1999年10月

強姦核軍備?

 物議を力一杯かもしてくれた西村元政務次官の発言、その内容の愚劣さ、低俗さについてはいまさらいうまでもないのだけれど、いろいろな意味で「記号的オトコ」の典型ではあるのかもしれない、と思う。模型日記にもちょっと書いたけれど、男友達の家に外泊したからといって娘に蹴る、殴るの暴行を加えた上、コンクリートにたたきつけて殺した父親、それに対してニュースキャスターやコメンテーターが「自分も男親なので気持ちはわかる」だの、「娘に対する愛情がいきすぎたのでしょうね」だのといったピントはずれなことを言っているのとの関連を考えている。この場合、何が理由であれ、娘を蹴ったり、こぶしで殴ったりした時点で、この「親」が子供に対しては愛情など全然もっていないこと、そして、おそらくは「持っているもの」は、娘を一個の人格としてではなく自分の「所有物」として拘束しようとしていたことなら「わかる」。その暴力が娘への愛情の発露ではない証拠に、「その場にいた二名の男友達ではなく」まっすぐに娘を蹴ったのである。さらに憶測するならば、「そういう親」だからこそ、娘は友達の家に逃げたのかもしれない。しかし、ボーイフレンドは、普段どんなかっこいいことを言っていてもこういういざという時は守ってなどくれないものだ。彼らもまた多くの場合「記号的オトコ」でしかないからだ。

 さて、「核は抑止力だから、持っていないのが一番危険」という西村理論(?)は、「法による罰が抑止力となっているからこそ自分たち(西村氏や西村氏みたいな連中)は強姦魔になっていないのだ」というとっても率直で正直な告白によって説明(問題提起?)されている。西村氏が法律さえなければ、と日々悔しい思いをしているというのは、まあ、おいておく。この年代の連中にはよくあることだ。「オレラ」というのも、この路線の主張をする人達、いわゆる右翼なひとたちがその範疇にはいるのだろうけれど、それも西村氏の主張なのでとりあえずはいい。問題は「抑止力」の部分だ。セクハラであるとか、非常識であるとか、そういうレベル以前に、この「強姦のたとえ」はもっと低次元なところで破綻している。「核兵器を持つこと」が抑止力となって核戦争はおきない、ように、「法による罰がある」ことが強姦魔発生の抑止力になっているというこの主張。法による罰が強姦魔発生を抑止している「証拠」は「自分もその理由で強姦魔になっていないから」という極めてわかりやすい直截なものだ。でもね、オヂサン、たまたまあなたはまだやっていないだけで、現実には法による罰の制定にもかかわらず、強姦魔は「実在している」のだ。つまり、ちっとも抑止力になどなっていない、ということ。まあ、このオヂサンを抑止しておくことならいまのところはできているけれど、という程度のはなしだ。つまり、強姦理論とは、彼が自分に卑近なところでだけ考えた結果のしろものなのだ。右翼って、昔からこんなに馬鹿だったっけ? 頭、悪かった? 珍右翼、みたいな概念もそろそろ必要なのかもしれない。

 それ以前に、核に対する抑止力は核そのもの、ということのたとえならば、強姦魔に対する抑止力は今回の彼の発言のように「すきあらばオレもヤルゾ」という誇示、ということに対応しそうな気もするけれど(そんなもんに抑止の効果なんかあるわけがない。促進効果ならあるかもね)、そこはそれ、氏の女性蔑視の前時代的な嗜好もとい思考回路が「強姦」にソフトランディングさせたのだろう。

 なんにせよ、レベルの低いはなしではある。ジュクジョ対決なんかよりもずっと「日本の民度がためされる」話題だよな、これって。

 そうそう、珍右翼関連のおまけ。小林よしのりのゴー宣7巻を、書き下ろしもある、ということでひさしぶりに買ってみた。まあ、内容の汚さというか、ある種のダメダメぶりはあいかわらずだからアレだけれど、その書き下ろしのゴー宣の歴史のなかにサンデーにちょっぴりとだけ掲載した「よしりんゾーン」という腰砕け連載がどこにもふれられていないのはどーしてかなぁ(笑)。そういうや、このヒト、この前のSAPIOでは「教科書でダーウィニズムを教えるのは共産主義への洗脳を目的としているのだ」とかやっていたっけ。なんとも、ご愁傷さま、である。彼が控訴した漫画引用裁判、以前僕がちょっとだけかかわった「チアリ裁判」なみに「楽しいモノ」になっているのだろうなあ。

1999.10.23