九歳の壁

 九歳の壁という言葉がある、と聞いたのはそれに類する実感を得た後のことだったので、特に違和感を覚えることもなかった。聴覚障害者のうち、中途で失聴した場合に失聴時の年齢によって以降の学習力や論理力に差ができる、その境となる年齢が九歳である、というものだ。大脳のニューロンネットワークが発達最も発達するのもこの時期らしい。聴覚障害と視覚障害の大きな違いはこの論理力の習得までの壁にあるといえる。ネットワークを通じて文字だけのやりとりをしてみると端的にわかることだけれど、ここには埋めることが不可能に思えるほどの深い断絶がある。聴覚障害者の場合、本人が他の聴覚障害者と自分を比べることができるほどに優秀の自覚があるような場合ほど、致命的なまでに思考力、特に論理的・抽象的思考力に欠ける。もちろん、日常的なたわいのない会話には問題はないし、「唇を読む」という技術と「看板や掲示が読める」という特質において聴覚障害者はみかけの上では健常者にみえてしまう。みえてしまうからこそ、聴覚障害者の「狭い世間」の中では(そして、特に中途失聴者の場合は)自分は他の障害者に対しては「自分は障害者ではない」といわんばかりの愚劣な態度をとるものが現れる。このあたりの醜怪なる現実についてはたとえばパソコン通信の「障害者SIG」のようなところの対話記録をじっくりとみてみれば実例には事欠かないので機会があればためしてみるとよい。もっとも、あまりの愚劣さに吐き気をもよおすこと必至だけれど(某大手パソコン通信では -というかPC-VANでは- 「自分はオンナ探しのためにSIGのリーダーをやっているのだ」と恥ずかしげもなく公言してはばからなかったり、「抽象的というのはようするに意味のないわけのわからないことだ」と決め付けている聴覚障害者が周囲に対してオピニオンリーダーを気取ったりしていて、ただの読み物ならば笑えるのだけれど、事情を考えると悩みがつきない、というケースは多い)。対話相手に論理的思考力がない、というのはなかなか大変なことで、しかも、ある程度のやりとりの末でないとそこまでわからないことが多い。実際、健常な人間といわれていても思考力にとぼしいパターンは現実としていくらでもあるわけなのでなおさらに始末が悪い。事実、最初のうちは僕も個人の能力の範囲の問題だろうと考えてしまっていた。具体例はとりあえずここではあげないでおく(と、いうか、あげてしまうと学内のNGのやりとりとあまりにも酷似していて内部的に問題になりそう。論理的思考力のない人間はどこにでもいますから…ねぇ(^_^))

 論理的な思考、というものは会話によって形成される部分がある。つまり、自分の思考と判断の外にあるものとの関係において自らの立つ位置を再構築する、という過程が内部的に不可欠なものだ。

余談だけれど、いわゆる「ばか」というのはこの能力に足りないもので、「自分の私的な認識」を勝手に一般化したり、「他人もおんなじに感じるものだ」と信じて疑わなかったり、「自分の苦労は他人も認めるべきものだ」とかやって周囲に迷惑をかけるが、それと同じ事が結果的に生じていく。ここに、「障害者なんだからケアしてもらって当然」といった自意識が重なると始末におえないものとなるわけだ。余談終わり。

 思考においてはリファレンスとなる、あるいは対立概念となる外部世界が必要なのだけれど、人間の入力として完全に「外部」なのは実は音なのだ。つまり、簡単にいうならば文字を「読む」行為はそのペースからなにから自分の自由な設定で取り込むことが出来るけれど、言葉を「聞く」行為は自分の勝手なペースで受用することができない。そこには自分の脳とは無縁な外部のリズムがあるのであり、自分の自由にはできない「外界」がそこにある。漢字というものの存在を知ってから失明した場合と知る前に失明していた場合とで視覚障害者の文字への感覚が異なってくるのと同様、丁度外界と失聴が自分の精神世界との関係を認識していく九歳頃をはさんで前か後かで思考能力がどこまで発達するかがある程度きまってしまう。九歳以前に失聴した場合、ここを乗り越えるのは極めて大変なもの、というのが「九歳の壁」なのだ。ただし、上に書いたように、日常生活にはみかけ上の支障はたいしてない。みかけの上では「普通に振る舞う」ことが可能なのである。それは「掲示がよめる」「唇が読める」ことによるのだが、現実にはもっと重要な情報は常に「音」で提供されるため、あくまでもそれは「みかけ」の上のものにすぎない。九歳の壁の自覚があればよいけれど、ない場合は「ばか」と同様の迷惑を周囲にかけることになるわけで、そういう状況を何度も目の当たりにしてしまったためになんとかこの「壁」をクリアする道具はつくれないものかと悩んでしまった。

 この「壁」は、実際には文盲に似ているといってもいいかもしれない。つまり、「はなせる」けれど「読み書きはできない」という状況が近い。また、「ごく簡単な対話」は可能なのだから、ポイントは文字のやりとりにおいて、強制的に外部からのリズムをのせること、また、場合によっては文字以外の情報を閉ざすことということになろう。文字以外の情報、というのは、つまり表情や唇をタイポとしての文字の延長として受用することをふせぐのである。この「文字の延長」は、別に聴覚障害者に限らず「自分勝手な思い込みによって相手を勝手にきめつける」手段として「ばか」が多用する問題点でもあるが、つまるところ「自分の思い込み」で勝手に納得してしまう余地を増やすことである以上、これによって論理的な思考力がにぶる。と、なれば「壁」克服の道具立ては意外と簡単なものだ。必要なのはモニタ内蔵のゴーグル(ヴァーチャルリアリティゲームで使うようなものだ)と、リズムを体に伝えるためのパルス装置。システムとしては、ゴーグル内のモニタにチャット内容が表示され、その一文字ごとにパルスを体に伝えるか、あるいは文字の表示リズムを話者ごとに設定しておく。対話はすべてキーボード経由で行い、いわばチャットやニュースと似たような環境にするわけである。対話内容は必要に応じて簡単な日常会話から時事問題、哲学談義のほか、差別やマイノリティの議題にすすめていくのがよいだろう。これを、日課として授業の一環にくみこむのである。ディベートや議論に慣れた教員が担当しないと大変なことと、教員自身が「ばか」だった場合、つまり、勝手な一般化や外部規範へのよりかかりを平然とみせるようなタイプであった場合は「壁」克服どころか問題がさらに悪化する、という最悪の事態も有り得る所が難しい点ではある。でも、これって大学なんかのネットワーク教育・情報教育において、へんに技術的な授業をする教員はうぞうぞいても、ちゃんとした情報社会にむけての一つのメソッドとしての情報教育を担当できる教員がほとんどいない、という人材の不毛と重なる問題であり、社会問題として考えていかなくてはならない最優先事項ではある。

 この「壁」克服システム、先にちょっと書いた「3D手話通訳システム」とあわせて、現在の情報システムを用いた実に有効なもの。やってみたい、という興味ある方はぜひこちらまでご連絡を。実は僕自身はなかなかこれにさく時間がないのである。アイデアだけは山ほどあるのだけれど…。


1997.01.02