばで高等教育を論じてしまっていたり、論じているつもりになっている人たち、かもしれない。

 たとえば、大綱化のことを「大学の大綱化」と称している人がいる。日本語の意味もわからないのか、高等学校の国語教育の問題か、というつっこみはおいておくとしても、これはあんまりだろう。この類いの人は、大綱化というものをどのように理解しているのだろう。高等教育を論じたがる「ダイガクジン」のどれくらいの人数が、実際にその当の設置基準に目をとおしているのかはなはだ疑問なのだが、大学改革とあわせてひとつだけ指摘しておくならば、この1991年の大綱化は「一般教育・専門教育・体育その他の「科目区分」を「しなくてもよい」と決めただけであって、一般教育を廃止してもよいとしているわけではない」ということだろう。これは、どれだけ大きな声で叫んでもたりないくらい重要な点である。と、いうのは、結構な数の「ダイガクジンサマ」たちが、「大綱化のせいで教養部が廃止された。これは由由しき問題だ。悪いのは文部省だ」という主張をしているからだ。

 だが、文部省の設置基準はそれまで硬直していた教養課程の科目区分に対する制限をゆるめたのであり、教養を解体も廃止もしていない。それどころか、ちゃんと目をとおせば教養教育の重要さを再度指摘してまでいる。ところが、個々の大学がやったことは何か、ということになるわけだ。

 統計的に解析したデータがいま手元にあるわけではないが、少なからぬ数の大学で「教養部解体」「教養部廃止」がなされた。それぞれが、代替としての教養教育を実現しているかどうか、が問題になるわけだが、どうもそれがおそまつなところが多い、ので、それをみんなまとめて文部省のせいにしてしまおう、という動きがでてくるらしい。なんのことはない、大学が、つまり自分たちがやったことがうまくなかったからといって、責任転嫁をしているだけ、という構図ともいえる。

 もちろん、それまでの教養部というものに問題がなかったわけではないし、どちらかというと問題は山積みだったといってよい。それはたとえば、教養教育をになうべき教員が、自分のことを「研究者であって教育者ではない」と思いこんでいたり、人事の際にも教育能力や教育ビジョンではなく、研究者としての業績で人をとったり、ひどい場合には縁故採用のようなかたちで人事が一部の派閥に牛耳られていたり、学部教授会とくらべて教養部の教員の発言権が著しく少なく立場的に弱いものであったり、学部が上、教養は下、という身分意識がお互いにしみついていたり、という、なんというか、教育とは無関係なところでの問題であった。教養部で教えるべき教養とは何か、という議論など、無関係な問題の数々である。以前他のページでもふれたけれど、東大の駒場に就職したある教員が、「学生の面倒をみなきゃなんなくて研究の時間がとられるのが嫌だ」とこぼすような世界、である。

 その結果、科目区分制限がゆるくなったときに、何をやったのか。規制されていたスタイルが緩和されたので、いまこそ有効な教養教育を確立しよう、とした大学は少数で、この機会に教養部というもの自体なくしてしまって、教養部教員という「格下」の立場を消滅させ、「学部教員」に昇格だ、という流れ、そして、ついでに重点化してしまって「大学院教員」にさらに格上げ、という流れが目についたのである。結果、文部省の意図はどうあれ、設置基準の大綱化は、教育無視のダイガクジン達がさらに教育を無視し、軽視し、責任逃れをするための土壌をつくってしまったともいえよう。さらに、紛争世代の「ダイガクジン」が責任転嫁するための仮想敵として「文部省」をやりだまにあげたがる、「敵扱い」したがる、という見苦しい性向もあいまって、一見もっともらしいけれど、よくみればどっかヘン、という「高等教育論」がでまわることになった、といえばよいのか。

 そのあげくに、「教養部解体にともなう問題」までが1991年の「大学の大綱化」のせいであるかのような発言までがとびだすにいたってしまったのであるとすれば、皮肉なことだが、ダイガクジンに求められているも、ダイガクジンが自分では手にしようとしないものこそが「教養」ということになるのかもしれない。

1999.06.30.