1998年9月

 いま、私の手元に、AACI(Asian Americans for Community Involvment)の編纂になるドメスティックバイオレンスケアのためのトレーニングマニュアルがある。日本では、その実態把握が不十分であることと等から社会的にもその存在が軽視されていたり、ないものとされていたりしがちなドメスティックバイオレンスは(SPA!の連載で今年前半にこれを扱ったものはあった)、それ故、きちんとしたガイドラインもケアのスタイルも完成しているとは言い難い。
 ただ、ここでとりあげたいのはドメスティックバイオレンスそれ自体ではない。このトレーニングマニュアルで示されている虐待と被害者の姿が、大学における学生のそれと酷似している、ということだ。たとえば、被害者の傾向として、虐待に対して責任を感じている、自分のどこかがおかしいと思っている、といった傾向があげられているが、これはまさしく理不尽な処遇にあった学生が流れつく思考スタイルといってよい。彼らは、自分のおかれた状況についての責任は自分にあり、それは自分がどこかおかしい、あるいは足りないからだと信じ込んでしまう。また、加害者の傾向としては、ごまかしをつかう、被害者に近寄る、防衛的、子供時代に虐待された、といったものがあげられている。これは、いうまでもなく典型的すぎる教員の傾向である。たとえば、先月ここで触れたある国立研究所の人間、細胞バンクの水沢室長は学生のおかれている立場の弱さについて学生が言及し、その問題を解決しようとする作業を「弱さを強調する」と決め付け、あげくのはてに「以前の先生の悪口をさんざん言う方と、以前のことにはあまり触れないで、自分の夢とか希望とかを積極的に語る方とどちらのほうがことがうまく進むと思います?」といった論点の逸らしまでしてくれたものだが、これなども典型の一つである。自己防衛し、ごまかす、という作業にはすりかえときめつけが常にセットになっているわけだ。

#もっとも、自分の奥方や部下に面と向かって「馬鹿馬鹿」いうのも後先考えずに軽率にやって
#のける人だということなので、個人的な資質の問題なのかもしれない。しかも、「結婚前は」
#今の奥方にむかって馬鹿などとは絶対にいわなかった、というのだから、たちの悪い確信犯
#でもあるわけだ。そういえば、例の毒ガス先生は、泥酔した奥方を「つきあいきれない」と放
#置して独りでさっさと家にかえってしまい、同僚が奥方を家まで連れていった、という過去が
#ある。どうもおかしな人というのは家庭に問題があるのではないか、と思わせるエピソードで
#ある。

 以前、パソコン通信でみかけたある科学館デザイナー「ZIRO」氏は「自分の家内を無理矢理犯しても夫婦なんだから強姦なんかではないんだ、そんなことは俺はよくやっている」と胸を張っていた。どうも、加害にまわる人間というのはどこかなにかが足りないのではないかと思わせる言動である。私の「学生の人権」にページについても、学内の機関紙で紹介したい、という申し出がある大学の学生相談部からあった。問題はたしかに教育のあり方と構造なのだが、具体的には、カウンセリング、心理治療の作業が必須でもある。短期的な救済と長期的な改善とを同時にみすえていかなくてはならない。

 トラブルの多くは、学生のおかれている状況が人権侵害である、という観点で整理しなくてはならないのだが、実際には大学という組織の閉鎖性故に立場の弱いものは煮え湯をのまされる。被害を申告するだけで「弱さを強調している」といわれてしまうわけであり、この問題は、教職員が大きくいれかわるか、考え方を変えるかしない限り改善されないだろう。実際、ある国立大学で教員による強姦とデータ剽窃事件が起きたとき、被害者が留学生であったこともあって、学内の会議では「何々人には気をつけるように」とか「色恋なんかどっちもどっち」という意見がでたりしたほどだという。研究問題を論じるMLでは、例の国立研究所の人間が「立場が弱いことばかりに気を取られていると、おいしいアイデアを取られてしまうこともあるかもしれませんね.」等と発言してこの種の問題が日常化していることをほのめかしたりもした。社会構造というよりも、研究者の良識の問題というべきなのだろうけれど、それがシステムの問題と重なるところが頭痛の種なのである。

 そういう意味では、このトレーニングマニュアルから学ぶべきことは多々ある。これに匹敵するものをつくらなくては、とも思うのだが… 「大学と学生」の来月の特集は「学生のメンタルヘルス」だそうだ。どれくらいの内容になるのか、注目している。

 さて、ささいなことだが、散在していたファイルを管理しやすくするためと、どこぞのお間抜けさんがネチケットをはきちがえて「都立大の管理者に苦情を呈する」ような恥ずかしいまねをしないように、という配慮から、urchin1の更新を止めて、plutoに移動するようにした。以前のように、学内の人間にサーバーのファイルを直接こわされるのをふせぐという意味あいもある。学生の人権についても、来年中にはplutoのみにしようと考えている。