1999年11月

科学的ってどういうことだろう?

 ライフスペース、どうするんだろう、とか思ってしまう。本気で「信じている」人間に対して、「それは違うよ」とするには一体どういう手があるのか。一部300ページで、それが6万部もあるという「定説」(「東大には一セットある」んだそうな)を笑うことは簡単だし、外の人間が彼らの「非常識ぶり」に憤慨するのも楽ちんだけれど、そんなことではこの「ずれ」は決してうまらないだろうに。ようするに、何かを主張するにあたって独断を避け、また、既存の権威への盲信も排除しようとしたときに、彼らはなんらかのかたちで出版されている文献をもととした理解、というものをたてることにしたのだろう。そして、それらの定説のもととなる文献を理解できるかどうかが彼らのコミュニティの内部と外部の壁となっているわけだ。それは、外部の人間にとっては内部がすさまじい非常識にみえるし、中から外をみたら、なんともものわかりの悪い奴等にみえる、という具合。それによって、権威への盲従から自由になった、と信じるだけの根拠が少なくとも彼らの内部にはあることになる。
 この「定説」主義、奇天烈な信仰のように見えるかもしれないけれど、実は別にライフスペースのオリジナルではない。一般社会の常識と必ずしも合致しない「専門知識」を出版し、かつ、その価値と重みはコミュニティの相互保証によって成立させる、というスタイルは、近代の科学がやってきたことでもある。違うのは、その掲載誌の持つ「権威」とか「価値」の程度だけだ。事実、科学雑誌ではその権威を少しでも高めるためにピアーレビュー制度を導入して相互監視システムを採用したりしているが、それにしても所詮は同業者によるうちわの評価だといってしまえば身も蓋もない。ネイチャーやサイエンスなどという一般にもその名が知られているようなものであれば、内部の評価体系もまた内外にさらされるのだが、現実にはそのようなチェックがまともにはたらいていない雑誌も多い。だからこそ、科学雑誌にはランクがあり、どのランクの雑誌に掲載されたかによってその仕事の価値が増大したり目減りしたりもする、そんな世界だ。レビューワーに掲載を拒否されて、書き直している間にライバル研究室から同一内容の論文が出てしまった、しらべてみたら、そのレビューワーはライバル研究室のボスだった、なんてことから、こまかいトラブルではデータのでっちあげや盗用まできりがないものもある。もっと極端な例では、仲間同士の論文が掲載される雑誌がない、ということを理由に身内の間で研究会、あるいは学会をつくり、雑誌も自分達でつくってしまう、ということすらある。常温核融合の時など、それなりにちゃんとしている雑誌も、結局は流れに躍らされてしまった。
 科学者に「常識」を盾にして議論をふっかけた時、「何年のネイチャーでこういう論文が」でちょん、ということがある。研究室の学生が、自分が出した実験データを持って自分の解釈をボスに進言したときに、「でもアメリカのだれだれの論文にはそう書かれていないからやりなおせ」とけんもほろろだった、ということもある。これでは科学者はなかなか「定説」を笑えないではないか。
 閉鎖的な「ナイーブな科学者集団」と「ライフスペース」とは、一本の道で地続きになっている。もしかしたら、オウム以上に、このライフスペースは戦後の科学教育の産み出したおそるべき子供達なのかもしれない。

 それにしても「ライフスペース」とつづっていると、「ライブスペース」という言葉が頭をよぎる。その昔のパソコン通信、PC-VANでなにかと物議をかもした(というほどたいしたモノでもなかったのだけれど)「もーんOP」鈴木克巳クンは今どうしているんだろう。「法学部を出ただけでは法学修士にはなれません」とか「はじめまして。大学院修士卒の鈴木と申します」とか、歴史に残る迷セリフを残した御方だった。そういえばライフスペースの高橋氏とも通じる気配があったっけ。彼の主催していたコーナーの名前が「ライブスペース」だった、というのは、まぁ偶然だろうけれど。よもやライフスペースに参加していたりしないだろうなあ。

 ちょっとだけ関連したはなしで、『「買ってはいけない」は嘘である』、を読んだ。類書が山とある中、著者で選んだ、というのが正直なところ。これもまたへんなブームになっている。鹿砦社の本なんかはいろいろと寄せ集めているけれど、全体を通してのポリシーが感じられなかった。webにだされていたものをそのまんま収録したり、とかは手抜きにみえてしまえうぞ(いろいろな立場を掲載した、というと聞こえはいいけど、ものはいいよう、ですな)。ま、この出版社のこれまでの出版物を考えると、品質が保証されないのは当然か。でも、元ネタである『買ってはいけない』こそ、いかにも鹿砦社が出しそうなタチのものだ、というところにちょっとメタなおもしろさはあるかもしれない。「買ってはいけない」については、そういえば都立大の理学部の片浦センセイが以前に自分のwebページに出していたモノを思い出した。こんなのとか、こんなのとか、こんなのとか、こんなのとか、あげくのはてにこんなのとかだった(まだリンク生きてるかなあ…)。うーん、同類サンだ。みなさん、ライフスペースから、『買ってはいけない』、そして、この都立大のセンセイまで、自分達が「科学的」で「論理的」な主張をしているという自覚と自負はちゃーんと持っていらっしゃる、というところまで、同類サン。

 「科学的」ってどういうことなんだ?

(追記)
 法の華、という宗教団体で「治療する」という約束でお金をはらったのに、という訴訟が起きた。うーむ、「約束が違う」という意味では、訴える気持ちはわからないではない。でも、相手は「宗教団体」だ。医療機関ではないのだ。病に対する精神的サポートを期待したのに、というのであればまだしも、「なおらなかった」というものだと微妙なのではないか。そのため死んだといっても…
 医療を受けさせずに宗教団体にゆだねた結果死んでしまった、というのであれば、ミイラ事件と同様の遺棄の疑いは生じるだろうけれど、それって保護義務を有していた家族に対して生じるのではないだろうか。それよりもなによりも気がかりなのは、この告訴で原告が勝ってしまうと…ライフスペースのミイラ事件も立件できなくなってしまうのではないか、ということだ。それって、つまり「治療の約束の不履行」ということで勝訴するわけだから、前提として「宗教法人に治療行為を期待すること」を是とする判断にならざるを得ない。そして、それは言うまでもなく「ライフスペースに医療行為を期待してついていった」信者の行為をも肯定することになる。医療過誤のバリエーションによる立件しかできなくなってしまうだろう。なにやら複雑なことになりそうだ。

(追記 その2)
 ライフスペースは、逮捕され、立件されそうな感じになってきたけれど、今度は宗教上の理由で輸血を拒否したのに手術で輸血されてしまった、という裁判で医者が負ける、という出来事あり。ただし、これは前もって輸血しないでほしい、という患者の申しいれを医師が受け入れていた、というところにポイントがあるのでちょっと違うけれど。この場合の問題は、医師が患者の言葉をまじめに聞いてなどいない、という点につきるのだろう。要するに、とりあえずはいはいいっておいただけで、結局、必要になれば輸血はしてしまう(約束を平気でやぶってしまう)、というところがまずかったわけだ。状況から、輸血せずに治療できるという判断が適切にできていたかどうか、イレギュラーなことだっておこるんだ、というあたりまえのことがこの医師の頭から抜け落ちてはいなかったか。これって、医者の養成カリキュラムの問題だったらいやだなあ、と思う。自然科学科目の履修を声高に叫ぶあまりに、医者として、あるいは人として当然の責任の取り方をおざなりにしたままではいかんだろう。でも、問題の根はとてもふかそうで、げんなりしてしまう。

1999.11.17,11.22,2000.03.03