科学者・教育者ってなんだろう
京都大学の講師が収賄でつかまった。つかまる直前まで、彼はなかなか「さいえんてぃすとらしい」ふるまいをとりつづけていたのが実に印象的だった。いわく、自分の受け取った金額は一般社会の常識では高くみえるのかもしれないが、研究者としては普通の範疇だ、いわく、新薬にとって否定的なデータなんかもだしていたのだから自分はどちらかというと企業にとっての邪魔ですらあったのだうんぬん。あくまでも「あたりまえのこと」として逃げ切ろうとしたこの態度に対して、企業側はしかし、早々に贈賄を認めていたのが興味深い。たかが研究者にすぎない世間知らずがどんなに「あたりまえのこと」といいつのったところで、贈収賄というものは研究者の論理ではなく一般社会の論理でさばかれるのだというもっと「あたりまえのこと」にすら気がつかなかったのは、しかし、彼個人が特に間抜けだったからではなかろう。「研究者」、「科学者」という呼称になにやらうっとりとした気色悪いものを感じ取って自己満足にひたりこんだあげく、自分達の研究活動がいわゆる社会とは隔絶され、一線を画したなにやら高尚なものだという妄想にとらわれる、というのは、無能な科学者にはよくあることである。
このつかまった講師、自分の立場をわきまえていなかったわけではない。事実、言い訳のように「京大病院の医師としてではなく、一民間医として」とくりかえしてもいた。公務員たるものそのようなことは、という意識はやはりあったのだろう。ただ、建前の呼び名だけシフトさせておけばそれで「一般社会への言い訳」としては十分と考えたところにその講師の限界があった。もっとも、公務員としての自覚などというと、地方公務員であるにもかかわらず、所属機関に届け出もせずに、何年もの間アルバイトをいくつもかけもちして悪びれさえもしないようなタイプというのは、残念なことにそれこそ「あたりまえのように」存在しているのも事実である。(情けないことに身近にもそういう例を知っている)研究者というものがいかに世の中を知らない世間知らずで無責任なぼんぼんだらけか、ということなのかもしれない。民間につとめているのではなく、国なり都なりからその給料がでている、ということにすらも考えがおよばないのであれば、人間として大切ななにかのネジがごぼっと頭からぬけてしまっているのか、あるいはうまれつきそういうネジがたりない欠陥品なのかもしれない。(また、往々にしてそういう人間は学生を指導する能力もなくて学生や周囲の人間が多大なる迷惑をこうむったりもする。これは現在進行形の切実な問題なので、また稿をあらためて触れるつもりでいる)
ちょっと話がそれた。この京大の講師の場合、さらにそれをうわまわる「科学者の世間知らず」エピソードがおまけされた。講師の上司にあたる教授もまた収賄の疑いをもたれているわけだが、そこへもって「あの人は性格的にそんなことをする人ではない」という「弁護・擁護」の手紙が世界中から届いたのだそうだ。弁護士はそれを検察へもっていって「場合によっては世界的な問題になる」と語ったそうだが、たとえ、どんなにある分野で評価される業績があったところで、今回のような犯罪容疑とその業績はあきらかに独立の事象であることは、ちょっと考えれば自明のことだ。その弁護の手紙をだした他国の先生方もおそらくはそれなりに名をとげた人達であろうに、それがこんなことをするようではその分野の学問としての堅固さすらも疑わしくなってくる。まあ、政治的な立ち回りに利用されただけかもしれないけれど。
業績をあげているいい人だからそんなことをするわけがない、というのは「スポーツの好きな人に悪い人はいない」とか「犬好きはみんないい人」といった没思考的な観念論・信仰告白といい勝負の失言である。世界に名のとおる科学者であればこそ、彼らは「業績と行為とは別であろうが、個人的に彼を信じているので存分に気のすむまで調査したまえ。ただし、調査内容が偏っていたり不正があった場合には正式な抗議もやぶさかではない。もちろん、その過程で彼の罪状が客観的に明白となったあかつきには遺憾ながらもそれを認めるであろう」くらいのことはいえたはずだ。結局、科学者が論理的な言動をとる、などというのは妄想なのであり、しかも、困ったことにそのとうの科学者自体が自分のことを「ああなんてわたしは論理的でいいやつなんだろう」とおもっていたりするからたちがわるいのだ。冒頭の講師の「一般社会からみれば」というひらきなおりもまたその妄想の産物なのだし、だとすれば、国際的に著名なこの「手紙をだした先生方」の存在は、その教授自身もまたそのような妄想を当然視する世界観の中にいることの証拠であり、自覚なく実にナチュラルに収賄にまみれていた可能性は高いといえるかもしれない。
もうひとつ。「自分は個人的にあの教授をよくしっているが、彼は性格からいってもそんなことのできる人ではない。まきこまれただけだ」という物言いは、第一に責任をすべてその講師になすりつけようとするという点である意味では微笑ましいし、第二に彼が自覚なく「問題のないあたりまえのこと」として金品を受け取っていた場合にはなんの意味もない文言である。そして、第三に、先日息子を金属バットで殴り殺した父親についての近所の人達の印象というのはまさしくこれと同じであった。やはり、トモダチの無罪を信じているのならば、こういうヒステリックな「ベタ擁護」ではなく、「きちんと全てを白日の下にさらすこと」を求めることこそがサイエンティストであろう。
いわば、科学者の「科学者」たる根本は、それ自体が社会の中で本来その科学者がおわねばならない責任など理解もせず、実に狭く歪んだ妄想のなかにあってかえりみることすらない、という点が今回の事件の根本である。これをきっかけとして、日本中の「自称科学者」達の日常生活にざっくりとメスがはいるのであれば、京大病院はまさに科学界の治療に実に大きな一助をなしたことになるのだが、さて、どうだろうか。
1996/11/27