2002年6月

 ラッパー企画のせいでみられなかった「みの」の一言。「今日から、ろくがつぅ」と。

 yahooの模型板では、最近またしてもいつものテーマがもりあがっている。「売ってる模型を素組みなんてつまんないじゃないか」と。これは、とっても危険なロジックだ。市販のキットをつくる際に、もちろん手をくわえるよろこびというものはある。でもさ、それは所詮「ひとそれぞれ」のはなしで、そこから、手をくわえないと、とか、サフふかないと、にもっていくのはただのうっとうしい「余計なお世話」でしかないし、もっといってしまえば、「そんなに自分のイメージとかいうならキットなんかつかわないで初めから全部自分でつくれよ」にたどりついて、結局は「模型」の趣味自体をせばめるだけのはなしになるんだよね。

 ガンプラつくっていてわかることは、「自分のイメージにあうように改造する」とか、「色を塗る」というのは単なる「必要悪」だということ。これは、以前にもかいたけどね。初期のガンプラ時代は、「改造しないと」「色を塗らないと」ダメだった。それにひきかえ今のガンプラは、絶妙なバランスの上に成立していると思う。少なくとも、あのラインナップが商売として成立する程度には訴求力のある商品にしあがっていることは確かだ。それは「製品をそのまま受け入れる」という純真無垢な感性が試されている、ということでもある。「仮想敵としてメーカーをとりあえず批判する」なんぞというカッコワルイ手合いがアホをばらまいたりしていてねぇ。「よいものを認める」のも勇気ですよ、と。

 小林誠は、もっとがんばらねば。「ガンガンつくって、心はダメダメ」という、あの名台詞をもっとひろめなければいかんね。「つくった模型」というのは基本的に「自分のため」なんだということ、「ヒトにみせる」なんていうのは、まったく別の世界の問題であって、「模型づくり」とき関係ない、ということ。

 わかりやすいとおもうんだけどなぁ。うーむ。でも、子供は「わかってる」よ、きっと。ほんとうの「リアル」ってのはそんなもんさ。「模型」は、社会的なランクとしては「おもちゃ」よりも弱い立場だ。それくらいは理解しなきゃ、ねぇ。

 WSC修理、完了。結局のところスイッチパーツの交換で、送ってから大体一週間でもどってきたことになる。いまは、バトスピ1.5を持ち歩き中。あと、近所のイトーヨーカドーで1000円だったガンダムの1と2。結構おもしろい、これ。

 ビテオが壊れる。テープがでなくなってしまう、という症状。仕方がないので修理にだし、一台買うことに。で、二週連続でGガン三昧。やばいかも。次のMGはシュピーゲルかぁ。それにしても「キャラデザイン協力」のはずの島本の、ストーリー全体に与えた影響というのもすげぇなあ。田中さんの音楽って、ところどころスパンダーバレェっぽい。

 最初は、「このやり場のない怒りと憤りをどうすればいいのか」と思った。でも、冷静になって考えてみると事態は意外とシンプルなのだ。ウルトラマンコスモスが打ち切りになった理由は、「少年法」だということ、円谷はコスモスをなんとかして世に出したい、と宣言したこと。さらにいうと、「被害者」の親戚が警察にタレこんだことがきっかけの今回の出来事は、その「親族」自身が「被害者」のことをどれだけ「わかって」いるのか、ということが争点になるだろう。ま、こんなことはマスコミがすぐにかぎつけるだろうね。ちょっとだけ、待っていれば世の中はまっとうになる、と信じたい。
 ウルトラマンコスモスを毎週たのしみに生活していた一人の人間としては、「個人」と「作品」は別であること、を確認したいだけだ。個人のうらみつらみで作品がゆがむ、ということは、金城の仕掛けた呪いをうちくだくのに30年かかった円谷ならばよくわかっているはずだろう。

 収録がすべて終わっていたことが、不幸中の幸い、かな。

 ビデオの修理完了。一週間。ローディングモーターとベルトの交換だった。ずいぶん酷使したからなあ。でも、対応はやいぞ、サンヨー。

 こんどは、PB2400のバッテリが死ぬ。ずいぶんあせったけれど、バッテリを抜いて、パワーマネージャーのリセットをして、なんとか復帰。なんだか、片肺飛行ぎみだ。

 W杯でもめているけれど、でもさ、日韓合同とかいった時点で、当然今回の韓国大活躍は予測できていたはずの当然のできごとだとおもうのだが、というか、予定調和のひとつでしかない。もしかして、列強さんたちは、こうなることがまったく想像できなかったのだろうか。コクサイカ、されていないんだなあ。勉強不足ですぜ、みなさん。

 ウルトラマンコスモス、とりあえずはなんとかバランスとったか。どうなるかねぇ、これから。