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ryuichi sakamoto
  スタジオ内完結型の坂本イズム

― あるいは「完全」への飽くなき欲望 ―

solo works chart
 

音楽にとっての「完成」とはなんだろう。この問題は、実に多元的な意味合いを含んでいるように思える。究極的に完成度の高い音楽として、一般的な評価を勝ち得ているものに、例えばベートーベンの交響曲第五番がある。(例としてちょっとおあつらえ向きすぎる気もするが。)俗に運命交響曲といわれているあの作品だ。この交響曲では、冒頭で提示されるわずか4音のモチーフが、各処で多様に表情を変化させつつ、全4楽章を貫いていて、音楽的な構築物としては、非のうちどころのない完成度を誇っている。

運命交響曲の形式上の完成度の話にのみ終始すると、なんだかその曲が堅苦しいもののように思えてくるが、実際に聴いてみると、僕らはとても「自由」を感ずるし、曲が進むにつれ、様々な圧迫から解放されていくような感動に包まれる。僕は『音楽図鑑』と『未来派野郎』(殊に前者において)を聴く時、その舌を巻くような緻密なサウンドに驚愕の入り混じった感銘を受けつつも、僕は、音楽にとっての「完成」とは何か、という問いに何度となくとらわれた。

「スタジオ内完結型の坂本イズム」と僕が呼ぶのは、もちろん事実を表した言葉ではない。どちらのアルバムにも多くのミュージシャンが参加している。しかしながら、坂本龍一は、彼らにその持ち味を充分発揮できるだけの自由を与えてはいない。原則的には、堅牢な坂本イズムみたいなものが全編を制御している。病理現象と紙一重ともいえるほどに、ある「完成」(もしくは完全)に向けて憑かれたようにスタジオワークにのめり込んでいく人。それがこの2つのアルバムに共通する作曲者の姿勢だ。

そういう意味では、後年、パーカッション・パートをほとんどSP-1200を中心としたDJ集団に任せた『HeartBeat』以降のアルバムと好対照である。いささか自閉症気味なスタジオワークと誰にでも抵抗なく受け入れられるポップさが同居している感じは、坂本龍一の複雑な性格をよく示している。良きにしろ、悪しきにしろ、打ち込み的な、あまりに打ち込み的な作品群。

また、YMO時代に比べると、全体的に音色の著しい変化がみられる。これは従来のProphet5中心の音作りから、Fairlight CMIもしくは、YAMAHA DXへと使用機材が変化したからだ。僕自身精通してるわけではないし、機材のことには極力触れない方針だが、とっても大きな直接的な変化なので一応言及しないわけにはいかないだろう。特に機材の技術革新が、作曲者の楽想に支配的に働いているケースでは止むを得ない。もっとも坂本龍一は、「スタジオ・ミュージシャン」(註)ではないから、新機材の登場に作曲のイニシアチブまで奪われることはほとんどない。

ついでに、この2つのアルバムは独立した法人、株式会社MIDIのSchoolっちゅうレーベルからリリースされている。依然として、発売元はMIDIincだ。興味がないので、そのへんの事情は知らない。知りたい人は検索してね。(←すごくいい加減)

【註】僕がここでいう「スタジオ・ミュージシャン」的になるものとは次ようなものだ。頭にはこれといって自前の新しい音楽はない。彼にしか醸し出せないような演奏技術もない。ただ音楽理論のオートマチズムと新機材の便利な機能に依存し、専らそれに導かれるかたちで新機材のデモ・ソングじみた楽曲をつくったり、伴奏したりするタイプの人達ということである。


1984 - ILLUSTRARED MUSICIAL ENCYCLOPEDIA
(日本名)音楽図鑑
ポストYMO、第一作目。CMのBGMの作曲などを依頼された時に提供するために、 ストックしておいた素材をアレンジし直してアルバムとしてまとめたもの。 題名の通り、実にいろんなスタイルの曲が収録されていて、とっても楽しい万華鏡のようなアルバムだ。

確かにほとんど全て曲が、ひとつのぎりぎりの完成度を現出している。精巧な造詣物の展覧会でもみているようだ。そして、ひとつひとつの作品に近寄って仔細に観察してみても、それを構成するパーツはひとつ残らず入念にこしらえらていて、全くスキがない。曲の全景も部分も申し分ない。

しかし、この「完成」には、次ぎに続くような、これ以上の広がりはないのではないか、という漠たる不安をもよおさせるものがある。何かが欠けているのだ。しかもそれは元から坂本龍一になかったものじゃない。坂本龍一を一種偏執狂のようにスタジオワークに赴かせた原因は、現在ではある程度、彼の発言から多少明らかになっている。やはりYMOの存在は、彼のようなタイプの天才にも大きな存在だったのだ。(YMOhi-story エピローグ参照。)

1,Tibetan Dance。素朴なチベットの少女の笑顔。風にそよぐ小さな草花達。村人達の愉快な踊り。この曲には、ダブ的な別ヴァージョンもある。それは発想として、80年代後半以後のいわゆるREMIXというより、やっぱり元祖的なダブ。

2.Etude。Jazz風の曲にのせて、男の憂愁。時折よみがえる少年時代の記憶。 曲中突然テンポが激変して、Jazzセッションがカットインしてくる。

3,Paradaise Lost。南の国のジャングルのうらぶれたカフェ。 古いラジオからは、エキゾチズムを誘う異国の言葉が流れてくる。 時折、空港のアナウンスが割り込んでくる。遠くからかすかに聞こえてくるのは、雷鳴だろうか、いや爆発音だ!

4,Self Portrait。けがれなき心をもった王子の一途な正義感。

5,旅の極北。大地を覆う白い雪。容赦なく吹きつける吹雪。上空からみるとひとつの小さな小さな黒い点。コートを飛ばされまいと必死にはおりながら、 吹雪きのなかを黙々と歩く旅人。その脳裏に去来する春の日差し。 主演は、やっぱり高倉健でしょう。

6,M.A.Y. In The Backyard。非常に抽象度の高い、幾何学的な構造をもった曲。こうした知性に気持ちいい曲も教授の好んで作曲するスタイルのひとつ。この曲は、実際にある時計のCMのBGMとして使われた。

7.羽の林で。坂本龍一によると、「太極拳のようにゆっくりした動きのなかにも、 大きな力をはらんでいる感じをリズムで表現したかった」とのこと。立花ハジメがこの曲のミュージック・ビデオを制作している。あと「D&L ライブ」での意表をついた演奏。

8,森の人。作詞は、矢野顕子。詩の内容は、大自然に生きる動物達を現代的なおとぎばなし風に描写。 後半に「僕」のつつましやかな願いが交錯してくる。

9,A Tribute To N.J.P。NJPとは、韓国人のビデオアーティストであるナム・ジュン・パイクのこと。当時来日中であったNJPと坂本龍一の交歓の記念。

10.Replica。機械音のsamplingと共に一つの主題を延々に繰り返す。前出のNJPがこの曲のミュージック・ビデオ(というよりコラボレーションかな。)を制作している。

11.マ・メール・ロワ。ラベルの作品に同名のバレエ音楽がある。児童合唱団が歌うのだが、そのメロディーが楽器で奏でるならわかるが、歌うには不向きなものなのだ。未だに教授がなんでこんなことをしたのか理解できない。

12.君について。この曲は発表当初は、テープ版にしかついてこなかった。生命保険のCMソング。

1986 - FUTURE BOY
(日本名)未来派野郎
このアルバムが出る直前、サウンドストリートで、教授が声をはずませて、「新境地を開きました!期待していてください。」と言っていたのを思いだす。『音楽図鑑』が割と寄せ集め的なアルバムだったのに対して、これはコンセプチャルなアルバムである。

『音楽図鑑』ですっかり教授のファンになったひとも、『未来派野郎』を聴いて、「あれ?」ということにはならなかったに違いない。 確かに、『音楽図鑑』を楽しんだひとなら、特に新しく自分の音楽的感性を開拓する困難なしに、すんなり『未来派野郎』に移行できるぐらいに両者のサウンドの感触に大きな隔たりはない。

未来派について。今世紀初頭、特にイタリアやロシアにおいて広まった前衛芸術運動。マリネッティの「未来派宣言」(1906)に端を発する。その理念は、伝統文化の否定、機会、速度、危険、闘争、女性蔑視などの肯定と賛美。機械文明を礼賛して、生物の身体の動きの機械的側面を強調した、奇妙な絵画を描いてみせたりした。

イタリアでは、後にファシズム擁護つながっていく。ロシアにおける運動の多元的な展開は別として、まだ科学万能神話の信じられていた頃の軽薄なムーブメントに過ぎない、と僕は理解している。科学技術が大量殺戮をもたらす可能性を有するという教訓を学ぶハメになった今日、これといった成果もないので、現在ではほとんど顧みられることはない。

dog small
未来派の画家Giacomo Ballaの代表作
「鎖につながれた犬のダイナミズム」(1912)
しっぽや四肢の「運動」の軌跡をフラッシュ撮影のように描くことによって、犬の「機械」的側面を強調する。未来派野郎のジャケットの坂本龍一の像を彷彿させる。(画像をクリックすると拡大画像がご覧になれます。)

サウンドに関して、特筆すべきは、「機械音のサンプリング」の多用だろう。さらにアルバムに添えられた歌詞カードに描かれた大きなモーターの回転のように金属的でパワフルだ。それならば無機的な音楽かと思いきやさにあらず。表現内容は、とても叙情性豊かなもの。そして、そこにこのアルバムの一筋縄ではいかない奇妙なコンセプトが託されている。

ハイテク・フュージョン「黄土高原」。ロボット・バラード「Ballet Mecanique」。ノイズの波浪をかき分けて突き進む歌曲「大航海」。これらの曲からは、無機的であるハズの機械的金属的な音で、叙情性を表現しようという試みがよく伝わってくる・・・・というより当時の彼の持論から解釈すると叙情性は数値化され得るというテーゼが提示されている、と言ったほうが正確かもしれない。(勿論、実際に数値化されたのではなく、イメージとして表現されている。)そして、それは決して冷たいものではない。つまり、それが、坂本龍一にとっての「未来派」だったんだと思う。
【註】ハイテク・フュージョン、ロボット・バラードは、曲調から想起した僕の勝手な造語。

この頃、名プレイヤーの演奏法をデータ化するということがさかんに試みられた。その人独特のゆらぎもデータとして採取するのだ。(今でも研究されている。)坂本龍一もそうした打ち込み技術の革新に強い関心を寄せていた。彼には根強く人間機械論的な一種の唯物主義みたいな思考があった。悪友・村上龍との『YOU』での新春対談(司会が日比野克彦の頃)でも、将来的には、ある演奏家の生体的な特徴の膨大なデータを採取し、高機能のコンピュータで演算すれば、生身の演奏家の演奏を完全に再現できるだろう、といった趣意の発言をしていた。

まあ、それが音楽制作のためのコンセプトならまだしも・・・・軽薄。返ってセンチメンタリズムの反動というか。どうかしてる。もっとも、メディアバーン・ライブでは、従来どおり生演奏でノリを醸し出したりと、その方法を突き詰めるということはなかった。つまり、この頃の彼は常にそうなのだが、またしても、音楽家としての直観の健全さに助けられたわけだ。

『メディア・バーン・ライブ』は、ライブの持つ固有の論理とダイナミズムによって、坂本イズムの中核に向かってぎっしりと一塊に凝固していた音素達が、強力な磁力のようなものの影響下から解放されていく諸相を現出する場として、図らずも坂本自身と聴衆に提示される成り行きとなった。そうした視点から『音楽図鑑』や『未来派野郎』と『メディア・バーン・ライブ』を聴き比べてみると一層諸々の事態が明らかになる。

「G.T.U」は、アルバム『未来派野郎』の中では、坂本龍一の「完成」や「完全」への飽くなき欲望を最も端的に示している。(もしかしたら、一種のフェティシズムといった方が適切かもしれない。)メロディーのバックで鳴っている「機械音のサンプリング」の構成の凝りようは凄まじい。これをもはや常軌を逸した偏執と受け取るか、天才の仕業と受け取るか、あるいは、天才性と病理性は表裏一体なのだと解釈するか、それは各人の判断にゆだねたい。僕自身一向に結論がでないのだから。
(99/06/27 加筆・補正)