第21回歯科麻酔学会口演発表原稿(口演発表を念頭において書いた原稿です)

 「歯科麻酔科医と在宅診療」

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 (スライド1 平成4年4月の保険点数改正)

 高齢者社会の到来を控え、歯科医も、高リスクを伴う高齢歯科患者の診療に無関係ではいられなくなりつつあるのは、周知の通りであります。このスライドは、昨年の保険点数改正により、在宅診療関係の大幅な増点があったことを示していますが、このこともあって、いわゆる在宅診療に関与する歯科医の数が、このところしだいに増加しており、各種歯科雑誌に掲載される在宅診療関係の記事も、その数を急激に増しています。しかし、歯科麻酔科医なら誰でも思うように、歯科医院への通院が出来ない、こうした在宅患者たちに、自宅で歯科治療を施すことは、高度の全身管理能力が要求される、極めて危険な行為であります。そして、本来全身管理の最たる担い手である筈の歯科麻酔科医と、実際に治療に当たる歯科臨床医たちとの間には、いまだに統一化された関係というものはありません。そこで、演者らが今回依頼されて行った、ある在宅患者の歯科治療の1例と、演者が在住する静岡県の在宅診療の現状を通して、歯科麻酔科医が在宅診療に、どのようにかかわったらよいのか、について考えたいと思います。

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 (スライド2 症例 ○山○る 既往歴、検査データ

 自験例は、91才女性。平成4年5月まで、家族に付き添われ当院に通院していましたが、自宅で右橈骨・尺骨を骨折し、それを契機として離床がほとんど不可能になり、通院出来なくなりました。それ以前より、下顎唯一の残存歯である左下顎第1大臼歯に、度重なる腫張と疼痛があり、消炎処置を繰り返していましたが、全身状態の低下にともない、患歯の炎症症状も悪化し、抜歯の止むなきに至りました。患者は、昭和57年より狭心症、平成2年よりC型肝炎の診断を主治医より受けており、C型肝炎に対して、インターフェロンの投与を受けていました。術前の血液検査は、一般的なスクリーニングしか施行できませんでしたが、ここに示すように、肝炎によると考えられる肝酵素群の上昇、肝機能低下およびインターフェロンによると思われる、血小板数の低下、肝炎の一部肝細胞癌化も疑わせる、αフェトプロテインの上昇がみられました。

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 (スライド3 術前心電図)

術前の心電図では、CRBBB・Left Anterior HemiblockとNon-specific ST-T changeがみられました。

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 (スライド4 歯科的現症)

 口腔内所見では、上顎はいずれも残根で8本残存しており、残根上義歯を装着していました。下顎の患歯は腫張と疼痛が著しく、この歯を鉤歯とする義歯の装着は不可能な状態でした。しかし、患歯の骨植は堅固で動揺はなく、いわゆる難抜歯も予想されました。

 当日は、救急用具一式を持参し、静脈路を確保して、抗生物質点滴静注下に抜歯を施行しました。この抜歯で最も懸念されたのは、血液凝固機能の低下による止血困難です。抜歯は分割抜歯となり、抜歯操作そのものは10分ほどで終了しましたが、吸引の設備がないため、術中よりの出血には、圧迫止血以外対処の方法がなく、縫合して止血を確認するまで約1時間を要しました。抜歯窩から出血した血液は、かなりさらさらした印象を与え、この血液を誤嚥させないために、非常な注意を払いました。幸いにもその後の止血は良好で、一週間後に抜糸することが出来、以後の経過は良好です。

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 (スライド5 −静岡県の在宅診療事業の現状−)

 以下のスライドは、静岡県の「寝たきり者等特殊歯科報告書」よりのものです。

 これは、平成4年度の、演者の在住する静岡県の特殊歯科への取り組みをまとめた表です。静岡県は、歯科大学・大学歯学部を持たないため、この種の特殊歯科、とりわけ在宅診療は、各郡市の歯科医師会が、その担い手となっています。具体的には、郡市の歯科医師会員の先生方の一部または全員が、交代で在宅診療に当たる、という形態を採っています。

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 (スライド6 −三島市のレポートより(1)−)

 これは、在宅診療と最も積極的に取り組んでいる、ある市の歯科医師会のまとめたレポートから、在宅診療を行う上での課題を抽出したものです。当然のことながら、実際に治療を行う会員の歯科医たちに、全身管理をいかに修得させるか、が強調されています。では、このような全身管理への要請は、どのような方面に委ねられているのでしょうか?

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 (スライド7 −三島市のレポートより(2) 実施の体系図

 この市の、在宅歯科診療の体系を表す模式図です。

 この図でも明らかなように、全身管理の担い手として位置づけられているのは、各郡市の市中病院の歯科でありますが、本学会の認定医が何らかの形で関与するという形には、現在のところなっていません。

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 (スライド8 静岡県の病院歯科及び歯科麻酔学会認定医の分布

 静岡県には、図のように、ほぼ全域に亙って、病院歯科が分布しています。

 しかし、もちろん、これらの歯科の勤務医全てが、全身管理を系統立って修めたというわけではありません。一方、静岡県歯科医師会の会員で、本学会の学会認定医を持つ者が、このように分布しているのですが、彼らが、各郡市の歯科医師会や各市中病院歯科と有機的に結び付いて、全身管理の指導的立場に立って、在宅診療に関与した、という例は、今のところほとんどないのが実情です。これでは、せっかくの学会認定医も、地域医療には全くと言っていいほど役に立っていない、といわれても仕方ありません。

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 (スライド9 沼津における2つの心電図の例)

 これは、在宅歯科治療と全身管理の問題を象徴的に提示しているある1例です。

 県内のある市で、在宅歯科治療に心電図モニタを短期間試しに使えることになり、治療に当たる歯科医が、心電図監視下に治療を行った後の報告書からの引用ですが、上の例では、アーチファクトによるアラーム発生に驚いた術者が、治療を即座に中止して酸素吸入まで行っています。しかし、よく見ればP波はちゃんとありますし、もともと低電位でハムが混入していたものが、アーチファクトを拾ったに過ぎないと考えられます。これに対して、下の例では、R-R間隔も一定せず、頻発する心室性期外収縮、とくにこのあたりでは(心電図の該当箇所を指す)かなり危ないのですが、この術者の書いたコメントを見ても分かるように、漠然と「波形が乱れている」という認識しか持ち合わせていないため、支台形成と根面形成、印象まで行っています。幸いにも、大過なくこの日の治療は終えることが出来たようですが。

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 (スライド10 結語

 結語をスライドに示します。

 今回の発表で、困難で危険な在宅歯科治療を、実地に行っておられる先生方の熱意を揶揄する意図は、もとよりありません。しかし、High Risk患者を相手とした在宅歯科治療は、常に非常な危険を伴うものであります。本発表前半で紹介した自験例のように、在宅診療としては可能な限りの生理学的・生化学的データを集め、事前に十分に対策を講じて臨んでさえ、予想を超える事態に苦慮することもありえるのです。もし、91才の老女が、治療中に心停止を起こしたとしたら、あの場で直ちに蘇生させ、元どおりの状態に戻すことが、100%の確率で果たして演者に出来たか否か、は確言できない、と告白せざるを得ません。

 在宅歯科診療は、元来、どちらかといえばextra serviseの側面をもっており、近年低下しつつあるといわれている、歯科医の社会的評価を向上させるのにも、役立つでしょう。しかし、全身管理体制の、組織的なバックアップを受けずに、現場の歯科医師たちや、歯科医師会の熱意のみで行う在宅歯科診療は、あるいは不幸な事故を招きかねず、そうなった時に、救急処置が正しく講じられなかった、ということが明らかになれば、せっかくの熱意も水疱に帰してしまいかねません。

 在宅診療を行った歯科医師は患者・家族に、皆ひとかたならぬ感謝をされたと、報告書の至るところに書かれています。演者の行った症例もそうでした。在宅診療の危険性を、治療担当医に十分に認識させ、全身管理面での、組織だったバックアップに、歯科麻酔科医が積極的に関与することが、全身管理の重要性を認識させ、安全に在宅診療を遂行させることにつながり、ひいては、このような麗しい医師・患者関係を継続発展させる一助になり得ると考えます。

 以上です。スライドありがとうございました。