構造主義生物学と「進化論の挑戦」
佐倉氏よりの指摘等をふまえ表現の細部に修正を行いました。
(1998/10/13修正)
・「科学」五月号の書評
岩波は時折実に味なことをやってのける。「科学」5月号の書評欄はそのひとつの実例となった。対立している(と一方は信じている)二者のそれぞれの著作を、それぞれの相手方に評させ、ならべる、という、見ようによっては実にあざといことをやってのけたのである。同様のものは、中島みゆきのアルバム「歌でしかいえない」のライナーでも見たことがあったが、やはりこういうあざとさは出版業界の一種の健全さの現れということなのだろう。
「構造主義生物学」対「なんかだかへんなもの」、である。かたや、池田清彦の「さよならダーウィニズム」かたや、佐倉統の「進化論の挑戦」。もっとも、自著のタイトルに「挑戦」などという語をもちこむ青臭さの時点で、勝負はもしかするとついていたのかもしれないし、援用される書物がウィルソンの「社会生物学」であったりするあたりが、評者の思想的脆弱さをも示しているのかもしれないけれど、そのあたりは「さよなら」の一言がかろうじてバランスを保ったというところか。まず、評を読んでの印象を述べておくならば、ちょっといらだちに似た哀れみの情念をも感じさせる池田の評文に対して、なにに対してきりきりしているのだかよくわからないけれど、とにかくテンション高くがんばっている佐倉、という感じを受けた。最も、佐倉の文は「さけぼうとがんばっている」のであって、決して「さけぶ」ところまで到達してすらおらず、きこえてくるのは風邪引き者ののどがしぼりだすようなひゅうひゅうとしたすきま風なのだが。
念のため、この二つの評を家人にも読ませてみた。佐倉による「さよなら」評に対して、前半は「なにがかいてあるのかわからない」といい、それでも後半は何度も吹き出しながら楽しそうに読了したようである。特に「ダーウィン進化論者だってバカではないのだ」というくだりはウケたらしい。この部分を、少し後の構造主義とダーウィニズムでは「あつかわれている"現象"や"事象"は、ほとんど同じだ」とした上で、構造主義であつかう問題は「ダーウィン理論の枠組みで扱えることばかり」なのだとした上で、説明できるのだから「構造主義のパラダイムは必要ではない」と断定しちゃう部分とあわせて味わうと結論はたった一つしかでてこない。家人は池田による評については、おおむねうなずきなから読んでいたのだが、一ヶ所だけ、吹き出した箇所があった。「書評するからには少しはほめたい」という部分である。うそつき、といって笑っていた。いや、もちろん、池田は本心から「ほめたかった」であろうし、それにもかかわらず「ほめるところはなかった」のだから、結果的には「ほめようがない」のだが。
ようするに、もう、岩波の手でならべられた時点で決着はついているのである。そんなものをどうしてここでとりあげるのかというと、ここには、生物学者というモノの多くがもつある種の臭みともいうべき体臭、あるいは、迷妄さの典型が露骨にあらわれているからだ。何年か前にfj.sci.bioで行われた構造主義生物学についてのやりとりを御記憶の方は、この書評二つをならべて読んでおもわずにやりとしたのに違いない(興味のある方は検索されるとよい)。佐倉の発言は、なんともいえぬほど見事な典型を体現しているからだ。どうも、こういうことになるとオリジナリティというものはどこかにふきとぶらしく、ようするに当時のfjでも、同様の発言をする人間がいた、のである。それが同一人物ではない、という点がもっとも驚くべきこと、あるいはあきらめるべきことかもしれない。
・構造主義生物学に対する一部の生物屋の防衛本能
構造主義生物学、というと、ダーウィニズム信奉者は、勝手にダーウィン進化論の対義語だと思い込むフシがある。丁寧に読んでいけば(彼らにはこれができないらしいのだが)それはただの間違いで、基本的に物事を還元的に要素から理解しよう、理解できる、できるはずだ、とする自分勝手ないわばマスターベーション的思考回路に対するアンチテーゼとして、構造主義は位置しているのだが。最も、いろいろある科学の中で、ダーウィニズム、特にネオダーウィニズムほどこのいい加減なマスターベーションにまみれている分野もないため、それぞれの表題のような内容もでてくるのである。まあ、なにがしかぷらいどとかこけんとかにかかわるのだろう。世の中を説明するのは自分達の理論なのであり、ほかのものは認めないぞ、と。
さて、池田の評には佐倉の書から信じ難い文面が引用されている。
"「なぜ人は道徳的でなければならないか?」ではなくて、「なぜ人は道徳的でなくてはならないと<思う>のか」と問わなくてはならない。これによって、問題は倫理学の問題から心理学の領域へと変換できる。そしてさらに「なぜ人は道徳的でなけれはばならないと思うように<できている>のか」と問うことで自然科学で扱える問題となる"
…これを読んで絶句したものだ。池田が嘘をかいているとまでは思わなかったが、それにしてもぬけぬけとこんなことを印刷物にするようなことがあるのだろうか、と一瞬思ったからだ。ただ、と学会の発掘した数多くの史料の中には同様の立論スタイルをもつものがあるのはたしかだし、さらに、実物を読んだら案の上、このくだりに遭遇してしまって二度びっくり、というところだ。大体、「道徳的」などという曖昧なものをもちだして立論にのせるだけでもすでに十分にイッチャッテイルわけだが、この部分、それ以上におもしろいポイントを含んでいる。そして、そのポイントこそ、この手の人間が「構造主義」を毛嫌いしたり、わかんないとさわいだり、簡単であたりまえなことで学問にすらならない、と騒いだりする原因でもある。でも、ちょっとおちついて考えてみれば、歴史をひもとくまでもなく、「ダーウィンの進化論は間違っていた」というのは、波動やユダヤ、アインシュタインは間違っていた、にならんでトンデモの黄金パターンの一つだったのだが、ダーウィニズム自身が自らをトンデモに置く、というシチュエーションの変化は、まさしくダーウィニズム自体の社会的な成長を意味しているのかもしれない。理論の成長ではなく、研究者の内実が吐露されはじめている、という意味で、だが。しかし、アインシュタインは間違っていた、という黄金パターンも、そういえば「相対性理論なんていうわけのわからないパラダイムは必要ない、それはツールにならない、そんなものなくてもものごとは説明できる」という展開でなされていることを考えると、まあ、こうなっちゃうのもしかたがないのかもしれないとは思う。
少し遊んでみようか。「なぜ佐倉は構造がわからないか?」ではなくて、「なぜ佐倉は構造がわからないと<思う>のか」、と問わなくてはならないのである。これによって、問題は個人の資質・能力の問題から心理学の領域に変換される。さらに、「なぜ佐倉は構造がわからないと思うように<できている>のか」と問うことで、あら不思議、おどろくべきことにこれは自然科学で扱える問題になっちゃうらしい。実際、一部では、行動や感情や心理状態をつかさどる「遺伝子」を探す、という研究の方向がブームになっていることもあり、これはあながち冗談にならないのだ。ここから派生する優生学とのかかわりについては、佐倉の著書を紐解きながら論じるとなかなかに興味深いのだが、とりあえず本筋ではないのでこれ以上は触れない。この問いかたが「遊び」である理由は、そもそもの問いである「なぜ佐倉は構造がわからないか?」が、一般性をもたない、いわばどうでもいいことだからである。一般性をもたないことにあたかも一般性がやどっているかのように振る舞うことで生じるおかしみこそが遊びの遊びたる由縁なのだが、そこにおかしみを感じることもできない人もいる、ということらしい。
基本的には、世界は記述可能かどうか、というところか。「わかる」ことと記述することとは同義かどうか、ということ、といいかえてもいいかもしれない。「存在理由」と「存在目的」というと、あるテレビ番組の脚本に重なるが、これは構造主義哲学の基底部分にかかわることでもあるし、大きな溝があるとすればここいらなのだろう。
・「説明できる」と「わかる」の違い
(あるいは、「わかる」ことと「わかったつもり」の違い)
話をもどして佐倉の書からの引用部分のかかえもつ「ポイント」であるが、それは何か。つまり、問い自体がおかしいから破綻しているのである。たとえばこれが、「道徳的」ではなく、ほかのものだったら結論はかわってくる。宗教でもいいし、それこそ道徳的なものでもいいのだが、例えば神という概念で考えてみればいい。どうして、ヒトは神を社会のなかに求めるのか、という問いは、なぜヒトは神という概念をもとめるようにできているのか、とシフトさせることが可能だ。ただし、シフトされた問題は既存の自然科学では対象とはできないだろう。それは、ヒトという存在の総体の中に神を求めるようななにがしかの要因がある、と仮定することになるわけだが、その場合は例えば、「神を求める遺伝子」があるんだと仮定してさがしまわったりする、ということをしかねない。(意味があるかどうかはさておき、だけれど)これはなにかというと、神を求める、という構造をヒトという存在の中に仮定する、ということになるわけで、その上で布置としての具体的な側面を個々に検討する、という、つまり、佐倉のこの考え方自体は構造主義的なのだ。なのにどうして、というと、本人がどんなにいろいろな理論をとりいれているからバカではない、といいはってみせたところで、彼らが「異なる理論」を受け入れるのはそれまでの自分達の理論では「説明できない」時だけ、だという点で、すでにダーウィン進化論者の考え方は学問ではないのである。
説明できるかどうか、以外の視点は彼らにはない。自分の信じている理論が「説明できるから」正しい、という考え方は、従って、同一のものに対して説明を可能とする他の理論に対してはヒステリーをおこす以外にないのである。いまなにかの説明ができている、ということと、その説明が正しいかどうかとは、特につながりはない。間違っていることでも、事実を説明できる、ということはいくらでもある。そんなこと、日常生活の中にもいくらでもでてくる。なに、「説明できれば」いいのであれば、学問なんか必要ない。そんなもの、いくらでもつけられるのだから。だからこそ、「説明できる」だけでは学にはなりえず、どのように確からしく説明するか、というところにこそ学の進歩はある。説明できないときには違う理論もとりいれる、なんというのは、それが学問として健全であるかどうかとは関係ないのである。
かつて、fjで佐倉氏と同様の立論をしてみせた某助教授は発生生物学者であって、進化学者ではなかった。科学者の問題は、したがって、その手技的な部分にあるのではなく、もっと基本的なところ、いわば人間としてのものの考え方にあるというべきだろう。その意味では、問題がイデオロギーにある、とした佐倉の言葉は、文字面の上では正しい。イデオロギーにある、としながらも、「でもおいらのイデオロギーがただしいんだもん」とやった時点で、問題なのだが。これでは、問題は「ダーウィニズム教」という宗教のはなしとなる。最も、その意味では、ファンダメンタリスト達が、聖書の記載だけで地球もその上の生物についても、説明できるのだから進化論は「必要ない」、とした過去は実に象徴的である。ファンダメンタリストはまさしく佐倉と同質の論理に依拠することで、「進化論のパラダイムは必要ない」と主張したのであるから。
彼ら、ダーウィン進化論者達に共通している点は、「説明できる」ことと「わかる」ということとの峻別がついていない、という、実に研究者としては致命的な部分でのナイーブな欠陥である。彼らにとって、説明できる、ということは、わかる、ということと同義らしい。で、あればこそ、オッカムの剃刀を不用意に多用して見せたり、最節約原理というものをふりまわして人為分類の世界を邁進したり、ということを平然とやってのけることもできるのである。これは、自分にとってわかりやすいことは、そのまま世の真実である、と信じる素朴実在論の一バリエーションにすぎない。上にも指摘したように、説明なんぞいくらでもつくのである。社会学を志す人間や心理学を専攻する人、あるいは社会で実学に触れている人達にはとても信じられないかもしれないけれど、実は、科学者の多くはいまだに素朴実在論に尻の毛までまみれている。池田の評価は、科学者の間よりも、社会的な部分で高い。それは、科学者たちは自分達の素朴実在論を死守しないと、おまんまのくいあげとなるし、それに、せっかく丁寧に築きあげてきたはりぼての壁がこわれてしまってみっともなくなる、という恐怖心くらいはあるのかもしれない。
・彼らは何を興奮し、あせっているのか?
池田の「さよならダーウィニズム」は、実はわかりやすい本なのである。読後の感想は、こんなにわかりやすくしてもいいことはなにもないのに、であった。なぜわかりやすくしてもいいことはなにもないのか。読んで内容を理解できる人間はここまでわかりやすくしなくてもちゃんとわかる。読んでも内容を理解できない人間はわかりやすくしても理解はできないが、それが「わかりやすい」ことだけは「わかる」ので…どうなるか、つけあがるのである。彼らは、構造主義が理解できない。どうして、そういう発想や視点が必要となるか、ということについては想像もできないらしい。しかし、文字面だけはわかるから、タイトルに「さよなら」などとひらがなで書かれていると勝手になにかを「わかったつもり」になって、そして、今回の佐倉の評文のようなものを産み出すのである。そういう意味では、この岩波のセッティングもまた一種の予定調和といえなくもない。
佐倉の立論は、この短い評文のなかですら破綻しているため、本当は触れる必要すらないほどのものなのだが。佐倉の観点は実に単純明快であって、それは、ダーウィニズムで説明つくからほかのものはいらない、という傲慢な視点が一点、そして、「構造」なんてよくわかんないよぉ、という悲鳴にも似た感情のほとばしりと、でも対抗しようとしてポーズをとってみせた狂騒が第二点である。ご多分にもれず、当然のように「自分に理解できないものは役に立たない」というスバラシキお約束まで主張してくださる。
佐倉はいう。ダーウィニズムも、構造主義も、同じ主題を扱っているのだから、構造主義はいらない、と。主題を説明できる、ということと、その説明の体系の必然性とは関係がかならずしもない、ということも理解できなくてもダーウィニズムはできるらしい。さらに、この場合、もともとのマスターベーションに対してなにひとつ問題意識をもっていないのだから、「それ以外が必要」という感覚すら共有できないのは仕方がないのである。飢えたことのない人間に食べ物の大切さを説いても無駄なのと似ている。
池田の著作には「多元主義による世界解読の試み」という副題のついたものがある。世界解読、という問題意識の解決の一つの道具立てが構造主義なのであり、ネオダーウィニズムはそうではない。なぜネオダーウィニズムがそうではないか、ということは、はからずも「構造主義はそうではない」という主張をしたがった佐倉の今回の評文に見事にあらわれているといえる。佐倉の立場は、「自分達の説明では説明できない」ものについてのみ、他の説明を受け入れるのであり、これは、自分達の説明が成立している対象に対しては、素朴なる実在と同等の扱いをしている、ということでもある。これは、何度もくりかえしたように思想的マスターベーションではあっても、あるいは一種の宗教ではあっても、科学たりえることはない。もっといえば、佐倉の立論は、「この世という客体・事象はやがてそれ自体として説明しうる」というあの、素朴実在論をベースにしているということなのであり、それである以上、やはり、それは思い込みか宗教以外のものにはなれないのである。構造主義の立場からは、ネオダーウィニズムの「世界解読」についての無意味さを指摘することはあっても、そのような精神世界の自己満足のための虚学の存在自体を否定することはない。あくまでも、「これじゃあだめでしょうが」というだけであるし、逆に、構造主義の立場に対するしたたかなる反論があればそれはさらなる発展のための楽しみですらあろう。対して、佐倉のよって立つ立場からは、構造主義そのものを頭から否定してかかるしかない。例えば、より多元的であったり、より思想的に自由度の高いもの、より多様となる可能性があるもの、という観念でみていくと、それぞれの立つ場所の安定さは自明といえよう。ようするに、一部の日本の科学者は、もしかすると哲学も思想もないまま、ただ日常のパズルとしてのカガクしか知らないのかもしれない、ということである。そんな彼らでも海外で名乗るときにはPh.D.を名乗れてしまうあたりが日本の高等教育の実態、といってしまってもいいかもしれない。ここから先は大学改革にからまるので別稿とするけれど。
・哲学と名がつけば文化人気取りからは嫉妬の対象となる
「構造主義方法論入門」という本がある。帯には「間違いだらけの「構造主義」理解に一石を投じる<知の福音書>」とあるように、構造主義哲学をわかりやすく説いたものだ。構造主義が、ナイーブな知的存在たる人類が、そのナイーブな知性でもって外部世界という、直截には掌握できない対象を切り取り、解析するための道具であることが丁寧に説明されている。素朴実在論のような「外部世界は理解できる、認識できる」という極端な思い込みから、実際の問題を扱いたい人間が到達するひとつの解が構造主義なのだ。と、すれば、佐倉のような、「いまあるこのりくつで説明できるからほかのはいらない」というのは、「このりくつ」さえあれば、素朴実在論で世を認識するのと実態として同等の気持ちでいつづける逃亡の窓口とてなる、ということにほかならない。つまり、「構造」を「わけのわからない」ものだとせざるをえない佐倉の立場は、その時点で立脚点の崩壊は自明だといえよう。この「構造主義方法論入門」の文献ガイドにおいて、池田の著書がまさに構造主義哲学の立場から「社会評論などの分野でも多くの卓越した論を展開している」とか「科学論の入門や構造主義への入門としては、これ以上ないというほどの好著」などと評価されているとというのは多元的な一つの結果ではあろう。
AとB、という二つの事象がある時に、その二つが「違う」ということがわかることと、「どこが違うか」がわかることとには天と地ほどのひらきがある。違いをもたらすものを構造とし、具体的な違いについては、その構造から導かれる布置として捉えていく、のが構造主義生物学だが、それに対して、「違うということがわかる」ならば、あとはがんばりさえすればいつか「どこが違うかもわかる」はずだ、つまり、リニアーにこれらはつながっていて、同一の営為の延長に答えがある、とするのが佐倉の主張である。説明ができればそれでよし、という単純素朴主義である。同一の営為の延長にこたえがある、と本人が頑なに信じている以上、「本人にとっては」それ以外の営為は永遠に必要ないわけだし、であるからこそ佐倉は構造主義に対してくりかえし「必要ない」ということをいうのだ。ここにあるのは、自分の選んだ信念を徒に一般化して他人におしつけようとする傲慢さである。対立する理念を受容できないような科学が科学として健全かどうかはいうまでもないのだが、そこでさらに「健全な科学」といった理念をすら佐倉はアド・ホックに拒絶するのであるから、もう、あとはドタバタなのである。自分のかかえている理論に説明できないことがあれば他の理論を受け入れる、というのは自由だし、言論の権利だが、しかし、説明ができない、ということを認めるためには本人がある種の謙虚さと論理性をもたねばならない。説明できればそれでいい、などといっているうちはダメなのである。もっとも、説明できればいい、という立場からは「健全な科学」などというものは懸命に否定しなくてはならなくなってしまうので、そういう意味からも予定調和ではあったのだが。
こういった佐倉の立論は、仲間うちでしか通用しまい。また、仲間というものは日本ではおだてることはあっても批判はしない、というのがルールだから、あとはおしてしるべし、である。fjの時の助教授と佐倉の共通している最も端的な点は、「構造」というものを「理解できない・わけのわからない」ものだとしか考えられないところである。思うに、これは日本の社会のなかで、科学者といううさんくさい肩書きをぶんぶんふりまわしている一部の集団に特徴的なものだ。これまで、構造を「わからない」という人間は、みな科学者であった。逆に、社会学の研究者、心理学の研究者、建築家、歴史家といった私の知り合いはみな例外なく、「構造主義生物学は現代生物学の主流」だと信じていた。なぜならば、この構造という概念が実にわかりやすく、明快・明確だったから、という。それまでの、一部の専門家が「下々の一般人よ、啓蒙してしんぜるからありがたく拝領するように」といったかたちで、一般人はわからない存在だから教えてやろう、とばかりに上意下達してくる科学、そして、その割には基本的な質問にも、問いにもこたえられず、現実問題としても自らのうみだした問題ひとつ解決できない実にうさんくさい科学、に対してなにか納得できないものを感じていた人達、そして、自分の研究・仕事として実社会に接している人達にとって、この構造主義はまさしく社会との接点を失って意味不明となっていた科学に座標と足場をあたえる実にわかりやすく明快な立論だったのである。
・現代科学「者」のめざす地平はどっちだ?
翻って科学者はどうか。佐倉もfjの時の助教授も「構造はわけがわからない」といいつのる。そして、しばらくこちらが相手の無礼を我慢しながら説明すると、いきなり今度はつけあがり「そんなのはあたりまえじゃないか、そんなものは学問には関係ない」といいだすのであって、要するに現実の社会や世界と対峙したときに他の人達が感じざるをえない断絶を、彼らはは感じることなく生きていられる、感じさせるような何かに対してはどんどん攻撃をしかける、ということらしい。でもこの「わからない」から「あたりまえ」に短絡する脊髄反射は、ようするに「ボク、なんにもかんがえてないもーん」というアピールでしかないのだけれど。
その昔、左翼は新左翼となった。さらに、識者はその言動の珍妙さから、新左翼からでてきたものは、珍左翼であった、と看破してみせた。ダーウィニズムからネオ(新)ダーウイニズムがうまれたが、佐倉の言動をみる限り、それはすでに珍ダーウィニズムの領域に突入していると判断せざるをえない。でも、せめて佐倉の本はと学会の眼鏡にかなうか・・・というと、どうもそれは可能性が低いようにおもう。と、いうのは、この世界、中村桂子とか竹内久美子とか、専門家っぽい風体でトンデモなことを書き散らすのが流行しているため、この類のモノは世に氾濫しているのである。繁殖している、といってもいいかもしれない。馬鹿やるのならばもっと徹底的にやらないといけないのではないですかねえ。
さて、ここからは余談である。横浜国立大学の文系所属の助教授、というのには知っている人間が一人いた。ある週刊誌の記事をきっかけとしたパソコン通信がらみの裁判を手伝っているのだが、その経緯に登場した「あっしゅ」というペンネームの「自称論客」がそれである。自称、というだけあって、シンパのいるところでしか発言しないし、議論といっても他人にみえないようにメイルでこそこそとやろうとしたり、きわめつけは、議論用の会議室を用意しても、議論をまともに行うこともできず、対立した人間(たまたま私だったのだが)をご丁寧にもそのコーナーにはいれないようにした上で、ようやくこちらを批判、というか罵倒できる、という実にケツの穴の小さい男だった。私のお気に入りのエピソードは、「家のひっこしをしたら本だけでダンボールが30箱もできた」と自慢なさっていたことかもしれない。まがりなりにも、文系の大学助教授の、40前後の「学者」とやらの所有する本がたったそれっぽっち、というのはとても雄弁であった。そんなの、大学院の学生が下宿をひきあげるだけでも30箱は軽く超える。まあ、所詮、論客が「自称」であった要因もこのあたりにあったのだろう。つまり、「本がよめない」のである。今回の佐倉による評を見て、同じ魂を感じた。つまり、勝手な思い込みが頭の中のすべてを占めているせいで、書評といいながら、その本の内容はまったく読めていない、というあたりが同質の臭気を感じる。もしかすると、大学の個性なのかもしれない。
1998.05.29/06.03/09.30