2000年6月

萱田中学校の「常識」?

 この春から、うちの子供は千葉県の八千代市立萱田中学校というところに通っている。建物は新しくてきれいだし、一種の教育モデル校らしくて「千葉の教育はひどい」という風評とは違うといいな、と期待していたのだが…

 反面教師としては、子供はいろいろと「学校から」学んでいることはいる。たとえば、先日の道徳の授業で読まされた教科書の文章がある。タイトルは「他人のことを考えないわがままな人間」みたいになっていて、シチュエーションは「家のガス栓をしめわすれたかどうかがきになってしかたがないので家族に電話して確かめたい」男が、電話ボックスに並んだら、中で「女子高生がたわいもない会話で長電話」していた、というもの。しめくくりの一言が「こんなことではこの国の将来はどうなってしまうのだろうか」なんだそうな。その授業で、「誰がわがままか」という問いにはうちの子以外の全員が「女子高生」とこたえた。うちの子は、「たとえどんな話題であれ、電話代を払って通話している以上、その時間は女子高生の権利なんだから、男にかわってくれなかったからどうの、というのはかえって男の側のわがままだろう」と主張したらしいのだけれど、誰も賛成しなかったという。元の文章自体が「じょしこーせーは社会の悪」というステロタイプな偏見で成立している以上、誘導されてしまったおつむの弱い子供がたくさんいた、ということなんだろうけれど、それにしてもこういう教育をされたのではたまらない。男はボックスの外から電話の内容を聞いていて「女子高生のはなしの内容はたいしことのないもの」と勝手に判断し「それにくらべたら自分の用事のほうが優先されてしかるべき」と結論している。それ自体が「他人のことを考えないわがまま」の典型なのだけれど。たとえビジネスマンの商談であっても、「並んでいる人間にとってはどうでもいいこと」であるという点においては、女子高生のおしゃべりとまったく同様だ。つまり、自分の状況と他人のそれとを併置して考えることのできない「大人」が増えている、ということなのかもしれない。

 この「教育方針」、ほかにもいろいろとにじみでている。たとえば、一年生の体育の授業というのが、4月の最初のうちは「整列と行進」なんだけれど、その際にかけるかけごえが「男は「おう」で女は「はい」に「決まっている」」のだと体育の教師が言う。うーむ。「決まっている」といわれてもなあ。いつの時代の教育だ、これは。なんとも信じがたいはなしだけれど、これが現実である。「この学校では宿題というものはありません」と、入学案内の際に教師たちは胸を張ったけれど、実際には「宿題」という名前のものがないだけで、大量の「ワーク」があったりもする。

 なによりも、「萱田中学校には校則はないが常識はある」が標語なんだという… 校則はない、というけれどソックスの色やワンポイント、髪どめのゴムなんかについては「それは中学生らしくない」という言い方による「指導」ががんがんはいる。おかげでうちの子はとてもよい社会勉強をしているわけだ。いわく、「校則があれば、どこまでがよくてどこからがだめ、というのがはっきりわかるけれど、校則がない、ということはつまりなにがだめかというのがあいまいすぎて、結局しばられるばかりなんだ」と。ラインをあえて不明確にしておく、というのは理不尽なしばりつけの基本、というわけだ。

 「伝説の教師」でのキーワードでもある「常識」。教師と常識、というとたしかに近代日本の教育の大問題のポイントであるけれど、こんなかたちでいまだに根強く残っているとは。

 図書室にはほとんど本がない(たぶん学校設立の最低限の冊数なのだろう。しかも、本棚二つ分くらいはまさに頭数だけの本で、ビジネスのハウツーみたいなのが窓辺で日に焼かれてあせている)上、ふだんは鍵がかけられていて生徒が休み時間や放課後に図書室で、ということすらできないようになっている。廊下のそこここにはあの恥ずかしい「あいだみつを」や例の「萱田中学校には校則はないが常識はある」なんかがべたべた飾られていて、さながら洗脳システムのよう。

 スカイパーフェクTVで、ひさぶりに秋本康の「アニメじゃない」を耳にする。うーん、少なくとも「大人たち」はここ数十年の間なにひとつ精神的には進歩していないようだ。とりあえず、中学校にのりこむのはまだ子供にとめられているけれど、限度をこえたらちょっと校長に挨拶にいかねばならないだろうな。

2000.06.10