天空のエスカフローネ 〜infinite〜

ACT.1 ひとみ
 駅前の大通りから少し外れた所にある、瀟酒な喫茶店。
「たく〜。何やってんだろ、あの子!」
喫茶店の入り口に立って駅の方を見ていた少女が、腰まで届く赤みがかったストレー トヘアをかき上げながら、苛立たしげにつぶやいた。とその時、駅の方から駆けて来 る見慣れた人影を見つけた少女は、ほっとしたようにその人影に向かって大きく手を 振った。
 その人影は大きく肩を喘がせながら、すぐに喫茶店の入り口に到着した。駅からずっと全力で駆けて来たのだろう。柔らかい栗色のショートヘアが乱れ、額にはうっすらと汗をにじませている。
「ひとみ。もー、遅い!5分遅刻。大ちこく!!」
「すまん!ゆかり。レポートに手間どっちまって。」
ひとみは、にぱっと大きく笑いながらゆかりに謝った。ゆかりは、もう仕方がないな 〜という顔をしながら大げさなため息を一つすると、意地悪っぽくひとみに言った。
「中で、天野先輩が待ちくたびれてるわよ。」
深呼吸をするために振り上げられていたひとみの手が、空中で動きを止めた。
「え〜っ、天野先輩も来てるの〜!?」
ひとみは情けない声を出しながら、空中で動きを止めていた手を頭頂に落とすと、あ わてて乱れた髪を整えはじめた。
 天野はゆかりの恋人だ。もう随分と前から、人もうらやむ公認のカップルなのであ る。けれど、優しくルックスも良い陸上部のエースであった天野は、ひとみの憧れの 人でもあるのだ。ただし、ひとみには好きな人がちゃんといて、ゆかりもその事は承 知している。だから、憧れの人の前では、いつも以上にきちんとしていたいと思う、 ひとみの乙女心に、あえて文句を唱えないゆかりであった。
 ゆかりは、また大げさなため息を一つして、乱れた服装を整えているひとみを見た 。ミニスカートから伸びたひとみの両足は筋肉が浮き出し、理想的な走者のそれとな っている。が、ウォーミングアップされていない時は、細身で形の良い物であること を、ゆかりは良く知っている。ぴったりとしたTシャツをまとった上半身も、決して 華奢ではない、均整のとれた細身である。しかし、中学・高校を共にしてきたゆかり には、その体つきが少女の物から女性の物に変わりつつあるのを見のがさなかった。
『ひとみ、大人っぽくなったな。』
ゆかりはそう思うと、にやりと笑い、背後からひ とみのウエストに手を回して抱きついた。
 「ひとみ〜。あんた、最近ちょっとグラマーになってきたんじゃないの?」
からかう様なゆかりの口調と、突然抱きつかれた事で、ひとみは頬を赤く染めて叫んだ。
「っひゃ〜。何おやじ臭い事言ってんのよ!もう。天野先輩待ってるんでしょ。中、 入ろ。」
そう言いながら、ひとみは逃げるように喫茶店のドアをくぐった。
 店内を見回したひとみの目に、窓際の一番奥のテーブルに座る天野が映った。天野 は、ひとみとゆかりの姿を見つけると、軽く手を上げて微笑んだ。  
「先輩。お久しぶりです。」 ひとみは天野の前まで歩いて行くと、背筋を伸ばしたまま、テーブルに額がつかんば かりの勢いで頭を下げた。天野はそんなひとみを見て、苦笑した。
「おいおい、部活じゃないんだからもっと普通に挨拶してくれよ。相変わらず元気だ な、神崎は。」
天野の言葉にテレ笑いするひとみを尻目に、ゆかりは天野の隣にさっさと座るとメニ ューを広げた。そして、向かいに座ったひとみに向かって身を乗り出し、芝居がかっ た口調で言った。
「ひとみ〜。私を待たせた上、天野先輩に席取りまでさせたんですからね。おごって もらうわよ〜。」
「・・・うん・・・。」
しょぼんと返事をするひとみに、天野は助け船を出した。
「ゆかりに無理言って付いて来たのは僕なんだから、今日は僕におごらせてくれない か。」
 ひとみは天野の言葉をさえぎる様に、大きく手を振りながら言った。
「そんな、先輩。遅刻してきた私が悪いんですから、今日は私が・・・。」
 「男としての面子ってものもあるんだよ。」
ひとみの言葉をさえぎって、天野が微笑みながら言った。ひとみは、どうしようかと 、ゆかりに目で助けを求めると、ゆかりは笑いながらウインクをして見せた。
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます。」
ひとみは天野に深々と頭を下げた。そんなひとみの姿を見て、ゆかりは「ぷっ」っと 吹き出した。ひとみも顔を上げると、愉快そうに微笑む天野とゆかりを交互に見て、 「ぷっ」と吹き出した。そしてしばらくの間、3人は楽しそうにくすくすと笑い続けた。

 「さて、」
ひとみにフルーツパフェ、ゆかりに紅茶とレモンパイ、天野にコーヒーとホットサン ドが運ばれて来たところで、ゆかりが口火を切った。
「今日、我々がここに集まった目的は、鎌倉北高校陸上部同窓会で撮った写真の、仕 分け、発送作業のためなのよね?」
妙に重々しい口調で話しかけてくるゆかりに、ひとみはにやにやしながら答えた。
「そのとーり。で、これがそのブツ。良く撮れてるわよ〜。」
満面にいたずらっぽい笑みを浮かべたひとみが差し出した写真には、ウエディングド レスをまとったゆかりとタキシード姿の天野が、仲良く並んで写っていた。
 他にも、と、ひとみがバックの中を覗き込んでいる間に、天野が写真を取り上げて 言った。
「本当に良く撮れてるな。それにしても手の込んだ事考えるよな。みんな。」
「ひとみまで私のことだましてたのよね。」
苦笑している天野の横で、ゆかりは手を前に組んで怒りのポーズを取って見せる。ひ とみは、そんなゆかりの言葉など意に介さず、目の前に写真の山を積み上げて二人に 言った。
「だから、出来上がった写真位は、一番に見せてあげてるんじゃないのぉ。では、大 体の仕分けは済んでるんで、遠方の人には郵送、学校が近い人の分は手渡しでお願い しま〜す。」
 実は、ゆかりと天野は、ゆかりが高校を卒業した翌月に正式に婚約している。早す ぎるんじゃという声もあるにはあったが、天野は大学卒業後、両親の住むロンドンに 移住する事になっており、ゆかりも天野に付いて行く決心を固めていた。そこで、天 野の両親が日本に一時帰国した際、正式に婚約をしたのだ。この事を知った陸上部員 一同は、高校を卒業したばかりのひとみ達OBを中心に、鎌倉北高校陸上部同窓会と銘 打った、ゆかりと天野の婚約披露パーティーを計画。ゆかりと天野には、今度の同窓 会は仮装パーティーで、衣装は会場に用意してあるからと言って、まんまと二人にウ エディングドレスとタキシードを着せることに成功し、目の前の写真が出来上がった 訳なのだ。
 「ひとみったら、自分もドレスを着るからなんて言ってさ・・・。」
ゆかりは、写真を見ながらぶつぶつと文句を言っている。言うほど怒っていない、む しろ、嬉しさを隠すために怒って見せている事を見抜いているひとみは、涼しげに
「へへ〜、私のミニドレス姿も、なかなかのもんでしょ。」
と言って、1枚の写真をゆかりに見せた。写真には、ウエディングドレスをまとった ゆかりの横に、白いミニスカートに白い大きなレースの衿を付けたノースリーブでピ ンク色のドレスを着たひとみが、写っている。
 「これは強烈だな。」
天野が差し出したのは、男子部員が鎌倉北高校の女子制服を着ている姿だ。他にも、 猫の着ぐるみを着ている者や、魔女の格好をした者、水泳パンツにうきわを抱えた姿 の者までいる。
「皆が仮装しているものだから、こんな事企んでいたなんて思いもしなかったよ。」
写真を見ながら噴き出しそうになる口元を押さえて、天野が言った。
 一通り、写真の整理がついたところで、天野がひとみにたずねた。
「大学の方はどう?夏の大会では良い成績出してたみたいだけど。」
ひとみは大学に進んでからも、陸上を続けていた。そして天野も。
「先輩こそ。大学陸上界じゃ、もう有名人じゃないですか。」
ひとみの言葉をうけて、ゆかりも得意げに言った。
「そうよ!天野先輩は、将来の陸上競技界を背負って立つ人なのよ。」
「おいおい、そんな大袈裟な。まあ将来は、スポーツに関することで食って行ければ とは思っているけどね。」
 軽い調子でそう言った天野だが、スポーツを生業にすると言うのは本気のようだ。
「先輩すごい。もう将来の事とか決めてるんですね。」
ひとみは尊敬の念を込めて天野に言った。
「もう、ひとみったら、寝ぼけた事言ってんじゃないの。ひとみだって、将来どうす るか、そろそろ考える時期でしょ。」
ゆかりはあきれたように言うと、カップの底に残った紅茶を飲み干した。ひとみは、 ゆかりが短大の国文科に通うかたわら、熱心に英会話教室に通っているのを知ってい る。そして将来、ロンドンで日本語を教える仕事に就ければ良いなと言っていた事も ・・・。
 高校の3年間、ひとみは陸上も勉強も本当に一生懸命がんばってきた。あいつに負 けないように。でも考えてみればその3年間は、陸上と大学受験という目の前のハー ドルを超える事だけを考えていればよかったのだ。これからは、飛び超えるハードル を自分で選んで、時には自分自身でハードルを築きながら、生きて行かなくてはいけ ない。
 ひとみは、思った。私、大学を卒業したらどうしよう。ううん、私はどうしたいん だろう?このまま、どっかの会社に就職して、OLやって、それから・・・。
 ふと前を見ると、ゆかりと天野が仲睦まじく談笑していた。そんな二人の姿を見て いると、ひとみは一人でいる自分をちょっぴり寂しく感じてしまう。ひとみは視線を 窓の外に移した。青い空に白い月が小さく輝いている。ふいに、白い羽根が1枚ひと みの目の前に現われ、ふわりと手の平に舞い降りると、光に溶けるように消えていった。
 「バァン・・・。」
 ひとみは微笑みながら小さくつぶやくと、寂しげにまた月を見上げた。

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