エセボランティア再び
別に障害者の介護や震災のボランティアにいかなくても、「弱者の権利を履き違えた見苦しさ」に接することは多い。「してあげているステキなアタシ」と「してもらって当然なオイラ」が癒着すると、問題はさらに見苦しくなる。障害者をケアする立場の人間が、頑なに口を閉ざしている問題というものは、つまるところ、社会が弱者というものをつくりだす構図を内在しているからなのだが、口を閉ざすことがさらにまた弱者の理不尽な不公平を増長させるという問題を拡大していることは哀しい現実なのだ。
弱者というものは、特定の分野ごとに独立して存在しているわけではない。それは、いじめられる子供であり、セクハラされる女性であり、理不尽な拒絶をうける留学生であり、理不尽な制限を課せられる障害者であり、病人であり、老人であり、ようするにあるコミュニテイの大勢の枠におさまることのできないマイノリティである。その扱われる個々の理不尽さは、現象としては独立して見えるが、実際にはまったく共通の社会構造に端を発している。それは、自分達のムラになじまないものを排除し、排斥しようという意識だ。しかし、忘れてはならないのはこの構図は相方向である、ということだ。特に、「差別はいけない」というプロパガンダが思考停止的に持ち出される今、「差別されている弱者」であることがひとたび確定すると、「そういう被害者の集団」というムラが新たにできあがり、理不尽な差別をさらにくりひろげることになる。そういう意味では、もっともたちの悪いエセボランティアは、「自分だって弱者だ」という自意識のある人間に多い。「こんなに尽力してきたのに」というのもそうだし、「アタシのこの辛さはアナタになんかわかりっこないのよ」というのもそうだ。エセどもの共通点は、必ず問題を個別におとしこもうとする点である。なぜならば、彼等は装いとは裏腹に、差別そのものを問題にしているのではなく、彼等自身の「辛さ」を世間に強くアピールできればそれでいいのだから。で、ついでにその自分の「辛さ」でカッコよく他人の頭をぶんなぐれれば幸せ、ということらしい。
fj.beginnersというニュースグループができてしまった。これは、「初心者」というカテゴライズによりかかった差別構造の産物といえる。初心者というカテゴライズによりかかった結果、「初心者にやさしくしてくれないなんてひどい」という態度を産んだし、逆に「初心者というカデゴライズを狡猾に利用して自らを特別視したい」手合いにとっては、「自分は常連の中でも初心者のコトを理解している希有な常連だ」というみせかけをつくるのに役だったようだ。はからずも、多くの人間が疑いもなく意識の中にいだいている差別の構造が、彼等自身も気がつかないうちにあきらかになった。その中で、特に「やさしくしてくれないなんてひどい・やさしくおしえてくれないなんてひどい」という態度は、まさしく障害者がケアしてくれる介護者に向かってとる無礼な態度といっしょだし、それを外から見識者ぶって保護しようというのはまさしく障害者を食いものにしているエセボランティアの行動そのものだ。そのものなのだが、実際には、上に述べたように、彼等はなにもかも個別の問題におとしこまないと気がすまないので、そのものであること自体気がつかない。結果的に、実にテンケイテキな態度が現われることになる。
僕は、fj.beginnersで上のような指摘を一度したことがある。その後、大学のサーバの問題等もありあまり細かいフォローはできなかったのだけれど、メイルでひっかかってきた人がひとりいた。本人にいわせると、自分は病気がちな弱者であり、女性という弱者であり、かつ、エセボランティアのような「関係のない問題」をああいうニュースグループにだすのは無用な誤解を産むからつつしめ、ということだった。「関係のない」どころか、まさに「それ自体」である、ということは、当然理解されようはずもなく、何回もメイルをやりとりしたけれどらちがあかない。差別の構図というものは常に個別であり、個別に対応しなくてはだめだ、の一点ばりから出てこようとしない。初心者、というカテゴライズがニュース参加者の中に構造的な弱者をつくりだすものである、ということも理解できなかったようだ。加えて、どういうわけだか根拠もなく差別の「実態」については僕よりもご本人のほうが体験豊富で、僕はなにも現実を知らないくせに抽象的な言葉をふりまわしている頭でっかち、ということに固定されていた。こちらの経験がどれくらいあるかも確かめもせずにこういう思い込みにいたること自体、「自分のかあいそーなたいけん」をイイコイイコしたいだけのエセであることは自明といえる。実に見苦しい。
当人は自分が女性であり、だから女性へのセクハラや差別は僕よりも詳しい、といいきったのだけれど、その彼女にいわせれば、セクハラされて困っている女性だって、必ず誰かにはちゃんと相談できるものなのだ、ただ、その相談の結果得たアドバイスが有効とは限らないだけ、とやらかしてくれて僕を絶句させた。社会構造の中で、構造的弱者としての差別におちこんでしまった場合、自分が受けた被害を誰かに相談できるうちはまだ軽傷なのだ。現実には、誰にも相談できず、理不尽な苦しみを常に身にいだきながら、そして、ある時は傷心のまま自らの命をたつものまでいる、ということすら、このオシアワセな自称セクハラに詳しい女性は理解できなかった。ようするに、彼女が受けたセクハラというものは、他人に相談できる程度のことでしかなかった、ということらしいのだけれど、そういう個人体験を勝手に一般化しておいて、他人の発言はことごとく「それは個別の問題だからならべられない」と棄却しようとするのだからたいしたもの。エセのエセたる見事なところである。
結局、彼女自身がメイルでいってきたのだけれど、彼女が僕あてにメイルしてきた目的は、僕に「謝らせて反省させたい」一心によるものだった。なんのことはない、こういう人間にかかれば差別の問題自体が、自分が他人に頭を下げさせて快感を得るためまオトナのオモチャにされてしまう。こういうマスターベーションにまきこまれるのも迷惑なことだ。彼女は言葉の上では「誤解する人がでると困るから」といういかにも社会派をよそおっていたけれど、もし彼女が本心から誤解する読者の生じることを心配したのであれば、メイルなどではなく、ニュース上で僕の書いたものにフォローをいれて、読者に注意をうながすはずだった。つまり、「誤解されるとどうの」という事すらも彼女にとっては体のいい口実にすぎなかったわけだ。実に見苦しい。もし、本当に「誤解されて困る人」がいたとしても、彼女は僕が「自分に頭を下げ」さえすれば良く、「困る人」など彼女にはどうでもよかったわけだ。大体、僕が彼女に謝ったところで、僕の発言を読んで「誤解」する人間が減るとでもいうつもりだったのだろうか。エセは、世の中は自分だけを中心にまわっていると信じ込んでいる。それが、かっこつけて差別に首をつっこむから、社会の中の差別の構造は増幅され、なかなか問題はなくならない。差別の再生産のメカニズムをかいま見た体験であった。
彼女とはしばらくメイルのやりとりをしたのだけれど、結局むこうから返事がこないままとぎれて終わった。いままで僕が相手にしてきた数多くのエセどもの行動パターンから類推するに、たぶん「あんななにもわかっていない口先だけのつまんないオトコなんてこっちからねがいさげ。相手にしても意味がないからもう無視しちゃっいるのよ。アタシは
あんなくだらないのを相手にするひまなんかないんですから」とでも鏡にむかってつぶやいているのだろうと思う。ま、鏡なら自分に都合のよいことを言ってくれるのかもしれないし。
これを読んだら、今度はちゃんと他者の目にふれるところで発言して欲しいものだ。無理かもしれないけど。
1986.11.13