2002年7月

2002年7月

 Gガンにはまりまくり。同じテープを何度も借りて、毎日みまくり。だって、木更津以降、たのしみな番組なんか、日曜の朝と土曜の六時、そして、ごくせんくらいしかないものね。と、いうわけで,Gガン三昧な毎日。MIAもとうとう買ってしまったし、旧1/144のハイパーモードもそろえてしまつた。はやくDVDでないかなあ。

 コスモス、微妙なことになってきた。とりあえず、映画の前にラストがみられたのはよし。でも、ムサシの正体がばれるところとか、まだまだみたいところは多い。少なくとも、DVDはだしてよね。5.6は入手したんだし。

 とりあえず、夏の映画がいろいろたのしみ。ヴィドックもDVDでるし。

 でも、いそがしすぎてメールの返事もなかなかだせません。すまん。

 Dスキャナ、発売日げっと。今回は万歩計ではないので普段からもちあるいてあそべる。バーコードであそぶのって、やっぱりアイデアだ。それにしても、絶妙なサイズと重さで持っているだけでうれしくなってくる。またこうやってバンダイの思惑に…

 ヴィドックDVD。あらためてすごい映像にうちのめされる。好みが分かれるだろうけれど、このゴシック感は魂のつぼである。個人的には今年イチオシの映画だな。

 さて、Gガン。これまで、映像作品でここまではまったのというと、ビデオがすりきれるほど見たチキチキバンバンぐらいしかない。どうしてこんなにはまったんだろう、と考えてみてひとつ気がついたこと。自分が見ていた「ガンダム」という世界自体が常に未完成だったからだ。ファースト、Z、ZZ、逆襲、F91、と見てきて、「らしさ」はあるけれど常になにかが足りなかった。ターンAは、その足りない部分を随分補ったけれど、あれにはドラマツルギーがあってもノリが足りなかった。ガンダム世界の何が未完成かというと、一見リアルっぽくしてしまった設定とドラマ性のあやうさ、につきる。最初のガンダムは、確かに当時のアニメの世界では「アニメにしてはリアルっぽい」ものではあった。SFっぽくもあった。でも、それは「ぽい」どまりだった。問題はここだ。「ぽい」どまりでも、他のアニメよりはリアルっぽかったせいで、相対的にリアルだという認識にさらされてしまったところがガンダム世界の悲劇だったといえる。あさのまさひことかの世迷言に典型をみることができるけれど、それは、単に「狭苦しい」だけで…そう考えていってはじめて富野がVでガンダムを壊そうとしたせっぱつまった気持ちもみえてくるし、ボルジャーノンの時に「スカートを別バーツにしたから可動」とかいう若いデザイナーに富野が怒ったのもよくわかる。「そんなことじゃないんだ」と。常になにかが足りないことこそがガンダムの独特の世界をつくっていたとするならば、その閉塞を打破するためにつくられる15周年記念作は、当然、完全オリジナルとして、「見ておもしろい」モノでなければならなかったし、それが熱血であった、とういうのも一種象徴的だ。と、いうか、GガンのスタッフとZのスタッフとのかぶり方を見ると、なおさら現場の閉塞感が大問題だったのか、と思わされる。「不完全なリアル」であらねばならなかった呪縛から開放されて、スタッフが「自分が見たかった」ものをつくった時、キャラデザイン協力で島本が加わったのも偶然というよりも必然だったのに違いない。
 ようするに、ガンダムは「いい」けれど、でも「燃えなかった」というのが閉塞の理由の一つだったということだ。だから、「なぃぃぶながんだむふぁん」がGガンを認めないのは、Gガンの勲章であろう。それは、Gガンがそれまでの似非リアル世界とはあいいれないものをつくりあげたことを意味するからだ。熱血とは、富野が持たない世界だったともいえるかもしれない。だからこそ、ギンガナムは「シャイニングフインガーとはこういうものか」とのセリフを持ったのだろう。Gガンを見た富野はなにをおもったのだろう。映画をつくりたい富野にとって、それは「めざしていた」ものではないけれど、それまでのガンダムができなかったことをあっさりとやってのけたところに多少の嫉妬はなかったのだろうか。
 キングゲイナーの音楽は田中公平である。今度は、どういうものをつくってくるのか、たのしみ。でも、GガンのDVDもはやくだしてほしい。レンタルを借りつづけるのもやっぱりしんどいし。

 Gガンの続き。
 リアルとはなにか、いうこと。それが「物語」である以上、基本的に前提となるのは、相手が「虚構」であるということだ。虚構の中に求めるリアルこそが、「ほんものらしさ」の実体であり、つまるところ、よくできたうそっぽさ、ということができる。「ガンダムのリアルさ」というのは、つまり「ガンダムっぽくみえるよくできたうそ」のことでしかないわけで、「リアル」という言葉をそこにもちだすこと自体がおこちゃまだということだ。
 で、所詮物語でしかないものにどんなにリアルをもとめているようにみえても、「現実」とはかけはなれたものでしかない。ジョイスのユリシーズが名を残したのは、そういう「まったくない」ことをわざわざ、というか、えげつなくやってみせたからにほかならない。
 ここにひそむ問題は明白だ。つまり、「わざとらしいエセリアル」は、批判力の乏しい評価体系では神にもなれる、ということだ。
 自分個人の「現実」とむきあうだけの精神力に欠けている人達が、「自分にとってのリアル」の代替物として「物語」を求める、という不健全な状態こそが、現代なのだ、と、いっぱしの批評家ぶってみてもよい。
 でも、その結果、富野という良質の作家がそういう「現代」の泥に一時的にとはいえ飲まれたのだとすれば、それは、時代の損失である、ということだ。ガンダムとは、そういう不健全な、そして不幸な作品群だったのだ。少なくとも、Gガンまでは。
 それこそが、ガンダムというものに対する「全否定」から「全肯定」に富野がシフトアップした背景だったのだ、と信じたい。
 それは、とりもなおさず、自分が「見たい」物語、自分が「欲している」ものがこれから先に生まれてくるであろうという「リアル」な期待感の根拠でもある。
 その結果、既存の路線の制限にしばられず、そして、それ故に、最もSFとしての性質をそなえた(ターンAが後から追い付いてきたが)Gガンダムという名作が生まれたのである。

 コスモス復活。いやあ、ようやくという感じですが、やっぱり土曜日はこうでないとね。なんか、涙がでてきた。

 クリスタル、購入。画面がかわるだけでこんなに違うのか、とう感じです。だって、帰りの電車の中でも普通にあそべるし、角度を気にしなくてもいいし。コントラストも強いのでみやすいし。いやあ、ここまできましたねえ。

 東京駅のサンディーヌ店長殺害事件、納得いかなかったことがニュースで氷解した。つまり、この犯人は、「はじめから」そのつもりだったのだろう。550円程度でも、店員ひきつれて追っかけてくることはきっと「はじめからわかっていた」のだ。「だから」包丁も持っていたのだろうし、「だから」たった550円なのだ。僕にいわせれば、犯人は過去にこの「店長」に「いきすぎた注意」をされてその恨みをはらしにきたのだろう。「セーギ」をはきちがえた馬鹿に多いタイプだったのかもしれない。パンの次には自分がさされた、という、単にそういうはなしでは。そもそも、あのサイズの店で、店長と店員の二人が店番を放棄していいのかね。たった550円のためにさ。これって、サンディーヌではリスク管理を教えていないのか、そんなこと無視するほど「セーギカン」が強い店長だったのか、どっちだろう。ま、こう思うにいたったのはテレビにうつった店長の父親の様子を見て不快だったからなのだけれど。週刊誌さん、「店長の日ごろの言動」と「家庭環境」が取材のポイントかもよ。あと、「なにもしていない」のに「犯人扱いされて罵詈雑言をあびせかけられた」人を見つけられればそれも、ね。

 このところドラマがつまらない。ひとつのパターンは「原作が良く、俳優もよいのだけれど脚本がちんぷ」なもの(サトラレなど)であり、他のパターンは「俳優は良いのだけれど、原作も脚本も陳腐」だ。とくに後者として著しくひどかったのは「恋愛偏差値」しろうといじりのバラエティじゃないんだから、こういうホンにO.K.だすプロデューサーをどうにか駆逐できないのかねえ。岡田君も仕事、えらばねば。最も、木更津の美礼センセの役をやった、という意味では復習の範疇か。それにしても、ひどすぎ。一億の星もそうとうだったけど、フジテレビはしばらくドラマやめたほうがいいのではないかねぇ。

 富野のインタピューでキングゲイナーは「クレしん」を念頭において、というのを見る。納得。これは、たのしみがふえた。カルピス劇場からしんちゃんへ、というのは飛躍的な変化かも。