第53回配信・付録
ミロシェヴィッチ公判メモ


2月19日 マフムート・バカリ証人
   検察側冒頭陳述とそれに対する被告側冒頭反論がようやく本審議5日目の18日午前で終わり、検察側は最初の証人としてM・バカリ氏を出廷させた。氏はかつてミロシェヴィッチ被告が登場する以前のコソヴォ共産主義者同盟(以下、共産党)の幹部を務めたが、党内対立から離党。しかし一党独裁崩壊後も政治的影響力を保ち、セルビア当局との対立が深刻化した時期にはルゴヴァ氏らとともに連邦大統領だったミロシェヴィッチとも会談している。同時にコソヴォを代表する知識人としても評価され、昨秋の議会選では「コソヴォ未来のための連合」から当選を果たした。
   検察側はコソヴォ・クロアチア・ボスニア3件合わせて300人、コソヴォ関連だけでも80人の証人を用意しているという、そのトップバッターとして起用されたバカリ氏は、現場証人ではないのでセルビア人勢力の蛮行の目撃談こそないものの、コソヴォに対する ベオグラード当局のシステマティックな抑圧を語るものと期待された。検察側の質問に応じる形で、バカリ証人は89年のコソヴォの戦い600周年のミロシェヴィッチ演説が象徴的な形で行われ、その後憲法上の抑圧が始まったこと、98年の紛争を前にミロシェヴィッチの側近、後にミロシェヴィッチ本人と代表団の一員として会ったこと、セルビア共和国警察がヤシャリ一族を皆殺しにしたこと、などを話した。

   しかし翌19日から、被告側の反撃が始まった。ミロシェヴィッチ(以下、被告)は、「コソヴォの戦い600周年祭での演説が、アルバニア人の権限剥奪につながって行った」というバカリ氏(以下、証人)の証言に対して、憲法改訂は演説の3ヶ月前だったことを突く。

被告:あなたは憲法改訂は89年3月28日だったのを知っていますか?
証人:日付はよく覚えていません。
被告:憲法改正にはコソヴォ議会の承認が必要なのは知っていますね?

   ミロシェヴィッチ政権下のコソヴォのアルバニア人は「アパルトヘイト」を経験した、という証言に対して言葉の定義を要求する。

被告:あなたには国連のアパルトヘイトの定義を読まれることを勧めます。まあいい。次の質問です・・・。

   この辺はまだ揚げ足取りのレベルだと言っていいが、被告の質問は次第に「セルビアの抑圧」よりも「アルバニア人民族主義」の強さを誘導する方向に向いた。アルバニア人が企業を解雇された、という証言に対して、アルバニア人従業員が罷業をしたことを言わせ、

被告:つまりコソヴォ共和国を望むアルバニア人労働者が労働をボイコットしたのであって、解雇ではありませんね。(中略)
被告:コソヴォはアルバニアの一部ですか?
証人:違います。
被告:コソヴォはセルビアの自治州ではありませんか?
証人:かつてはそうでしたが、歴史の一時点での妥協の産物です。
被告:(歴史の一時点とは)いつのことですか?
証人:第2次大戦後の憲法です。セルビアの内部でいつも自治権があったのは認めます。しかし1912年以降のアルバニア人の政治目標と、セルビア人の政治決定は異なっていました。アルバニア人はいつもセルビア人の支配を免れたいと思っていました。だからこそ『コソヴォ共和国』が民族要求になったのです。
被告:(中略)独立を決定したという住民投票で、アルバニア人は賛成票を投じましたよね?
証人:はい。
被告:セルビア人はどうですか?
証人:まだです。将来的にはコソヴォ住民としてセルビア人にもアルバニア人と協調でき、平等な権利を保障されることが分かってもらえればと思います。
被告:トルコ人は、その他の少数民族は?
証人:・・・。
被告:少数民族であるはずのアルバニア人が、それ以外の民族をみんな殺したり追い出したりしてでも自分の国が欲しいということですか?
証人:(いら立って、セルビア語で)アルバニア人は少数民族ではない!

   アルバニア語で話を続けていた証人が被告の挑発に突然セルビア語で声を荒げた時点で、被告の「優勢」は決定的になった。次に被告は、証人が80年代前半共産党官僚として、アルバニア人デモをむしろ抑圧する立場だったことを突く。検察側質問に対する証言の内容とは別に、「証言を信用するに足りない」と判事に印象させるまで証人自身の立場(正当性)を崩して行くのも裁判戦術だ。抑圧していた立場の人間は、「あいつも抑圧していた」とは言えないのが原則なのだから。

被告:81年4月2日のデモ鎮圧に、ユーゴ連邦軍出動を要請したのはあなたではありませんか?
証人:オー、マンマ=ミーア!・・・違います!
被告:(それでも事態が収拾出来なかった)17時の時点で空軍の介入要請を出したのはあなたでは?
証人:違います!
被告:しかし4月17日に記者会見で、「デモは敵対分子の破壊的活動であって、憲法で認められる範囲の権利要求ではない」と発言しましたね?
証人:そう言いました。デモ隊に共感を覚えなかったからです。
被告:アルバニア人デモ隊はアルバニア人の味方ではない?
証人:民族主義はいかん、ということです。

   この他にも被告は、証人が前日「(政党などに)非従属の知識人である」と言ったことに対して、実際はコソヴォ右派政党から当選した議員であることを認めさせ、「でも党員ではないんだ」などと苦しい答弁をさせている。また「ベオグラードの大学を出たあなたは私のセルビア語が分かるはずだ。ヘッドホンを付けてしかめ面をしながら同時通訳を聞いていることはないでしょう」とイヤミも少々。もうこうなると被告のペースで、「セルビア人の抑圧などはなかった、アルバニア人には言論の自由もその他の権利もあったのに、アルバニア人の民族主義だけがムチャクチャだったんだ」という方向にどんどん進んでしまった。証人、しどろもどろである。検察官たちはポーカーフェイスを保っているが、内心は穏やかではないだろう。

被告:あなたは90年代、反セルビア民族主義、反ミロシェヴィッチの立場でいろいろな新聞に論説を発表した、と証言したが、それにより何か制裁や不快な経験をしましたか?
証人:私はありません。友人でそういうケースもありました。
メイ裁判長:証人は自分のことだけ答えて下さい。
証人:私はありません。(中略)
被告:99年以前、アルバニア語の新聞は発禁になっていましたか?
証人:メディアは存在しました。しかしリリンディヤにしてもブイクにしても、コーハディトーレにしても発行されては潰され、また発行されての連続でした。
被告:コーハディトーレ紙はランブイエ会談(99年春)の合意文書を全文掲載したのではありませんか?
証人:ランブイエの文書は全部読みました。しかし私は当時スイスにいたので、コーハに出ていたかどうかは知りません。(中略)
被告:セルビアには27の民族が住んでいるのは知っていますね?
証人:・・・。
被告:アルバニア人の立場・権利は、憲法・法・人道法的にハンガリー人やルーマニア人、スロヴァキア人やブルガリア人と違うのですか?
証人:はい。アルバニア人はセルビア民族主義者にとって邪魔者なのです。200万のアルバニア人と20万のブルガリア人やロマ人を比較は出来ません。
被告:ベオグラードには7万のアルバニア人がいて、革命大通り、これはあなたも学生時代よく歩いたと思いますが、ここにはアルバニア人店主の名の店もたくさんあり、それでもガラスを割られたりしたことはないのはご存知ですか?
証人:(セルビア語で)そういうことはあったが、あなたが知らないだけです!(中略)
被告:コソヴォの経済がアルバニアよりずっと上を行っているのは、セルビア人がアルバニア人を抑圧したからですか?
証人:・・・(苦笑)。
メイ裁判長:答えられないならその旨言って下さい。

   証人と、彼をトップに起用した検察側の完敗だった。ベオグラードの各紙誌はおおむね反ミロシェヴィッチ色だが、ミロシェヴィッチ被告の「リード」、検察の戦術ミスを大きく取り上げ、中には「(ミロシェヴィッチは)政治家より弁護士でもやっていた方がよかった」などというものも。「拘置所での情報は制限されていて、バカリが証人として来るなんて知らなかった」と言う被告だが、実際には81年のバカリの発言記録まで準備しており、相当優秀な法曹家チームがバックに控えて密にコンタクトを取っていると推測される。

2月21日 フェヒム・エルシャニ証人
   20日からは現場の目撃証人が登場し、21日は3人のコソヴォのアルバニア人がミロシェヴィッチ被告と対決したが、いずれもいかにも農村部出身らしい、裁判所とも政治家ともおよそ縁のなさそうなごく普通の人々である。その中で毅然とした態度が目立ったのがオラホヴァッツ市ナガウツ(セルビア語名ノガヴァッツ)村で農業を営むエルシャニ証人(67)だった。彼はユーゴ空爆(99年3月)開始直後にセルビア警察・ユーゴ軍が集中的にアルバニア村に攻勢を掛けた事実を証言した。
   ナガウツ(人口約800、ほぼ全員がアルバニア人)村をセルビア人勢力が攻撃したのは99年3月25日、空爆開始の翌日だった。戦車2台、装甲トラック2台の後ろには歩兵部隊も付いていた。砲撃、銃撃が近くにも加えられ、証人の家もガラスが割れ天井が壊れたので、近隣のイズヴォル=チラヴェ村に逃げたところ、やはり近くの村から逃げてきたアルバニア人が2万人ほどになっていた。家族は他の2万人と一緒にプリズレン経由でアルバニアに避難することになったが、証人夫妻はナガウツの自宅に戻り様子をみているとセルビア警察が侵入してきて危なく殺されそうになった。幸い他の警察官が助けてくれて、「ここは危ないからアルバニアにでも逃げろ」と言う。アルバニア国境でも身分証明書を取り上げられるなど、大変な困難の中で国境を越えた。
   被告は証言を詳しく聞いていて、またも証人の正当性を突こうとする。

被告:あなたは農業をやる前は市役所の会計をやっていたと言うが、市役所じゃなくて給与支払調整局じゃないですか?
証人:そういう名前かも知れませんが、一般に市役所と言ってました。
被告:市役所ですか?給与支払調整局ですか?
証人:・・・給与支払調整局です。(中略)
被告:最初にアルバニアに行こうとした時の状況をもう一度説明して下さい。
証人:税関吏はいなくて、警官だけしかいませんでした。
被告:しかし「アルバニアなんかには行かせない」と税関吏が言ったんじゃないですか?私じゃなくてあなたがそう証言したんですよ。
証人:覚えていませんが、だとしたら訂正します。誰に言われたか覚えていませんが、とにかくセルビア人勢力から「アルバニアなんかには行かせない」と言われ、トラクターでプリズレンへ向かったんです。

   証人はしかし、ひるまずに被告と対決を続ける。

被告:アルバニア国境で身分証明書を取り上げられたというようなことは、昨日の証人は言っていません。あなたは何で取り上げられたんですか?
証人:それはあなたが一番よく分かっているはずです。(中略)
被告:アルバニアのどこへ行ったんですか?
証人:判事さんならともかく、あなたにそれを答える必要は感じません。
メイ裁判長:では私から質問に答えて下さい。

   被告の誘導と挑発にノセられっ放しの政治家バカリ証人よりも、はるかに立派な応戦ぶりだった。被告は証人が公務員だったが免職になったくだりにもう一度話を戻し、年金が100%出ていたなら不当免職ではないことを証明しようとする。

被告:年金は100%支給ですか?
証人:・・・。
メイ裁判長:証人、年金は100%支給ですか?
証人:後進の若手を育てる仕事を数ヵ月やらされた後、強制的に辞めされられたんです。
被告:私の質問に答えて頂きたい。年金は100%支給されたんですか?
メイ裁判長:証人は質問に答えて下さい。
証人:年金なんかありません。
被告:でもあなたが辞めた91年にはあったんじゃないですか?
証人:被告がどうしてこの点にこだわるのかが分かりません。
被告:あなたが証人としてきちんと証言しているかどうか、年金なしに本当にクビになったのか、それともきちんと扱われていたのかどうか、これは重要なポイントなんです。
証人:・・・私はクビになって、だいぶ後になってからわずかながらの年金が来るようになったんです。

   証人、譲らず。最後までミロシェヴィッチ被告に押され負けず、証人席を去る姿も背筋がきちんと伸びた人という印象。一方被告も相手が政治家だろうと農業だろうと手加減なしのガチンコ勝負だ。緊張した質疑を時折中断させて取り持ったメイ裁判長に好感が持てた。現場の目撃証人は大統領の命令・司令を証明出来る立場にはないが、ともあれセルビア人勢力(共和国警察、ユーゴ軍、民兵など)の蛮行をきちんと説明出来たならば被告はそれほど内容には突っ込めない。

2月26日 アグロン・ベリシャ証人
   公判は3週間目に入り、さすがにマスコミの数も減っているという。ユーゴのテレビも3局が中継していたが、今週からYUINFOが撤退(残る2局は国営セルビアTV=RTS第3放送とB92テレビ)、少々ルーティーンに入った感がある。ユーゴ報道陣の関心は「どうやってミロシェヴィッチ被告は証人側の情報を調べているのか」。本人とトマノヴィッチ氏は「外部との接触が制限されていて不公平だ」と言っているが、証人に対して「あなたの住んでいる町のガソリンスタンドはコソヴォ解放軍の武器庫に使われていただろう」「ナニナニ村からはドコソコ村が見える距離ではないのか」とか、時にはアルバニア語を引用するなど、詳細なデータを準備しており、バックには旧政権の警察か軍しか持っていない情報にアクセス出来る人間が控えているとしか思えない。恐らく拘置所から電話で「作戦本部」と連絡を取り交わしているのだろう。
   ベリシャ証人はスーヴァ・レーカ出身、38才の産科医で、空爆開始直後に警察が町のピザ屋を攻撃、市民に多数の死傷者が出たことなどを検察側に語った。被告側はこの話には深入りせず、同じ町でコソヴォ解放軍にセルビア人が殺された事実を知っているか、空爆の被害を知っているか、といった質問を続けた。

被告:98年6月22日にスーヴァ・レーカから3キロの村でセルビア人警官が殺された事件は知っていますか?
証人:いいえ。
被告:では7月24日の事件は?
証人:いいえ。
被告:まだ何の事件か言っていませんよ。(中略)

被告:昨日は検察官に対して、空爆被害に関しては何も見ていないと言いましたね。
証人:空爆開始後3日でコソヴォを離れざるを得なかったからです。
被告:99年3月24日、つまり空爆初日ですが、スーヴァ・レーカ近くのヴコヴァ・グラーヴァの放送塔が爆撃された件は?
証人:ヴコヴァ・グラーヴァは町から結構遠い所ですから、揺れも感じませんでしたし、夜で何も見ませんでした。
被告:何で夜だって知っているんですか?

   この証人との質疑は引き分けの感だったが、証人6人目、ミロシェヴィッチ被告の尋ね方が巧妙になってきたのが分かる。今後はいい加減な事実関係しか話せない証人は被告側にやり込められるシーンがあるかも知れない。

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質疑の内容は筆者がベオグラードのテレビ放送(アルバニア語、英語についてはこの放送の同時通訳)からメモを取ったもので、裁判の公式記録とは異なる場合があります。また内容に大きく影響しない範囲で、質疑の順序を筆者が入れ替えている場合があります。本文の無断転載はご遠慮下さい。