天空のエスカフローネ 〜infinite〜

Act.34 走る
 ひとみは重い頭を上げると、ゆっくりと辺りを見回した。
 スメラが立ち去った後、こらえ切れずに泣き出してしまったひとみは、そのままソファの上で泣き疲れて眠ってしまったのだ。
 「んっ」
ひとみは泣き腫らして厚ぼったくなった目蓋をこすると、立ち上がって軽く伸びをした。
ひとみにかけてあった毛布が、ソファから床に滑り落ちる。
 部屋には誰もいなかった。
 ひとみは、部屋の奥のドアを開けた。そこには、簡単なキッチンや浴室といった生活臭のある空間が収まっていて、一角には、ひとみの世話をする女性達が待機している場所も設えてあった。
 だが今は、ここにも誰も居ない。ひとみは、お茶だ、食事だ、湯浴みだと、自分を甲斐甲斐しく世話する女性達をうっとうしく思っていたが、今はほっとする反面、えも言われぬ寂しさを感じていた。
 ひとみは冷たい水で顔を洗い、熱いシャワーを浴びた。
 体にも心にも、ねっとりと蜂蜜がからみついているかのように、何もかもがぼんやりとしている。
 こんなに泣いたのは久しぶりだった。
 今まで心の中に押し込めていた想いの全てが涙と一緒に吹き出し、その想いの洪水に押し流され、濁流にもまれ、ひとみの心は疲れ果ててしまっていた。
 ひとみは、いつまでもシャワーに打たれていた。
 「・・・私・・・どうしたら良い?・・・・ゆかり・・・」
ひとみの唇から親友の名がこぼれ落ちた。こんな時、ゆかりだったら何と言ってくれるだろう。
 ―ゆかり、天野先輩、お母さん、アレンさん、ミラーナさん、メルル・・バァン・・・皆に会いたい・・・皆と一緒に居たい・・・でも・・
『わかりませんか?あの者達にとって貴女は災厄をもたらす厄介者でしかないと言う事が』そう軽蔑するように言ったスメラの声が、脳裏から離れない。
 それに、ここを逃げ出したとしても、スメラ達がひとみを捕らえに再びやって来る。そうしたら、また家族や友人に迷惑がかかってしまう。
 自分がここに残ると言えば、スメラは、少なくともバァンとメルルを無事に帰す位の事はしてくれるだろう。
 ―・・・私は、ここに居た方が良いの・・・でも・・・ここは・・・・嫌・・
『本当に嫌な事は無理してやらなくて良いの。ひとみの苦しむ姿なんて、誰も見たく無いって。今一番大事な事は何?それを考えれば、おのずと道は開けて来るよ』
「ゆかり?!」
空耳だろうか?それとも、昔ゆかりから言われた言葉なのか・・・
 「・・一番大事な事・・・」
ひとみは、ゆかりの言葉を口の中で転がしてみた。
 ―・・・今、一番大事な事は・・・やっぱり、バァンをガイアに帰す事・・・バァンが帰らなければ、ファーネリアとアストリアの間に争いが起きるかもしれない。白いガイメレフの正体はわかったんだから、争いが起きる前に、早くバァンをガイアに帰なさくちゃ。・・・でも
ひとみの脳裏に、バァンの不機嫌な顔が浮んだ。
―でも、バァンは、私を置いてさっさと帰っちゃうような事、しないに決まってる。・・・ しないに決私、バァンに会わなくちゃ。一緒に帰れるかどうかはわからないけど、とにかくバァンに会わなくちゃ。・・・私は、バァンの力になりたいんだから! しないに決 心の整理がきちんと着いた訳では無かったが、ひとみは全身に力がみなぎって来るのを感じていた。

 ひとみは、廊下に続くドアをそっと開けてみた。案の定、ドアの前には見張りと思しき男性が立っている。
 「何かご用ですか?」
男はひとみの顔を見ると、にこやかにそう言った。
「い、いいえ、なんでも無いんです」
ひとみは作り笑いを浮かべながら、そそくさとドアを閉めた。
 「やっぱり見張り付きか〜。ってことはだ、作戦その1。今の人に頼んで、バァンに会わせてもらう。・・絶対無理だよね。じゃ作戦その2。スメラさんに頼んでバァンに会わせてもらう。・・バァンの事、嫌ってたみたいだし、簡単には無理ね。んじゃ作戦その3。走ってこのドアを強行突破。・・無謀だ・・・。う〜〜〜ん。どうしよう」
ひとみは頭を抱えて、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
 「よし!」
ひとみは、勢いよくソファに座り込むと、ポケットに入れていたペンダントを取り出した。
「取りあえず、バァンとメルルの居る場所を探してみよう」
ひとみは、ペンダントを目の前にかざすと、目を閉じて意識を集中した。
 「バァン、メルル、どこに居るの・・・」
ひとみの閉じた瞳の中で、ペンダントが大きく揺れた。
 「バァン!」
ほんの一瞬、バァンとメルルのビジョンが浮んだ。だが、ひとみの意識はそのまま何モノかに引きずられるように、有らぬ方向に向かって行く。
 「!」
ひとみは、無理矢理意識を引き寄せると目を開いた。
「なに・・今の・・」
意識を引きずられる感覚も恐ろしかったが、微かに見えたビジョンにひとみは強い不安を覚えていた。それは、洞窟の様に暗い空間と、大きな剣・・・
―なに?これ。嫌な感じ・・
 ひとみは、少しの間不安に身をすくませていたが、気を引き締めるように両手で自分の頬をぱんと叩いた。
「しっかりしろ!神崎ひとみ。バァンに会いに行くんでしょ!」

 ひとみはドアを開けると、見張りの男に声をかけた。
「あの〜、スメラさんに会いたいんですけど、どう行ったら良いんですか?」
「ああ、それでしたら、私が御案内致しましょう」
「あ、良いんです、独りで行きますから。道順だけ教えて下さい」
「そう言う訳には行きません。不測の事態に備えて、御一緒させて頂きます。貴女様の身の安全を守るのが私の役目ですから」
 ひとみは小さく溜め息をついた。やはりと言うか、当然と言うか、独りで出歩く事は許されない。ならば仕方が無い、
「わかりました。そしたら、道案内をお願いします」
「では、どうぞこちらへ」
男はにっこり笑うと、ひとみの前に立って歩き始めた。ひとみは、男の背中を見ながら、緩やかに曲がる長い廊下を進んで行った。
 ここの造りはとても変わっていて、廊下には脇道も階段も無く、どこまで進んでも左右の壁に同じようなドアが続いているだけである。廊下や階段、エレベーターと言った物は、全てドアの向こうにある。つまり、廊下のドアや階段のドア、エレベーターのドアと言った物が、部屋のドアと区別なく、壁に張り付いているのだ。これは、見た目を重視しての事なのか、迷路のような造りを目指したのか、それとも別の理由があるのか、設計者に聞いてみたいものである。
 しばらくの間黙って歩いていたひとみが、口を開いた。
「あの〜。スメラさん、今どこに居るんですか?」
「この先ですよ。もう見えて来ますから」
ひとみも男も、それきり口を開かなかった。
 ひとみは、男に気付かれないよう歩く速度を緩めると、手にかけたペンダントに導かれ、左手に表れたドアの中にそっと忍び込んだ。
 ドアの向こうには廊下が続いていた。
 ひとみは深呼吸をして息を整えると、全速で走り出した。
 すぐに、背後から「待てー!」という在り来たりな怒声が聞こえて来たが、ひとみはペースを崩さないよう、とにかく走った。
 いくつものドアを開け、角を曲がり、階段を下り、『バァンの元へ』それだけを想い、ひとみは走った。
 短距離を走るのであれば、ひとみにはかなりの自信があった。実際、追跡者との距離はどんどん広がってゆく。だがそろそろ、息が上がり、腕の振りも乱れて来た。肺の奥がちりちりと痛み、腕と足の筋肉が悲鳴を上げている。
 ―もぉダメ、限界
だが無情にも、追跡者はひとみの足音を、ドアの開閉音を確実に捕らえ、ひとみの後を正確に追い掛けて来る。
―やだ、追い付かれる!だめ
「だめ!」
その瞬間、ひとみの体は光に包まれ、その場から消え去ってしまった。
 少し遅れてその場にたどり着いた追跡者は、ひとみが消えた事に気づきもせず、有らぬ方向へと駆けて行った。

 光の柱に運ばれて、ひとみは薄暗い場所に降立った。
「ここ、どこ?」
どこかはわからないけれど、”下に降りて来た”という感覚だけはあった。
―地下室か何かなのかな?
ひとみは、荒い息をつきながら辺りを見回した。
 そこは薄暗い洞窟の様な空間で、奥に祭壇の様に少し高くなった場所が有り、そこに敷かれた紫紺の天鵞絨の上に、大きな剣が置いてあった。
「ここは・・・さっき”見えた”場所・・・」
呆然と立ちすくむひとみの背後から、声が上がった。
 「これは、神崎ひとみ。光の柱でお出ましとは、驚きましたよ」
ひとみが振り返ると、少し離れた場所にスメラが立っていた。
「スメラ・・さん・・。なんで、ここに・・・」
ひとみは驚いて、それ以上言葉が出てこなかった。
 「忘れていましたよ、貴女が、光の柱を使ってどこでも自由に行き来する事が出来る、という事を。それで?この島の最下層部に何かご用でも?」
スメラはゆっくりとひとみに向かって歩きながら、淡々と言葉を続けた。
「それとも、私の呼び声に答えて、来て下さったのですか?」
「貴方の、呼び声?」
「私は、ずっと貴女を呼んでいたんですよ。ずっと、ずっと前から」
スメラは、手を伸ばせばひとみに触れる事が出来る程近くまで来て、歩みを止めた。
「貴女と会う前から、ずっと。貴女は本当に素晴らしい。その能力(ちから)も、その姿も。先程、光の柱を始めて見た時、心からそう思いました」
 ひとみは、自分を見つめるスメラの顔を見つめ返しながら、胸に小さな違和感が沸き上がって来るのを感じていた。

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