パキスタン・アフガニスタン編

1974年の11月末に、僕と,かみさんの二人はパキスタンのカラチから入って、列車とバスを乗り継いでパキスタンを縦断して国境の町ぺシャワールから、アフガニスタンの首都カブールまで二週間ほどかけて旅しました。
パキスタンの北、ラワルピンジ、イスラマバードからペシャワールにかけては、中近東からインドに向かうアジアA1ルートで、当時のヒッピー達の往来でにぎやかで、アフガン戦争もまだ始まっておらず、良い時代でした。旅の途中で、ずいぶんいろいろな人たちと出会い、危険な目にも合いましたが、また当時のパキスタン、アフガニスタンの人たちの、親切にも助けられもしました。今、テレビで、戦火で荒廃したカブールの町を見ると、とても悲しい気持ちになります。


パキスタン中部にある、インダス文明の遺跡、モヘンジョダロの夕焼け。夕焼けの古代都市の丘の上からは遠くインダス川が見える。
丘の上の建造物は、ストゥーパ(仏塔)と呼ばれ、古代の文明が滅んだあとの起源2〜3世紀ごろの仏教遺跡と言われている。

ここには研究者向けの宿舎があって、僕たちはここに泊めてもらいました。

 

4000年以上前のレンガを積んだ町並みがそのまま残っていて、人気のないその町を歩いていると、時代を超えた不思議な感慨に襲われます。

モヘンジョダロで、僕たちは先生に引率された小学生の遠足の一団に出会った。彼らは、みんなでパキスタンの歌を歌ってくれて、僕にも何か日本の歌を歌ってほしいというので、僕は,「荒城の月」と「五木の子守り歌」を歌いました。
「荒城の月」は、モヘンジョダロの遺跡の風景に奇妙に合っていました。

なぜか、通り掛かりのバイクの青年もいっしょに写真に入っている。

パキスタン北東部、アフガニスタンとの国境に近い町ペシャワールで食堂から、表の通りを見たところ。僕たちはこの食堂の上にあるホテルに泊まっていた。そのホテルは、僕が泊まった中でも最低のホテルだった。ドアーは鍵がなくて針金を曲げたものを引っかけるだけだったし、ベッドシーツは真っ黒で、一つだけある小さな窓はガラスが割れていて、冷たい風が吹き込んできた。でもすごく安かったので、貧乏旅行の僕にはありがたかった。

バスで移動中の休憩時間、インダス川のほとりで。

ペシャワールを出て、国境を越えると、シルクロードのルートの一つになっているカイバル峠にさしかかる。厳しい岩山のつながる峠の脇には古い道がまだ残っていて、時々ラクダの隊商がとおって行くのが見える。本当ここでは時間がゆっくり流れている。

ソ連による侵攻前のアフガニスタンの首都、カブールの街は平和で、人々は皆親切でした。

カブールの町のバザール。
僕はここでアフガンコートがほしくて同じ店に二日通って、値段の交渉をしたけれど、その店のおやじさんがとても良い人でいやな顔ひとつせず、店の奥のへやで、こたつに入れてもらった上、チャイまでご馳走になった。サンダリーと呼ばれているこたつは、日本のものとまったく同じだった。どういう経路で日本とつながっているのだろうか。

アフガニスタンはいろいろな民族から成り立っているようで、アラブ系の顔つきが多いけれど、彼のように蒙古系の顔をした人もよく見かける。

このころ旅行者の間では、カブールについたら、チキンストリートのステーキハウスというのが合い言葉になっていた。アラブの食事にいささかうんざりした旅行者達は、安くステーキが食べられるこのレストランに必ず寄った。僕はここで偶然にも、ヨーロッパから中古のワーゲンでやってきた友人達に出会った。これはそのレストランの前での記念撮影。この中に若き日の僕も入っています。