「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2001/02/22 21:50

第42回配信
武器よ、さらば


山の懐に抱かれた可憐な町トルミン(左)。右端の高い山からアルプスが始まる
   スロヴェニアは旧ユーゴ諸国の中ではダントツの経済・産業先進国ですが、「最先進国」というレッテルからは想像するのが難しいほど風景の美しい国です。北には旧ユーゴ最高峰トリグラウ(2863m)とボヒン、ブレット両湖。南のカルスト(この世界的に知られた地理用語はスロヴェニア語です)地域にはユネスコ世界遺産のシュコツィヤン、欧州最大のポストイナ両鍾乳洞。こうした観光地でなくても、小さな町や、背景の森と調和した耕地はどこも美しく整えられていて、バルカンのガサガサした風景(?)に見慣れた私などは、長年オーストリアの影響を受けて培われた勤勉なスロヴェニアの国民性を感じざるを得ません。
   今回は「(旧)ユーゴ便り」で初めてスロヴェニアを取り上げようと思いますが、首都リュブリャーナではなく、ずっと西のイタリア国境に近い所、ソチャ川上流域にご案内します。どこのガイドブックにも出ていない、このページの読者の皆さんだけのための観光穴場情報ですよ。

V prirodni lepoti     自然美のなかに

   昨年8月末から9月上旬、11月の2度にわたって日本のテレビ局の文学関係のドキュメンタリー取材で滞在したのですが、何しろ旧ユーゴでも一番端の地域ですから、12年近く旧ユーゴ各国を動き回っている私にとっても初めてのソチャ上流域でした。最寄りの空港はリュブリャーナではなく、イタリアのトリエステ空港(この空港はトリエステ市からはかなり離れたモンファルコーネ市の西、ロンキ町にあります)。アリタリアのローマ乗り換え国内線で到着した取材班と合流した私は、ソチャ川沿いの町モーストに住むラドヴァンさんの運転で北へ向かいます。かつては「鉄のカーテン」として旅行者にも厳しい取り調べと緊張が待っていたイタリア・旧ユーゴ(=現スロヴェニア)国境は、全く問題なくすんなり通過。何しろスロヴェニアも次回欧州連合(EU)入りの最有力候補ですからねえ。
スロヴェニア西部
   国境の町ノヴァ・ゴリツァを過ぎると間もなく道はソチャ川にぶつかり、河の西岸沿いに北上して行きます。美しい緑の川に周囲の森が映えます。家並みはスロヴェニアの他の地域に比べゲルマン的な感じが希薄で、むしろ北イタリアと同じような印象です。やがて川筋が広くなると、人造湖の町モースト。ここからがソチャ上流域です。東岸に移って、可憐な町トルミン。ソチャ上流域の中心になる町ですが、中心と言っても人口約4000、日本で言えば信州の高原かスキー場の麓にありそうな小村です。トルミンから再び西岸に戻って道をしばらく進むと、ソチャを見下ろす緑の山々の向こうから一段高く、険しい山並みが見えて来ます。三角形の特徴ある頂がクルヌ山(2245m)。緑であることを拒むような、白い岩壁が突然現れる驚きも醒めぬうちに、山々の懐に抱かれた、これも小さな町コバリド(人口1600)に着きます。
   クルヌ山から北がアルプスです。イタリア、オーストリア、スイスへ続く、ここから先は山、山、山。「これだけ山に囲まれていると、海が近いっていう実感がないけど、小一時間でロンキ空港からここまで来ちゃったね」という私に、地元のラドヴァンさんは少し誇らしげに、「そう、ここはソチャ川に沿って地中海に開かれているからね、リュブリャーナより暖かい所なんだ。地中海とアルプスがぶつかる所なんだよ」。
コバリドの夕景。ソチャ川から霧が立ち上る
   私が住むセルビアの人々は、「スロヴェニアはオーストリアの第10の州」と揶揄しますが、この地域はイタリアまで主要道で40分、近道したければ山を一つ越えるだけ、という所ですから、イタリアの影響がいろいろなところに見られます。ラドヴァンさんは言います。「私の世代では、スロヴェニアの他の町の学校ではドイツ語が大抵第一外国語だったけど、ここではイタリア語の方が普通でね。もちろん息子の代になった今は英語だけど」。レストランのメニュー、観光パンフにはスロヴェニア語、ドイツ語、英語の他に必ずイタリア語が入っています。トルミンのある団地のポストには、スーパーのチラシが入っていましたが、よく見るとウーディネ、トリエステ、ゴリツィアなど北東イタリアに店舗を持つチェーンの宣伝で、スロヴェニアには支店がありません。「いくら旧ユーゴ最先進国でもウチの国にはかなわないでしょう、ぜひ買いにいらっしゃい」というイヤミを感じないではないのですが、そこは大した商魂で、イタリアリラではなくスロヴェニアの通貨トラールで価格が表示されていました。もちろん商品名なども全てスロヴェニア語です。
   正確な資料は手元にありませんが、ソチャ川は水質の高さでも欧州有数、と地元っ子は胸を張ります。美しい山と川が、何よりここの人々の誇りです。トルミン生まれの詩人、シモン・グレゴルチッチ(1844−1906)の詩をご紹介しましょう。グレゴルチッチは聖職を志し、ブルゲンラント(現オーストリア)の管区主祭に昇進する前はコバリドの司祭を務めていました。1882年発表の詩集が有名ですが、自然や農民生活のほかに恋愛詩も含まれているため、カトリック系の批評家からはかなり叩かれたようです。「ソチャに」という長詩の一部を訳出してみます。


素晴らしきかな、山々の澄んだ娘よ
自然美の中に際立つ透き通った深みは
暗い嵐の怒りにも濁ることはない
素晴らしきかな、山々の娘よ
その流れは軽やかに躍る山村の乙女の歩み
明るさは丘の空気
通る声は活発な若者の歌
素晴らしきかな、山々の娘よ
元気なその波を眺めるのが好きな私
緑と青のその波を
深緑は山の草地、群青は空の高み
美しく溶かし込んだものだ

   今回の滞在は仕事ですが、文学のドキュメンタリーということで、トルミンに住む文学者、ディミタル・アナキエフさんと一緒に山歩きをする機会に恵まれました。ソチャの支流、トルミンカ川を遡ってポロク地区までは車で細い道を30分。ここから歩き出してさらに山の中へどんどん入って行きます。山の清水を集めたトルミンカの清流が、ゴウゴウ音を立てながら谷間を流れます。道はくねって、その音が近づいたり、遠ざかったり。他には砂利や枯れ葉を踏みしめる私たちの足音しか聞こえません。心が清められるような所に、久し振りに来た気がしました。ついでに肺も清めればいいのに、軽い一汗の後の一服がまた美味いんですよねえ・・・。ふと見上げると、私たちの前にそびえる山に沿って、雲が微妙に渦の形を変えながら流れていました。

navzocna je zgodovina     歴史は現前する

   「はるか下に、敵味方をへだてている河の流れが日に光っているのが見えた。尾根づたいに走っている、まだよくならしていない新軍用道路を進んでいった。北のほうの二つの山脈をながめると、雪線までは緑色にかげり、そこから上は陽光をうけて真っ白に美しく輝いていた。やがて道路が山の尾根づたいに登っていくにつれて、また別の山脈があらわれた。さらに高い山々で、白堊のように白く、しかも襞があり、奇妙な平面がいくつかついていた。すると、それらの山々のはるかかなたに、また山々が望まれたが、もうそれは、あるかなきかくらいにしか見えなかった。それらは、ことごとくオーストリア側の山だった。」(「武器よさらば」第一編第8章、新潮文庫版 大久保康雄訳)
「武器よさらば」の舞台はソチャ川沿岸。コバリド博物館にもヘミングウェイの肖像があった
   アーネスト・ヘミングウェイが1918年、アメリカからの義勇兵としてイタリア軍に従軍し負傷したのは、ソチャ流域よりずっと西のピアーヴェ河畔(現イタリア)です。しかしその時の経験を基にした出世作「武器よさらば」では、舞台はソチャ(イタリア名イゾンツォ)の戦いと、コバリド(イタリア名カポレット、ドイツ名カールフライト)からの退却として知られる出来事に時間も空間も少し動かされています。アナキエフさんによれば、「小説が上梓されたのは負傷から11年経った29年なので、この間にソチャ川沿岸に取材に来ている可能性がないではない」とのことです。小説の中でコバリドのことは、"a little nice place"(第三編第27章)と言及されています。
   戦乱に満ちた20世紀が終わった現在から見ると、特に日本人の私たちにとっては、第一次世界大戦はそれほどのインパクトをもって実感され得ません。しかし、1914年サライェヴォの「号砲一発」に始まった戦争は、歴史上なかったほど多くの国と、非戦闘員を含む多くの人々を巻き込みました。各戦域で塹壕戦のにらみ合いになったことから戦争は長期化し、これを打開するため迫撃砲、毒ガス、さらには地雷など、歴史の浅い兵器が本格的に使われることになりました。今でこそ静かなソチャ上流域は、この未曾有の戦争の中で「イゾンツォの戦い」として長く記憶される激戦地の一つになったのです。
   1915年5月、イタリア国王ヴィットリオ=エマヌエーレ3世はオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告、ここにヨーロッパ戦線はイタリア・オーストリア・スイス国境600キロ分拡大することになりました。ソチャ沿岸地域は、トリエステなどと同様、開戦前夜はオーストリアに属していました。この戦線では当初イタリア側が優勢で、6月にはコバリド、クルヌ山を占領。これから12次にわたって繰り広げられたイゾンツォの戦いの中で、山岳地帯に無数の塹壕やトンネルが掘られ、トーチカが作られていきました。史上初めての2000mを越える山岳での戦争では、一進一退の膠着状況が長く続きました。トンネルを掘っているうちに敵のトンネルに行き当たってしまったり、敵のトンネルを真下から爆破するようなケースもあったと言います。クルヌ山中のバトグニッツァ峠は4200キロのダイナマイトの爆発によって形を変えてしまいました。しかし多くの弾薬が使われ、多くの兵士が倒れても、険しいこの地域の戦況は1917年秋まで大きく変化することはありませんでした。
「第12次イゾンツォの戦い」直前、オーストリアは茶色、イタリアは黄緑色の地域を押さえていた。赤はこの戦いでのオーストリア・ドイツ合同軍の進攻方向を示す
   1917年9月、オーストリア皇帝カルル1世はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世にソチャ地域への援軍を要請。ドイツ軍司令下のオーストリア・ドイツ合同第14軍が編成され、9月20日までに展開を終えます。当時の状況は右図の通り、トルミン以北ではイタリア(黄緑色)がソチャ川を大きく越えてクルヌまで東岸を支配、逆にトルミン以南では西岸までオーストリア(茶色)が押さえ、全体としてはほぼ南北一直線に対峙していました。
   10月24日、オーストリア・ドイツ合同第14軍は総攻撃を仕掛けます。北からオーストリア=ハンガリー第22師団、トルミン方面から第12射撃師団が前進しコバリド近くで合流、最初の数日でオーストリア側の優勢は決定的なものになりました。これがオーストリア側が「カールフライトの奇跡」、イタリア側が「カポレットの退却」と呼んで大戦後も記憶されることになった第12次イゾンツォの戦いです。イタリア軍はイゾンツォ、すなわちソチャ沿岸からの総撤退を決定、道には何万人もの兵士や難民があふれたと言います。兵士だった「武器よさらば」の主人公ヘンリーが脱走を図るのも、この「カポレットの退却」のどさくさだったことになっています。
   上に書いたような戦史を語ってくれたのは、コバリド博物館のジェリコ・ツィンプリッチさんです。「17年秋以降、オーストリア・イタリア戦線はずっと西のイタリア北部、ピアーヴェ河畔に移動しました。なおもオーストリア側の優勢が続き、ヴェネーツィアまで攻め上る勢いでした。しかし19年1月のヴェルサイユ講和会議で第一次大戦は終結し、戦敗国となったドイツ・オーストリアは、北イタリアはもちろん、ソチャ川上流域も手放さざるを得なくなりました。多くの兵士の戦いが全くの無駄になったのです」。
コバリド博物館で展示を説明するZ・ツィンプリッチさん(左)
   イゾンツォの戦いは第12次だけでイタリア側に死者1万、負傷者3万、捕虜30万などの損失をもたらしました。一般住民は約10万が難民化したと言われています。現在のスロヴェニア領は大半がオーストリア領だったことから、スロヴェニア人はオーストリア軍に動員されていることが多いのですが、ソチャ地域ではイタリア軍に動員されているケースも少なくありません。ツィンプリッチさんは言います。
   「私の祖父もこの戦いで従軍しています。スロヴェニア人は両国軍の兵士として戦わなければならなかったのです。いずれにしても、この博物館はオーストリア、イタリアと分け隔てることなく、あるいはスロヴェニア人だけの犠牲を強調することなく、戦争の空しさを後世に伝えるために1990年に建てられました。これを語り継いで行くことが私たちの務めだと思っています」。イゾンツォの戦いをメインテーマとするコバリド博物館は93年、「ミュージアム・オブ・ヨーロッパ」に指定されました。
納骨堂の壁にはこの地で倒れたイタリア兵7014人の名が「現前す」の語とともに刻まれている
   コバリドを見下ろす聖アントゥンの丘には、イタリア兵士の納骨堂が建てられています。この地での戦いに倒れた7014の兵士の名が刻まれている他、2748人の無名兵士も葬られています。私は9月、11月の2度この納骨堂を訪れていますが、兵士の子孫なのでしょうか、墓参に訪れるイタリア人がいずれの月も少なくありませんでした。数十人単位の名前を刻んだ石の壁が何十枚も連なり、それぞれの壁の上部にはPRESENTE(現前す)と書かれています。歴史は、コバリドに現前しているのです。コバリド付近には今でもイタリア軍のトーチカが残っていますし、トルミン周辺ではオーストリア軍側のトーチカや礼拝堂を見ることも出来ます。
   第一次大戦後、ソチャ川上流域は「戦敗国」オーストリアから「戦勝国」イタリアに編入されました。新生国家セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人連合王国(ユーゴスラヴィアの原型)はコバリド、トルミンより10キロほど東方を国境としており、この地域がユーゴスラヴィアに入るのは第二次大戦後のことです。1991年にはスロヴェニアが独立(国際承認は92年)しましたから、ソチャ上流域は20世紀の間に4つの国に帰属したことになります。

ampak, korak naprej     されど、一歩前進


   第二次大戦と91年の独立紛争時、幸いこの地域は第一次大戦時のような規模で戦火に巻き込まれることはありませんでした。今ソチャ上流域は、若い国家スロヴェニアの他の地域同様、いやそれ以上に観光の発展に努力しています。
(上)体力派にはお奨め、スリル満点のラフティング(下)太公望には清流でマス釣りもマル(写真提供両葉とも:Hotel Hvala)
   旧ユーゴ時代にはスキー客を迎えていましたが、セルビアなど旧ユーゴ東部からの客が激減。それに先進国のスキーヤーも、雪質やスキー場の規模から行けば、やはりスキーW杯の行われるクラニスカゴーラなどに流れてしまいます。そこで現在地元観光当局が力を注ごうとしているのがサマースポーツです。ソチャ上流域観光協会のM・ルタル会長は言います。「ソチャ川、ユーリーアルプス、歴史の散策を通して、美しい自然の中で楽しい休暇を提供できることが私たちの切り札です。カヤック、カヌーやラフティングなどの水上スポーツはもちろん、登山やサイクリングなども楽しめますし、パラグライディングも盛んです(筆者注:冒頭のトルミンの写真を撮影したのもパラグライダーのスタート地点です)。ヘリ・セスナでのパノラマ観光も準備しています。水陸空どこからでもソチャ流域の自然を満喫できるのです」。
   なるほど、本格的な登山が好きな方にはトリグラウ国立公園はすぐですし(国立公園内は環境保護のため自動車の乗り入れ、キャンプ設営、騒音などに厳しい制限を設けていますのでご注意下さい)、それほど体力派でない方にもサイクリングコースは難度別に推薦コースが設定されています。太公望にはソチャ流域独自種と言われているマス(ポソシュキ・パシュトゥルヴ)釣りもお奨めです。
   ルタル会長は、「今後は民泊施設や農家での滞在を楽しむアグロトゥーリズムを整備して行く方針です。しかし正直に言って、この地域の観光は始まったばかりですから、ホテルは5つしかないなど、まだ観光インフラが乏しいことは認めざるを得ません。」と言います。
(上)トプリ・ヴァルの豪華シーフードグリル(下)経営者ウラディミール・フヴァーラさん
   その5つしかないホテルのうちの一つ、コバリドのホテル・フヴァーラに滞在しました。リュブリャーナの超一流ホテルにはさすがにかないませんが、清潔で、従業員のサービスも家族的な雰囲気で気持ち良く泊まることができました。割高感のあるリュブリャーナなどのホテルに比べるとローシーズンでシングル4900トラール(約2500円、11〜3月、クリスマス期を除く)、夏のハイシーズンでも7500トラール(約3300円、7〜8月)と廉価です。ホテル1階はシーフードレストラン「トプリ・ヴァル(暖かい波)」。「アルプスの始まるところ」というほど山中のシーフードじゃあ・・・、と筆者は最初ちょっとバカにしていたのですがどうしてどうして。新鮮な魚貝のグリルを味わいながら、改めてイタリアやクロアチアが近い所だということを思い出した次第でした。
   オーナーのウラディミール・フヴァーラさんに話を聞いてみました。「高校を出て最初はトルミンのホテルで修業した後、スロヴェニア海岸のポルトロージュのホテルで働きました。その時にシーフードに開眼しちゃったんですね。25年前の当時、こちら地元では魚と言えば川魚で、シーフードなんてとてもとても、という雰囲気でした。でも海の珍味もソチャのマスも同じ場所で楽しめる方がいいじゃないですか。地元に帰ってきて最初は喫茶店を開業するのがやっとでしたけど、やがてはシーフードレストランをやるぞ、と心に決めていたわけです」。
   念願かなってレストラン「トプリ・ヴァル」を開業、たちまち評判の店になり地元はもちろん、スロヴェニア中から客が来るようになりました。96年に旅行代理店コンパス社が経営していたホテルを融資を受けて買収、70日間で改装し現在のホテル・フヴァーラが出来ました。「今でも前の『トプリ・ヴァル』があった場所に最初に間違えて行ってしまうお客さんがいるんですよ。昔ここでおいしい魚を食べた、というのを覚えて頂いていて。コバリドは小さい町ですからすぐ今の場所も見つかりますけどね」。
   因みにフヴァーラはスロヴェニア語で「有難う」の意味です。サービス業をするために生まれてきたような名字ですが、ソチャ上流域には多い姓だとのこと。伝統のない海の味をコバリドに定着させた気骨と、ボーイから鍛え上げて経営者になったフヴァーラさんのサービス業に対するしっかりした考え方。旧ユーゴには社会主義の旧態依然でダメなホテルはまだいくらもありますが、このホテルとレストランの滞在を気持ちのいいものにしているのはフヴァーラさんの半生が投影されているからであることは間違いない、と思いました。
   「サマースポーツは10月いっぱいまで可能です。イタリアとオーストリアのお客さんが多いですね。それからフランスとスイスの方。でもアメリカ、カナダ、オーストラリアからも来てますよ。コバリド博物館が出来てからは歴史散策をされるご年配の方も増えました。ぜひ日本の皆さんにもマス釣りや山歩きをしながらソチャの自然や歴史を楽しんで頂きたいですね」とフヴァーラさん。ルタル観光協会長の言うように、若い国スロヴェニアの中でも、本格的な観光による地域振興が始まったばかりというソチャ上流域ですが、こうしたしっかりした人々が支えている限り心配はないな、と思いながらコバリドを後にしました。


アクセスは確かに楽な所ではありませんが、クルヌ山(写真)と美しい自然が待っています(写真提供: Hotel Hvala)
   リュブリャーナからのアクセスは列車の場合北部のイェセニッツェ経由がモースト(・ナ・ソチ)まで約2時間半、バスの場合は北回りより中部イドリヤ経由が早く、トルミンまで2時間半から3時間。道路状況は良く、自家用車ならリュブリャーナから1時間半で着きます。
   筆者はセルビアクロアチア語のように方言の違いを楽しむほどスロヴェニア語に堪能ではないのですが、トルミンでは面白いことに気付きました。トルミンっ子は自分の町のことをTOLMINではなくトゥミンTMINと言います。地元ローカルテレビ局はもちろんTV TMIN。また標準スロヴェニア語では「ザグレブに行こう」は「グレーモ・ウ・ザグレブ(Gremo v Zagreb)」と言いますが、この地域のGの音はノドの奥から出すHに近い感じで、「フレーモ・ウ・ザフレブ」と聞こえるのが何とも可愛らしい気がします。
   オイシイ話ばかり書いたようですが、2つほど注意事項もあります。ソチャ上流域は地震ベルト上にあるため、一昨年も山間部でがけ崩れがありました。大きな人的被害は出ていません。また本文にも書いたように第一次大戦の激戦地ですから、あまり人の入らない山の中には不発弾がある可能性もあるとのことで、私も滞在中金属探知機を持った好事家グループに会いました。まあ地雷ではありませんからよほどのことがない限りケガをする可能性は小さいとは思いますが、山歩きに行かれた方は一応ご注意下さい。

(2001年2月下旬)


以下の各氏に謝意を表します:D・アナキエフ、Z・ツィンプリッチ(コバリド博物館)、M・ルタル(ソチャ上流域観光協会)、V・フヴァーラ(ホテル・フヴァーラ)、特記のない写真の大半は2000年8月、9月、11月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。
Hvala za sodelovanje: D.Anakiev, Z.Cimpric (Kobariski Muzej), M.Rutar(Turisticna zveza Gornjega Posocja), V.Hvala (Hotel Hvala/Topli Val). Vsaka uporaba teksta in slik brez dovoljenja je prepovedna.


プロフィール> <最新レター> <バックナンバー> <(旧)ユーゴ大地図
落書き帳(掲示板)> <関連リンク集> <平和問題ゼミナール> <管理者のページ


当サイトは、リンクフリーです(事後でもいいので連絡ください! →筆者メール )。
必ずカバーページ(http://www.pluto.dti.ne.jp/~katu-jun/yugo/)にリンクをはってください。

CopyRight(C)2001,Masahiko Otsuka. All rights reserved.
Supported by Katsuyoshi Kawano & Kimura Peace Seminar
更新記録 大塚真彦プロフィール 最新のレター レターバックナンバー 旧ユーゴ大地図 落書き帳 関連リンク集 平和問題ゼミナール 管理者のページへ