1998年12月

東大生とどくだみ

 研究問題MLというところで「旧帝大」が少し話題になった。旧帝大の大学院に外部からはいる学生は、そのネームバリューに惹かれてはいりたがっているのかどうか、という一見たわいもない話題だったのだけれど、もしかすると、東大みたいなところではその内部進学者の中には結構旧弊な「プライド」とかがあるのかもしれないな、と思えるシーンもある。もっといってしまえば、東大の「センセイ」になれた、東大の「キョージュ」になりたい、という低劣な欲望に身をまかせて野望を達成したはいいけれど、でも「教員」というものはその役割と仕事がある、ということを学ぶ暇もなく人生の後半を随分と通り過ぎてしまった人、とかまでいれると枚挙にいとまがなさすぎるほどなわけで。

 そもそも「大学にはいる」こと自体、今の若者の時代とその親の時代、さらにそのまた親の時代でまったく意味が異なっている。親の感覚では子供の進学については理解もできないし、教授の感覚では学生のことなんか理解できない。大学進学率が50%になんなんとしている状況を、そもそも理解できている大学人自体、実に希少価値であるとすらいえる。そんななかで、「大学にいきたい」そして「いい大学にいきたい」という願望は、精神にゆがみをもたらしてしまう大きなきっかけになりがちである。中には、有名私大に合格しても、一年仮面浪人してなんとか東大にいきたい、というクチまでいるらしい。そうまでして東大に入って、「やりたいこと」があるわけではない。結局、自分の人生を自分で組み立てることもできないままに、「東大にはいればなんとかなる」という甘い現実認識のまま無為に時間をつぶし、現実から目をそむけながらかろやかにいろいろなものから逃げ続けることになる。「いい大学」などというものに名前の価値などもうないのに、それにすら気がつかない気の毒な人、といってもいいのかもしれない。

 少し前の時代では、戦中・戦後世代の親の代理戦争として子供がだしにつかわれた。偶然にも戦後の復興と敗戦コンプレックスからなる「理系倍増」方針によってそういう代理戦争は兵士に痛みを感じさせないまま、問題の先送りに徹していたきらいがある。もっといってしまえば、この世代がいま大学の教員として中堅にいることが多いわけで、問題が頻出するのは負債を先送りにしたツケがまわってきたにすぎない、ということでもある。教員バブルがはじけたわけだ。

 でも、「名前」は一人歩きをする。どんなに報道されても、冒頭で触れたMLでのように「旧帝大はすごい」とか「東大は偉い」という妄想が、下手をすると当の東大の中からしがみつきうる最後の鰯の頭よろしく無尽蔵にわいてくる。しかも、大学というのは完全に社会から隔離されていて、その中で何がおきているのか市民にはしられないようになっている。都心で、マンションの隣の大学の敷地の中で泥棒が頻出しても学生の首吊りが横行しても、警察沙汰にすらならないことだってある。かくして、鰯の頭は腐臭を放ちつつも信心の対象でありつづけるわけだ。

 毎週木曜の夜7時から、TBS系で放映されている「学校へ行こう」という番組がある(番組改変で4月から火曜夜8時に移動した)。その中で最近新コーナーとしてはじまった「TheドクダミShow!」は必見である。東大、早稲田、慶応の学生各一名が「もてるオトコ」になるまでを追跡しよう、というこの企画、特に教養学部四年の東大生が他の二人を仕切る姿がけなげである。(慶応の学生はそんなに目立たない気がする。企画的には慶応が必要だったのだろうけれど、内容としてはちょっと違うぞ、あれは)

 ものを知らないとか非常識、というレベルをはるかにこえて、社会人として信じ難い言動が画面いっぱいにひろがり、我が家のテレビが臭い付きに進化したかと思えるほどすえた臭気のただよってきそうな秀作である。なによりもすごいのは、その「東大生」が、「標準的」な東大生と思える根拠がこちらの経験の中にあることだ。「ああ、こういうタイプ、多かったな」と何人も何人も記憶の底から呼び起こされる。さらに、本郷の商店街をどなりちらしながら歩いていたアブナイトウダイセイの姿もほとんどぶれなく重なってくる。家内にもきいてみたら、彼女もこのタイプの東大生はたくさん知っている、というよりも、内部の東大生はこのタイプが実に多いのではないか、という感想だった。彼女によると、駒場あたりで仕事をしているととてもさわやかで感じの良い学生も結構みかけるのだけれど、そういう目立って感じのよい学生は話をしてみると大体が「外から大学院で東大にはいってきた」人たちだったそうな。なるほど、内部進学者が口さがない陰口を外部からきた学生たちについてたたく理由はここにあるのだ、と思い至った。東大の「ネームバリューにひかれて」目的もなくはいっていくこまったちゃんは、内部の人間にこそ多いのではないか。ドクダミショーの東大生の他の学生や合コン相手に対する態度を見ていると、ここに一つの縮図があるような気がしてならない。

補遺

 年明けてからの「学校へ行こう」に注目している。今後の「どくだみShow」の展開が気になるだけでなく、もし、この企画自体が東京大学そのものや、あるいは細胞バンクの水沢氏が以前破廉恥にもやってのけたように「一OBからの苦言」によって妨害される可能性があるかな、とも思うからである。いうならばあれ、赤の広場でスターリンは馬鹿だ、と叫んだら二つの罪で逮捕された、という奴ですね。一つは侮辱罪で、もうひとつは「国家機密漏洩罪」だったというオチのあの小話、苦言好きなオヂサマとしては「番組の品位にかかわるので忠告」という形式をとって馬鹿をさらしそうな気がする。もしかして、この企画自体がそういう馬鹿をひっかけるための馬鹿トラップではないか、というのはうがちすぎだろうか。でも、ある日突然に「どくだみShowは東京大学関係者からの苦情申し立てがあったために中止いたします。御迷惑をおかけした関係者のみなさんには心からおわび申し上げます」なんていうテロップが流れたら凶悪だと思う。「王様は裸」だということをこれほど明白にさらしだすものはないだろうから。

 最近。雑誌の記事で彼らどくだみ達を称して「がりべんクン」と呼称しているのを見て、やれやれ、と思った。彼らどくだみは「がりべん」なのではなく、単に本人のナチュラルな部分が結果した所がいまのところ「一流大学の学生」であるというだけなのだろうに。それはたとえば合コンの予習をする三者三様の姿にも現れていて、知識を体系的に捉えようとする慶応、漫画等の情報から自分なりに近づこうとする早稲田、とりあえず現物を前にして「理解」しようとする東大(うーむ、このずれた姿って「クリスマス」を理解しようとしたジャックの姿とも重なるな。なぃいぶなさいえんちすと、的か)、といった姿は、それが正しいか効率良いかはともかく、相応に本質的なアプローチではあるわけで。問題は、にもかかわらず「カノジョがほしい」と思ってしまうどくだみ各位の「オス」的側面。これがあまりにも即物的な汚らわしさとして、そのナイーブさとギャップをもたらして笑いとなっているという部分か。それをして「ガリベン君」うんぬんといってしまうのは、それを言う人間のつまらない学歴コンプレックスを露呈しているだけだろう。「おじょーさま」にあこがれちゃったりする俗物的発想とも双生児、というところか。いのっち教授、ちぃとばかし言葉に気をつけたほうがよろしいよ、老婆心だけどね。


1998.12.18,1999.01.13,24