バァンは、ひどく重たいまぶたを薄らと開いた。視線の先に白い天井が見える。
―・・・助かった・・のか・・
『だが、どうやって?それにここは?』バァンは自問した。
―俺は、海に落ちて・・・
バァンの脳裏に真っ暗な海と、そして、白い翼の男に抱かれたひとみの姿がよみがえって来た。
―そうだ、ひとみ!ひとみはどうしたんだ?!
バァンは体を起こそうとした。だが体は、自分の物ではないかのごとき重さで感覚もなく、指先一つ動かす事が出来なかった。バァンはどうにかして動こうと必死だったがどうする事も出来ず、いつの間にか、意識は現実世界から滑り落ち自己の内へと沈んで行った。
「ひとみぃーー!!」
バァンは、エスカフローネから落ちたひとみに向かって必死に右腕を伸ばした。
体勢を崩してエスカフローネから落ちそうになったひとみの手を、バァンは確かに掴んだはずだった。けれど、バァンの右手は、重力に引かれるひとみの体を支えるだけの力を持たなかった。
「ひとみ!!」
ひとみは海に向かってまっ逆さまに落ちて行った。海岸で受けた右肩の傷が無ければ、ひとみの手を離す事など絶対になかったのに。
「ひーとーみぃーー!!」
バァンはひとみを追い掛けてエスカフローネを飛び下りようとした。
だが、エスカフローネには、バァンに悪意を抱く男がまだ乗っていたのだ。男は、ひとみの元へ飛び下りようとするバァンに背後から飛びかかり、その手に握ったナイフを振り上げ、バァンの背を左肩から大きく斜に切り裂いた。男は、切り裂かれた勢いのまま空に身を投げたバァンを見て、自身の任務が全うされた事を確信した。
だが次の瞬間、切り裂かれたシャツの切れ目から吹き出すように現れた翼に、男は視界を覆われた。男はバァンの翼に打ち付けられるように操演宮に転がり落ちた。月明かりに照らされたバァンの背には、右に青白く輝く純白の翼、左に血に染まった紅の翼が現れていた。けれど、翼はその役目を果たす事が出来なかった。
背の傷で羽ばたく事さえ出来ず重力に引かれて落ちるしかないバァンは、それでもひとみの姿を求めて首を巡らせた。そしてバァンは、ひとみが憎むべき長い髪の男に抱き留められている姿を見つけた。バァンに向かって叫びながら手を伸ばすひとみ。そのひとみを抱いた男の背には、バァンと同じ白い翼がある。バァンはひとみに向かって手を伸ばしたが、重力に逆らうにはあまりにささやかな抵抗だった。
バァンは白い羽根と紅の羽根を散らしながら落ちてゆくしかなかった。
背中に衝撃が走り、冷たい水が呼吸の邪魔をする。
最後に、波の向こうでゆれる月を見たような気がした。でもそれは、記憶の混乱が見せた幻であろう・・・
バァンは再び白い天井と向き合った、が、すぐに薄く開いた目を閉じてしまった。
まぶたが熱かった。
奥歯を噛み締めてこらえたが、口惜しさが後から後からあふれ出て来る。
「・・・ひとみ・・メルル・・・」
バァンは嗚咽のように小さくつぶやいた。
「お目覚めですか?」
バァンのつぶやきに答えるように、すぐ近くで声がした。
バァンは声のする方へ首を向けた。今度はすんなりと、体が言う事を聞いてくれる。
声の主は白い服に身を包んだ年配の男で、一目で医術者と分かる風貌をしていた。その男の背後には大小様々な箱型の機械が積んであり、その幾つかの表面には光の点が様々な波の模様を形作っては消えていた。
「そろそろお目覚めになると思って待っておりました。どこか痛む所はありますか?」
「いや、特には。それよりも・・」
「まあ、お待ちなさい」
白衣の男は、上半身を起こそうとしたバァンの腕を軽く押さえて横になっているように促した。
「急に起き上がるとめまいを起こしますよ。血圧がまだ低い様ですから、もう少し横になっていて下さい」
白衣の男はそう言うと、背後の機械類のチェックを始めた。
バァンは横になったまま、周囲を見回した。部屋は、壁も天井も床も乳白色で、意外に広く、白衣の男以外にも医術者と思われる男女が3名程働いていた。バァンを挟んで機械類の反対側にはドアが一つ見える。窓は確認出来ない。
「ここは、何処だ?」
バァンは白衣の男に向かって尋ねた。静かな物言いだったが、威厳と苛立ちに満ちた声だ。白衣の男は驚いたように振り向いくと、背筋を伸ばし丁寧に答えた。
「ここは治療室と病室を兼ねた医務室です。貴方は背中と肩に大きな傷を負っておりましたので、ここで治療させてもらいました。傷そのものはそれ程深い物ではなかったのですが、失血が激しく、一時は命も危なかったんですよ」
男の話を黙って聞いていたバァンはゆっくりと上半身を起こすと、
「そうか。命を助けてくれた事には礼を言う。だがお前はまだ俺の質問には答えていない。ここは何処だ?」
そう静かに言った。室内にいた全員がバァンを見た。バァンの言葉は静かだが、言霊のように有無を言わせぬ力を持っていた。
「それは・・・」
白衣の男が恐る恐る口を開いた。
「我々には、それを語る資格を与えられておりません。語れる者を呼んで参ります」
白衣の男は室内にいた一人に目配せし、『語れる者』を呼びに行かせた。
『語れる者』はすぐに姿を現した。その男は海老のように身を屈めて部屋に入って来たかと思うと、幾らも歩かない内に膝を付き、バァンに向かって頭を垂れた。
「申し訳ございませんでした」
バァンは男をいぶかし気に見つめていたが、男がいつまでもそうしているので、仕方なく声をかけた。
「顔をあげろ」
恐る恐る上げた男の顔、それは事もあろうに、バァンに傷を負わせたあの男の顔だった。
「お前は?!」
「申し訳ございません!」
バァンの怒声さえかき消す程の勢いで、男が再び詫びの言葉を口にした。
「知らなかった事とは言え、貴方を傷つけ命の危険にさらした事、許していただけるとは思いませんが、せめて貴方の役に立つ事で、少しでも私の過ちを償わせて頂きたく、こうして貴方の・・・・・アトランティスの御子の前にこの醜態をさらしに参った次第です」
「・・アトランティスの?」
バァンは呆然とそう聞き返した。男はバァンの問いを受け、うやうやしく答えた。
「アトランティスの御子・・・白い翼を背に持つ貴方の事です」
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